第42話:影と光
その夜、グザールが再び現れた。
ライオスが宿屋に戻った後、深夜に村の外れまでシフォンを連れ出した。グザールから意思が届いていた。「お会いしたい。今夜だけでいい」と。
グザールが木立の陰に立っていた。
「魔王様」と低い声で言った。
「今日、勇者ライオスがここに来ていましたね」
「来た」と吾輩は意思を送った。
「話をされましたか」
「した。今は動かないと言われた。吾輩も、今は征服しないと言った」
グザールが「そうですか」と言った。
長い沈黙の後で。
「ライオスが……そういう男でしたか」
「想像と違ったか」
「正直に言えば」とグザールが言った。
「もっと単純な男だと思っていました。剣で解決する種類の」
「吾輩もそう思っていた。しかし違った」
「一つ、お願いがあって参りました」とグザールが言った。
「聞く」
「残党の者たちが、まだ各地に潜んでいます。ライオスの説得に応じた者もいますが、まだ迷っている者が多い。彼らが迷っている理由は——魔王様が本当に生きているのか、わからないからです」
吾輩は黙って聞いていた。
「魔王様がいると知れば、その意志に従う者が多くいます。今すぐ動けという意味ではありません。ただ——魔王様がいる、ということを、示していただけないでしょうか」
「どうやって」
「私が各地を回る際に、魔王様の気配を、ほんの少しだけ込めた印を持っていきます。"魔王様はいる"という証拠になる」
吾輩は考えた。
理にかなっている。吾輩がいると知らせることで、残党の判断の支えになる。しかしそれは、魔王としての吾輩の存在を広く知らしめることでもある。
「印を持ち歩くだけか」と吾輩は確認した。
「はい。今夜、魔王様の魔力を少しだけ込めた石を一つ、いただければ」
「わかった」
影から、ごく薄い魔力を出した。草地の小石を一つ拾って、そこに魔力の刻印を込めた。微弱だが、魔族なら感知できる程度の強さで。
グザールがその石を受け取った。両手で、丁寧に。
「ありがとうございます」と頭を下げた。
「残党に伝えます。魔王様は生きている、今は動くな、と」
「ただし」と吾輩は言った。
「勝手に動くな、とも伝えろ。吾輩が何も言っていない間は、静かにしていろ」
「承知しました」
その時。
シフォンが動いた。
夜の草地に、一匹の蛾が飛んでいた。大きな白い蛾が、月明かりに照らされてふわふわと漂っていた。
シフォンがその蛾を見た。目が輝いた。
「待て」と吾輩は思った。
「今は——」
シフォンが走り始めた。
吾輩は引きずられた。
シフォンは蛾を追って草地を縦横無尽に駆け回った。左へ、右へ、ジャンプして、転がって、また走って。蛾はひらひらと不規則に飛び、シフォンは全力でそれを追った。
グザールが固まっていた。
魔王との厳粛な対話の最中に、その魔王が宿る猫が蛾を追いかけて走り回っている。
「……魔王様」とグザールが言った。
「吾輩のせいではない」と吾輩は送った。
「はあ」
「この猫は、吾輩の言うことを聞かない」
「……そうでしたね」
シフォンが蛾に飛びついた。前足でぱしりと押さえた。しかし蛾は草の間に逃げ込んだ。シフォンが草をかき分けた。出てこなかった。
シフォンが「ウ゛」と悔しそうに鳴いた。
グザールが「聖獣様が……」と絶句していた。
しばらくして、シフォンは蛾を諦めた。
草地の真ん中にぺたりと座り、毛繕いを始めた。悔しさを紛らわせるように。
グザールが小さく咳払いをした。
「先ほどの話ですが」と何事もなかったように続けた。
「残党には、魔王様は生きている、今は動くな、とそのまま伝えます」
「そうしてくれ」と吾輩は言った。
「一つ確認してよいですか」
「なんだ」
「魔王様は——今、幸せですか」
吾輩は、その問いを受け取って、止まった。
幸せ、という言葉を、グザールが使った。長年仕えてきた右腕が、今の主に向かって「幸せですか」と聞いた。
「なぜそれを聞く」
「魔王様の声が、変わりましたから」とグザールが言った。
「もう何度もお会いして、確信しています。以前の魔王様の声には、常に張りつめた何かがありました。今はそれがない。それが良い変化なのか、悪い変化なのか、私には判断できなくて」
吾輩は、しばらく考えた。
幸せか。
「幸せかどうかは」と吾輩は言った。
「まだわからない。しかし——不幸ではない」
「それで十分です」とグザールが言った。
静かに、しかし確かな声で。
「お前にとって十分なのか」
「はい。魔王様が不幸でないなら、私は今夜、安心して帰れます」
吾輩は、その言葉を受け取った。
安心して帰る。そのためにグザールはここまで来たのか。魔王の安否を確認するために。
「グザール」と吾輩は言った。
「はい」
「お前には——ずっと世話をかけてきた」
「そのようなことは」と言いかけた。
「いや、世話をかけた」と吾輩は続けた。
「魔王城の時も、戦場でも。吾輩が無茶をするたびに、お前が後始末をしてきた。それは覚えている」
「魔王様……」
「今ここで謝るつもりはない。しかし——覚えている。それだけは言っておきたかった」
グザールが、長い間、黙っていた。
やがて「ありがとうございます」と言った。
声が、少しだけ変だった。
グザールが去り際に振り返った。
「シフォン様は」とグザールが言った。
「不思議な方ですね」
「そうだろう」
「私は最初、魔王様の宿る御体として、敬う気持ちで見ていました。しかし——」
グザールがシフォンを見た。シフォンはまだ毛繕いをしていた。先ほどの大失敗など、もう忘れている顔で。
「あの蛾の追い方を見ていたら、なんか……」
「なんか、なんだ」
「かわいいな、と思ってしまいました」グザールが少し声を落として言った。
「口に出すのが恥ずかしいのですが」
吾輩は——概念として、笑った。
「吾輩もそう思うことがある」と言った。
グザールが「そうですか」と言って、また少し黙った。
「魔王様が猫をかわいいと思う日が来るとは、思っていませんでした」
「吾輩もそう思う」
「でも——」とグザールが言った。
「悪くないですね、そういうのも」
吾輩は何も言わなかった。
グザールが「では」と深く頭を下げて、森の奥へ消えていった。
シフォンが毛繕いを終えて、立ち上がった。
村の方を向いて、歩き始めた。
吾輩は引きずられながら、今夜のことを整理した。
ライオスに「今は征服しないと言う」と伝えた。
グザールに「今は動くな」と伝えた。
人間と魔族の双方に、同じことを言った。
吾輩は今、どちらの側にも属していない。人間の村で暮らしながら、魔族の残党を抱えている。勇者と話しながら、大魔将に印を渡した。
奇妙な立場だ。
しかし——今の吾輩には、それが一番正直な形だった。どちらか一方に決める必要はない。今は、今のまま、ここにいる。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
帰ろう、という声に聞こえた。
「そうだな」と吾輩は思った。
帰ろう。アイリスの家に。
シフォンとルカと、ガリスとアイリスのいる場所に。
今の吾輩の、帰る場所に。




