第40話:シフォンの選択
その日の夕刻のことだった。
グザールが去って三日後。
吾輩が記憶の夜を過ごして、少し落ち着いてきた頃だ。
シフォンが村の外れの草地に出ていた。春の夕暮れで、空が橙と紫に染まっていた。ルカが後をついてきていたが、草地に来ると別々の方向に分かれた。シフォンは東の草地へ。ルカは西の花畑へ。
吾輩はシフォンに引きずられながら、夕暮れの草地を歩いていた。
その時、吾輩は気配を感じた。
北の方角。森の陰から。
魔族だ。しかしグザールではない。ゾグたちでもない。
知らない気配だ。複数——三人か、四人。
吾輩は即座に遮断を強めた。しかしすでに遅かったかもしれない。向こうも気配を探っているようだった。
魔族の残党だ。グザールやゾグのように、吾輩を探して来たのではない。ライオスに追われて逃げてきた者たちが、この村の付近に流れてきたのかもしれない。あるいは——吾輩の魔力の気配を偶然感知して、ここに何かあると察知したか。
いずれにせよ、厄介だった。
気配が動いた。
森から出てきた。草地の端に、人影が現れた。
四人だった。いずれも外套を被っていたが、体格と動き方から魔族とわかった。下位から中位の種族だ。グザールほどの力はない。しかし人間の村人では太刀打ちできない。
吾輩は状況を把握した。
向こうはまだ、シフォンに気づいていない。シフォンは草地の中を歩いていて、目立たない。しかし吾輩の魔力の気配を探っているなら、シフォンの影——つまり吾輩——に近づけば感知される可能性がある。
どうするか。
逃げる。今すぐシフォンを村に向けて引き返させる。
しかしシフォンに言葉は届かない。引き返させる手段がない。匂いで誘導する方法も、今この瞬間には間に合わない。
吾輩が遮断を完璧に維持して、ただの猫として見せるしかない。
できるか。
今の吾輩の力では——できるはずだ。五割以上の魔力がある。遮断の精度も上がった。
吾輩は全力で魔力を内側に封じた。
四人の魔族が、草地に入ってきた。
探索している。獲物を探すのではなく——何かの痕跡を探している。魔力の痕跡を。
その内の一人が、シフォンに気づいた。
「猫か」と小声で言った。
「白い猫だ」と別の一人が言った。
「村の猫か?」
「あの猫——」
一人が立ち止まった。目が細くなった。
吾輩は分かった。この魔族は魔力に敏感な種族だ。遮断を超えて、かすかに何かを感じ取っている。
「……猫の影が」と言った。
吾輩は遮断をさらに強めた。限界まで。
「なんか変だ。この猫——」
シフォンは、その会話など関係なく、草地の中に何かを見つけていた。
虫だ。小さな虫が草の間を跳ねていた。シフォンがそれを見つけて、低い姿勢になった。
狩猟本能が起動した。
吾輩は「待て、今は動くな」と念じた。届かない。当然だ。
シフォンが、虫に向かって跳んだ。
草地を駆けた。虫を追いかけた。魔族の方向へ向かった。
魔族の一人がシフォンに近づいた。
シフォンの影が——魔族の足に踏まれた。
その瞬間、吾輩の遮断が、わずかに乱れた。
踏まれた衝撃で、ではない。シフォンが突然の踏みつけに反応して、飛び退いたからだ。シフォンが動けば吾輩の意識も揺れる。揺れれば遮断の精度が落ちる。
落ちた瞬間に——魔族がそれを感じた。
「いる!」と叫んだ。
四人が一斉にシフォンを見た。
吾輩の気配が、ほんの一瞬だが漏れた。
「魔王様の気配だ!」
「シフォンとかいう聖獣か! 魔王様が宿っている!」
知っていた。噂として聞いていたのかもしれない。あるいはゾグたちの話が漏れていたのか。
「魔王様を確保すれば、我々の立場が——」
「グザール殿の邪魔をするな、とは言われていたが——これは別の話だ」
四人が動いた。シフォンを囲もうとした。
吾輩は選択を迫られた。
戦うか、逃げるか。
戦うなら今の五割の魔力で四人は対処できる。しかしこの草地で魔力を放てば、村の方向に余波が行く。アイリスが、ガリスが、村人が巻き込まれる可能性がある。
逃げるにはシフォンを動かすしかない。しかしシフォンは逃げる気配がない。ただ、四人の魔族を見て、耳を伏せていた。体の毛がわずかに逆立っていた。
「ウ゛ー」
小さな唸りだ。威嚇だ。シフォンにとって、これは「自分の縄張りを侵した者」への反応だ。
恐怖ではなく、怒り。
魔族の一人がシフォンに手を伸ばした。
「聖獣様を——」
吾輩の中で、何かが弾けた。
ドミニク・アランデルの時と同じだ。シフォンへの手が——許せなかった。
しかし今回は——吾輩は意図して止めた。
暴走させるな。制御しろ。アイリスが危ない。村が危ない。今ここで暴走するな。
吾輩は限界まで、感情を押さえた。
魔力を溜めた。方向を定めた。村と反対方向——北の草地の端へ。狙いを定めた。村人を巻き込まない、四人だけを吹き飛ばせる精確な一撃を計算した。
今の吾輩ならできる。王都での経験で精度が上がった。ミルダ村でも、ドミニク事件でも、練習を重ねた。
発射しようとした——その瞬間。
シフォンが——動いた。
シフォンが四人の魔族に向かって走った。
逃げたのではなかった。攻撃した。
小さな白い猫が、四人の足元に飛び込んだ。一人の足に体当たりして、別の一人の足元を駆け抜けて、三人目の足にしがみついた。
四人が「おわ」「なんだ」「聖獣が」と動揺した。
その隙に、吾輩は魔力を放った。
今回は完璧に制御された一撃だった。北の草地の端へ向けて、精確に、四人を吹き飛ばすに足る力で。
ドオン、という音がした。
四人が吹き飛んだ。草地の端の木立に叩きつけられた。死にはしない。しかししばらくは動けない。
シフォンが地面に降り立った。
四人を見た。動かないことを確認した。
それから——吾輩の影を見た。
金色の目で。
吾輩は、その目を見ていた。
シフォンが動いた。四人の魔族に向かって走った。それは確かだ。
なぜシフォンが動いたのか。
狩猟本能か。複数の大型の何かが自分を囲んでいる。逃げるのではなく、先手を打つ。それが猫の判断だったかもしれない。
しかし——吾輩には、もう一つの可能性が頭にあった。
シフォンは吾輩の気配に反応してきた。何度も。影の上に座る。吾輩の魔力が薄く漏れた時に振り返る。夜に、吾輩が不安な気配を持っている時に、そばに来る。
シフォンが吾輩のことを「わかっている」とは言えない。猫だから。
しかし——何かを感じている。
そして今日、吾輩が追い詰められていた瞬間に、シフォンが動いた。
偶然かもしれない。本能かもしれない。
しかし——守ろうとしたように見えた。
吾輩は、その可能性を——否定できなかった。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
静かな夕暮れの草地に、その声が響いた。
吾輩は何も言えなかった。影だから。
しかし——今夜ばかりは、何か言いたかった。
言葉にならないまま、吾輩はシフォンの影として、夕暮れの草地に在った。
シフォンが、また「ミャア」と言った。
今度は少し違う声だった。
要求ではなく、確認のような。「どうだ」と聞くような。
吾輩は——影を、少しだけ揺らした。
シフォンがそれを見た。
それから、尻尾を立てて、村の方向へ歩き始めた。
いつも通りの、のんびりとした歩き方で。
吾輩は引きずられながら、その後を歩いた。
夕日が草地を染めていた。
橙と金の光の中を、白い猫と、その影が歩いていた。
家に帰ると、アイリスが心配した顔で待っていた。
「シフォン! 遅かったから心配したよ。どこ行ってたの?」
「ミャア」とシフォンが言った。
「外で何かあった? ルカはすぐ帰ってきたのに、シフォンだけいなくて」
「ミャア」
「まあ、無事ならいいか」とアイリスが溜息をついてシフォンを抱き上げた。
「心配かけないでよ、もう」
シフォンがアイリスの肩に顎を乗せた。
吾輩は、その光景を見ていた。
今夜、草地でシフォンが動いた時——吾輩は「守られた」と感じた。
猫に守られた魔王。
おかしな話だ。しかし事実だ。
そしてシフォンは今、アイリスに「心配かけないで」と言われながら、ふんわりと肩に乗っている。何が起きたかを語れない。語る言葉もない。
ただそこにいる。
それがシフォンだ。
吾輩は——その在り方が、今夜は少し羨ましくなかった。
むしろ——一緒にいてよかった、と思っていた。
シフォンと一緒にいてよかった。
この一年以上、この猫に引きずられながら、ここまで来た。廃井戸を直し、麦を芽吹かせ、山賊を吹き飛ばし、魔物を退け、王女の膝に乗り、国王の命を救い、今日は吾輩を守った。
全部、シフォンの気まぐれと吾輩の暴走の産物だった。
しかしそれで——ここまで来た。
それで良かったのだと、今夜は素直に思えた。




