第39話:魔王の記憶
グザールが去った後、吾輩は眠れなかった。
眠る体を持っていないから、正確には「意識を休められなかった」というべきかもしれない。
しかし感覚としては、眠れない夜に近かった。
シフォンが眠っていた。ルカも眠っていた。
アイリスもガリスも眠っていた。
吾輩だけが、静かな春の夜の中で、動けずにいた。
グザールの言葉が残っていた。
「変わられましたね」。
「魔王様の選ぶ道が、私の道です」。
そしてライオスの言葉——「魔王には、魔王になった理由があったはずだ」。
それを思うと、吾輩は——記憶の中へ入っていった。
北の果ての村のことを、吾輩は久しぶりに思い出していた。
あの夜に、シフォンに向かって語ったことがある。
しかしあの夜は、片鱗しか語らなかった。今夜は——もう少し、正直に見ようと思った。
誰も聞いていない。シフォンも眠っている。
吾輩が生まれた村は、アルクス大陸の最北端に近い、山岳地帯の小さな集落だった。
名前もなかった。地図にも載っていなかった。人間と魔族の境界線上に位置していて、どちらの国にも属さない、誰からも忘れられた場所だった。
住んでいたのは、人間と魔族の混血が多かった。どちらからも疎まれる者たちが流れ着いた場所だ。
吾輩はそこで生まれた。
父親は魔族だったが、吾輩が生まれる前に去っていた。母親は人間だったが、吾輩が五歳の時に病で死んだ。
それから吾輩は——一人だった。
子供の頃の吾輩は、魔力を持って生まれていた。
それが最初の「違い」だった。
他の子供たちは魔力を持たなかった。
だから吾輩が傍にいると、何かが起きた。
火が強くなったり、雨が変わったり、動物が逃げたり。子供の吾輩には制御できなかった。
意図していないのに、何かが起きる。
そしてそれは常に、周囲を怖がらせた。
人間の集落では「化け物の子」と言われた。
石を投げられたこともあった。近づくな、と言われた。吾輩がそこにいるだけで迷惑だと、何度も言われた。
それで吾輩は、山の向こうの魔族の集落に行った。同じ血が流れている。受け入れてもらえると思った。
しかし魔族の集落では「人間混じり」と言われた。魔力はあっても、血が薄いと。吾輩の魔力は混血のために不安定で、純血の魔族には及ばないと。
どこにも居場所がなかった。
それだけだ。それだけのことだった。
しかし当時の吾輩にとっては、それが全てだった。世界の全てが、吾輩に「お前はここにいるべきではない」と言っていた。どこへ行っても、その言葉が追いかけてきた。
吾輩はその言葉を、百年かけて大陸中に植え付けた。
恐怖という形で。「魔王ヴァルキス」という名で。
吾輩が恐怖の対象になれば——もう誰も吾輩に「お前はここにいるべきではない」とは言えない。そう思っていた。
言えなかっただけで——言われなくなったわけではなかった。ただ、誰も口に出せなくなった。それだけだった。
吾輩が魔力を制御できるようになったのは、十代の半ばのことだ。
独学だった。教えてくれる者は誰もいなかった。廃城の書庫に忍び込んで、魔術書を読んだ。何年もかけて、試行錯誤した。失敗して、傷ついて、また試した。
魔力が制御できるようになると、吾輩は初めて「力」というものを手に入れた感覚があった。
力があれば——追い出されない。
それが最初の動機だった。世界征服でも、支配でも、何でもなかった。ただ——追い出されない場所を作りたかった。
それが、いつの間にか形を変えていった。
追い出されないためには強くなればいい。強くなるためにはもっと力が必要だ。力を集めるには、人や場所を支配するのが効率的だ。支配するには、恐怖が最も確実だ。
一つひとつは小さな選択だった。しかし積み重なって——気がつけば吾輩は、恐怖で大陸を支配する魔王になっていた。
なりたかったわけではなかった。
しかしそうなっていた。
誰かに「お前はここにいていい」と言ってもらいたかっただけだったのに、気がつけば誰も口を聞けない魔王になっていた。
玉座に座った時、吾輩は思った。
これで追い出されない。
誰も吾輩を疎めない。
全部が吾輩のものだ。
しかし玉座は冷たかった。
誰も本音で話さなかった。誰も吾輩を恐れずに近づかなかった。魔族の部下たちは忠誠を誓ったが、その目には恐怖があった。吾輩を好きで仕えているのではなく、仕えなければ何が起きるかわからないから仕えていた。
征服した国の王たちは頭を垂れた。
しかしその顔は仮面だった。
宴の時、誰かが笑う。しかし吾輩の前では、本当に笑えない。吾輩が何かを言えば、皆が同意する。
しかしそれは本心ではない。吾輩が部屋を出れば、後ろで何を言っているか——わかっていた。
グザールだけが違った。
グザールは恐怖では動かなかった。
本物の忠誠だった。
しかしグザールも——吾輩の「本音」を聞いたことはなかった。なぜ戦っているのか、本当に何を求めているのかを、話したことはなかった。
話せなかった。
魔王が弱さを見せれば、それは隙になる。孤独を認めれば侮られる。そう信じていたから。
だから——百年以上、誰にも話せなかった。
今夜、グザールに「守りたいものができた」と言えたのは——この一年で吾輩が変わったからだ。
シフォンのおかげで、変わった。
シフォンが寝返りを打った。吾輩の影の上で。
吾輩はその動きに引きずられながら、記憶の中から少し戻ってきた。
今は——孤独ではない。
シフォンがいる。ルカがいる。アイリスがいる。ガリスがいる。村の人々がいる。グザールもまた来ると言った。ゾグたちも待っている。ライオスも——敵ではない何かに変わりつつある。
これは——吾輩が子供の頃に欲しかったものではないか。
追い出されない場所。
吾輩は征服によってそれを作ろうとした。しかし作れなかった。玉座の上でも、吾輩は孤独だった。今は——征服などしていない。ただ猫の影としてここにいるだけだ。それなのに。
吾輩は、その皮肉に、改めて気づいていた。
征服しても得られなかったものが、何もしない今にある。
なぜか。
答えは——シフォンのせいだ、と吾輩は思った。
シフォンが選んだ場所に、居場所ができた。
シフォンがアイリスの腕に収まったから、吾輩もここに来た。シフォンが欲しいものに向かって動くから、吾輩は村人に見られた。
シフォンが蝶を追いかけ、鳥に突進し、王女の部屋に入り込み——その全ての結果として、吾輩は人々に「いてくれてよかった」と言われるようになった。
シフォンは意図していない。
ただ動いているだけだ。
しかし——その「ただ動く」という在り方が、吾輩には百年かけてもできなかったことをやった。
吾輩はずっと、意図することで解決しようとしてきた。計算して、計画して、力を使って。しかしそれで得られたのは孤独な玉座だった。
シフォンは意図せず動いて、居場所を作った。
どちらが正しいかは——まだわからない。
しかし今夜、吾輩は一つのことを認められる気がした。
吾輩が子供の頃に欲しかったものは——「全部を征服すること」ではなかった。
ただ、誰かに「ここにいていい」と言ってもらいたかっただけだ。
そしてアイリスは——「おやすみ、もう一人」と言って眠った。
ガリスは——「誰かいるみたいで安心する」と言った。
ベルンは——「正体がわからなくても感謝している」と言った。
ライオスは——「元気そうですね」と影に向かって言った。
それが——吾輩の欲しかったものだった。
百年遠回りして、猫の影になって、ようやく手に入れた。
なんとも締まらない話だ。しかし——事実だ。
では吾輩はこれからどうするのか。
ライオスに問われた問い。
「今のお前は、また世界を征服するつもりがあるか」。
今夜の吾輩には、少し答えが見えていた。
征服したい、という気持ちはまだある。正直に言えば残っている。百年の習慣は簡単には消えない。力を示したい、自分の存在を大陸に知らしめたい——そういう衝動は、今もある。
しかしその根っこにあったもの——「ここにいていい」という言葉を誰かから貰いたかった、あの子供の頃の渇望——は、今は満たされている。
満たされているなら——征服しなくてもいい。
しかしそれは「吾輩が魔王であることをやめる」ということと同じか。
吾輩は、その問いに、今夜はまだ答えを出せなかった。
ただ——一つだけ言える。
征服しない理由が、吾輩にはできていた。
それが今夜、はっきりとわかった。
子供の頃の吾輩は、その理由が欲しくて、理由が作れなかったから征服に向かった。
今は——ある。
それだけで、今夜は十分だ。
夜明けが来た。
シフォンが目を覚ました。伸びをして、台所の方へ歩いた。
「ミャア」
ガリスが半目で起き出してきた。
「今日も早いな、お前は」
「ミャア」
「わかった、わかった」
いつも通りの朝が始まった。
吾輩は、昨夜の記憶の旅から戻ってきて、この朝に戻ってきた。
シフォンの食事の音がした。ルカが遅れて起き出してきて、隣に座った。アイリスが「おはよ」と言った。
いつも通りの、ウェスパル村の朝だ。
吾輩はその朝の中に、いた。
それで今日は——
十分だ。




