第38話:魔族の長が来た
春の夜、吾輩は遠くに強い気配を感じた。
地脈の吸収をしながら意識を広げていた時のことだ。
北の方角から、人間とは異質な魔力の流れが近づいてくるのを感じた。
強い。ゾグやリルとは格が違う。
吾輩は即座に判断した。
大魔将グザールだ。
かつての吾輩の右腕。魔王軍の実質的な司令官を長年務めていた男だ。魔力の質と強さで、他の魔族とは一線を画している。その気配を、吾輩が間違えるはずがない。
グザールが村へ向かっている。
吾輩は遮断を維持しながら、考えた。
グザールが来る。これはゾグたちとは別の話だ。
ゾグはかつての第七軍団の生き残りで、吾輩を探して訪ねてきた。グザールは——魔王軍の大魔将だ。吾輩が生きていることを知れば、それだけで話が動く可能性がある。
問題は、グザールがどういう状態でここに来るか、だ。
翌朝、吾輩は気配を追い続けた。
グザールは急いでいない。慎重に、人間に気づかれないよう、山沿いの道を選んで近づいていた。それだけの知恵はある。昔からそういう男だった。戦場では豪胆でも、作戦行動では緻密だった。
シフォンはそんなことも知らず、春の庭に出て、花の匂いを嗅いでいた。ルカが後をついてきて、シフォンの尻尾を追いかけていた。
「ルカ、やめなさい」とアイリスが笑いながら言った。
吾輩は、その平和な光景と、近づいてくるグザールの気配を、同時に感じていた。
夕刻、グザールが村の外れの森に入ったのを感知した。
吾輩は、薄く魔力を送り出した。かつての信号だ。
「ここにいる、近づいてこい」という意思を、魔力に乗せて。
しばらくして、気配が止まった。受け取ったのだ。
夜になった。
アイリスもガリスも眠った。
シフォンとルカも眠った。
吾輩は、それを確認してから、村の外れへ向かった。
シフォンを起こして、外に連れ出した。台所の干し魚の匂いで起こす——もはや吾輩のお決まりの手段になっていた。
シフォンが半目で起き上がり、台所に向かった。しかし扉の隙間から夜風の匂いがした。シフォンが扉に近づいた。前足でつついた。
吾輩は影から、扉をほんの少しだけ開けた。
シフォンが外に出た。
夜の村を、シフォンはのんびりと歩いた。
別に急がない。
吾輩が誘導している、などとは思っていない。
ただ夜の散歩がしたくなっただけだ、くらいに思っているだろう。
吾輩は、かすかな魔力の糸を使って、北の方向へシフォンを誘った。以前も使った手だ。シフォンが吾輩の気配に微妙に反応する、あの性質を利用した。
シフォンが、少しずつ北へ向かった。
村の外れの木立の陰で、大きな影が動いた。
グザールだった。
身の丈は人間より頭一つ分高く、肩幅が広い。黒みがかった肌に、額に小さな角が二本。目が琥珀色に光っていた。魔族の中でも上位の種族の特徴だ。外套を深く被り、気配を限界まで抑えていた。
シフォンが木立の近くで立ち止まった。
匂いを嗅いだ。
それから——ゆっくりと木立の方へ歩いていった。魔族の匂いに気づいたのかもしれない。しかしシフォンは逃げなかった。むしろ好奇心で近づいていくように見えた。
グザールが外套の陰からシフォンを見た。
それから——シフォンの影を見た。
膝をついた。
「魔王様」と、低く、静かな声で言った。
吾輩は、グザールに意思を送った。
「久しいな、グザール」
グザールが微かに身じろいだ。長年仕えた主の意思を、誰より正確に受け取れる男だった。
「ご無事で」とグザールが言った。
声に感情が滲んでいた。この男が感情を見せるのは珍しい。
「長い間、お探していました」
「ゾグから聞いたか」
「はい。第七軍団の生き残りから報告を受けました。猫の影に魔王様が——とは、最初は信じられませんでしたが」
「信じられないのは当然だ」
グザールが頭を上げてシフォンを見た。
シフォンはグザールの前に座り、琥珀色の目をじっと見上げていた。逃げる気配が全くなかった。
「聖獣、というのが世間の評判ですが」とグザールが言った。
「そうなっている」
「魔王様が……聖獣として人間に崇められているとは」グザールが声を抑えながら、しかし何かを飲み込むように言った。
「複雑な気持ちがあります」
「当然だ。吾輩も複雑だ」
シフォンがグザールの前足に、前足をぽんと乗せた。
グザールが固まった。
「聖獣様が……」
「気にするな。単に匂いが気になったのだろう」
「はあ」とグザールが言った。
慣れない様子で、しかしシフォンを邪険にもできない様子だった。
「現状を教えてくれ」と吾輩は言った。
グザールが姿勢を正した。
長年の習慣で、報告の体勢になった。
「各地の残党の状況ですが——数はゾグから聞いている通り、数百が潜伏しています。ただし」
「ただし?」
「半年前に比べて、減っています」
吾輩は「どういうことだ」と聞いた。
「勇者ライオスが各地を回って、残党を一人ずつ説得しているのです」
吾輩は予想していなかった。
「説得? 剣を使わずにか」
「はい。討伐ではなく、説得です。"もう戦争は終わった。人間社会に溶け込んで生きることができる"と——魔族の者たちと直接話して、剣を収めさせているのです。一部の者は、実際に人間の村に受け入れられ始めています」
吾輩は、その情報を飲み込むのに少し時間がかかった。
ライオスが残党を殺していない。説得している。
「どれくらいが応じた」
「三割ほどが応じています。残りは——まだ様子を見ているか、あるいは抵抗を続けているか。ただし抵抗を続けている者たちも、ライオス殿の動きを見て、少しずつ迷い始めているようです」
「ライオスは何を言っているのか、具体的には」
「魔王の時代に傷つけられた民も、魔族も、皆が犠牲者だった。これからは共に生きる道を探したい——そういう趣旨のことを言っているそうです。それと——」
グザールが少し間を置いた。
「魔王には、魔王になった理由があったはずだ、とも言っているとのことです」
吾輩は、その最後の言葉に、止まった。
魔王には、魔王になった理由があったはずだ。
ライオスは——吾輩との夜の対話を、外でも言っている。
「馬鹿げた理想主義だ」とグザールが言った。しかしその声に、確信がなかった。
「魔族が人間社会に溶け込むなど、できるはずがない」
「できないと言えるか」と吾輩は問い返した。
グザールが「……」と黙った。
「ゾグたちはウェスパル村で、旅人として通った。バレなかった。人間と魔族の境界は、絶対ではない」
「それは」とグザールが言った。
「魔王様の時代の常識とは、違います」
「吾輩も違うと思っていた。しかし今は——わからない」
グザールが長い間、吾輩を——正確には影を——見ていた。
シフォンが欠伸をした。
グザールがまた固まった。
「魔王様、この猫は」
「吾輩の宿る猫だ。気にするな」
「気にしないわけには」とグザールが言った。
「魔王様の宿りし御体です。粗末にはできません」
「粗末にする必要はない。ただ——この猫には吾輩の命令が一切届かない。そこだけ理解しておいてくれ」
グザールが「届かない、とは」と聞いた。
「文字通り届かない。言葉も通じないし、意思も通じない。この猫は自分の気分で動く。吾輩がどれだけ念じても、干し魚の匂いには勝てない」
グザールが長い沈黙の後、「それは……大変でしたね」と言った。
初めて、そういう言い方をした。
魔王への敬語でも、忠誠の言葉でもなく。
「大変だった」と吾輩は正直に言った。
「それで」とグザールが話を戻した。
「魔王様はこれから、どうなさるおつもりですか」
吾輩は少し間を置いた。
「まだ決めていない」
「……そうですか」
「決められない理由がある。お前に正直に言う」
グザールが「はい」と言った。
どんな言葉でも受け止める、という目だった。
「ここには、守りたいものができた」
グザールが黙った。
「この村だ。アイリスという娘がいる。シフォンを拾った娘だ。それとガリスという農夫。ベルンという神父。村の人々。そして——ライオスのことも、今は敵とは思えなくなっている」
「ライオスを」とグザールが繰り返した。
その声に微かな動揺があった。
「魔王様を討伐した男を」
「そうだ。あの男とは、夜に話した。あの男も、吾輩と同じように——根っこを探している。何かを間違えた、と思っている。そういう男だ」
グザールが長い間、黙っていた。
「魔王様」とグザールがやがて言った。
「変わられましたね」
「そうかもしれない」
「悪い意味では、ありません」とグザールが静かに続けた。
「私は長年、魔王様に仕えてきました。戦場の魔王様を知っています。玉座の魔王様も知っています。しかし——」
グザールが視線をシフォンに向けた。
「こうして話している魔王様は、知りませんでした」
「どう違う」
「声が、違います。昔の魔王様の声には、常に何かが張っていました。意地のようなものが。今は——張っていない」
吾輩は、その言葉を聞いた。
意地が張っていない。
そうかもしれない。北の果ての村から逃げ出して、誰にも疎まれて、全部手に入れようとした。その時の吾輩には、常に何かが張っていた。
今は——シフォンが欠伸をしていた。グザールは固まっていた。
張っていない。
「グザール」と吾輩は言った。
「はい」
「今夜は帰れ。また来い。次に来る時まで、吾輩は考える。何をすべきか」
「承知しました」とグザールが深く頭を下げた。
「ただ——一つだけ」
「なんだ」
「どんな結論でも、私はついていきます。世界征服でも、この村に留まることでも。魔王様の選ぶ道が、私の道です」
吾輩は、その言葉を受け取った。
ゾグも同じことを言った。
半年待って、ここまで来た。
こういう者たちが、まだいる。
吾輩は何も言わなかった。しかし——受け取った。
グザールが森の奥へ消えていった。
シフォンが欠伸をして、村の方向へ歩き始めた。干し魚の用事は済んだから、戻ろうとしているのだろう。
吾輩は引きずられながら、今夜のグザールの言葉を反芻した。
ライオスが残党を説得している。三割が応じた。
ライオスは、吾輩が思っていた以上のことをしていた。剣を使わずに——話すことで、世界を変えようとしている。
「お前の話を聞きたい」と言った男が、他の誰かの話も聞いていた。
吾輩は、ライオスという人物を、また少し見直していた。
そして——グザールの「変わられましたね」という言葉が、吾輩の中に残っていた。
変わった。吾輩は変わった。それを、長年知っている者に言われると——否定できなかった。
シフォンが家の扉の前で「ミャア」と鳴いた。
開けてくれ、という意味だ。
吾輩は影から腕を出して、扉をそっと開けた。
シフォンが中に入った。
吾輩もついて入った。
帰った。




