第37話:影の告白
ライオスが村を去って、二日が経った。
静かになった。
ライオスがいた一週間は、毎日何かがあった。
村人が集まり、アイリスが話し、ガリスが気を遣い、シフォンが無視し続けた。それが終わって、元のウェスパル村の静けさに戻っていた。
吾輩は、その静けさに、少しほっとしていた。
しかし同時に——少し寂しかった。
「寂しい」という言葉を使うのが、吾輩には少し難しかった。魔王が寂しい、などという言葉は似合わない。しかし他に言葉がなかった。ライオスがいた時には、吾輩は落ち着かなかった。しかし去ると——何かが欠けた感じがした。
その矛盾に、吾輩は気づいていた。
去った日の夜が、今夜の話の始まりだ。
アイリスが眠れなかった。
灯りを消した部屋で、アイリスが寝台に横になっていた。しかし寝返りを繰り返していた。シフォンがその隣で丸まっていた。ルカは足元にいた。
吾輩は地脈の吸収をしながら、アイリスの気配を感じていた。
眠れない、ということは、何かを考えている。
アイリスが「眠れない」と小さく言った。シフォンに向かって。
「ミャア」とシフォンが半目で答えた。
「なんか、色々考えちゃって」
「ミャア」
「ライオス様のこととか、シフォンのこととか、影の中にいるかもしれない誰かのこととか」
吾輩は、静かに聞いていた。
「ねえ、シフォン」とアイリスが言った。
「影の中に、本当に誰かいるのかな」
「ミャア」とシフォンが言った。
「いると思う?」
「ミャア」
「ライオス様は、いるって思ってるみたいだった。ガリスもなんか感じてるって言ってた。ベルン神父様も最初から感じてた、って言ってた」
アイリスが少し間を置いた。
「みんながそう感じるなら、本当にいるんじゃないかな」
吾輩は動かなかった。
「ねえ」とアイリスが言った。
今度はシフォンではなく——少し向きを変えて、影の方を向いて言った。
「もし本当に誰かいるなら、返事してほしいな」
吾輩は、その言葉を聞いた。
返事してほしい。
これまでにも、アイリスが影に向かって話しかけたことはあった。「ありがとう」と言ったこともあった。
「いてくれてよかった」と言ったこともあった。
しかし「返事してほしい」と言ったのは、初めてだった。
吾輩は、どうするか迷った。
返事するべきか。
返事すれば、吾輩の存在を認めることになる。
今まで吾輩は薄く気配を漏らすことはあっても、積極的に「ここにいる」と示したことはなかった。
しかし——アイリスが「返事してほしい」と言った。
暗い部屋で、眠れない夜に、影に向かって。
その声が——吾輩には届いた。
吾輩は、少しだけ迷って——影から、ごく薄い光の粒を一つだけ出した。
誕生日の夜に作った、あの青白い光と同じものだ。しかし今夜は一粒だけ。天井に浮かべた。
部屋が、ほんのわずかに明るくなった。
アイリスが「あ」と言った。
起き上がって、天井を見た。
小さな青白い光の粒が、ゆっくりと揺れていた。
「……いるんだ」とアイリスが言った。
小さな声だった。驚いているのか、安堵しているのか、どちらでもある声だった。
「本当にいるんだ」
吾輩は光の粒を、消さずにそのままにしていた。
アイリスが「怖くない」と言った。
自分に言い聞かせるように。
「全然怖くない。誕生日の夜と同じ光だから」
少し間があった。
「名前、聞いてもいい?」
吾輩は——答えなかった。
名前を言えば、すべてが変わる。ヴァルキスという名を聞けば、アイリスは知るだろう。魔王の名だということを。あの戦争の、あの恐怖の、元凶の名だということを。
吾輩は光の粒を、少し揺らした。
「今は言えない」という意味で。
「そっか」とアイリスが言った。
「言えない理由があるんだね」
吾輩が光を揺らした。
「わかった」とアイリスが言った。
「無理に聞かない。でも——」
少しの間があった。
「ずっとここにいたんだよね。シフォンが来た日から」
吾輩は光を揺らした。そうだ、という意味で。
「誕生日の光も、あなたが作ったの?」
また光を揺らした。
「そっか」とアイリスが言った。
「ありがとう。あの日、すごく嬉しかった」
吾輩は——何も言えなかった。光を揺らすことしかできなかった。
アイリスが少し考えてから聞いた。
「シフォンと、関係あるの?」
光を揺らした。
「シフォンの……影の中にいるの?」
揺らした。
「ずっと、シフォンと一緒にいたんだ」
揺らした。
「シフォンが来た日から?」
揺らした。
「すごいね」とアイリスが言った。
「私、ずっとシフォンだけだと思ってたのに、二人分いたんだ。ずっと一緒にいたのに、気づかなかった」
二人分。
その言い方が——吾輩には少し可笑しく聞こえた。しかしそれで正しかった。シフォンと吾輩と、二者でここにいた。ずっと。廃井戸が直った最初の日から、今夜まで。
「怖くないの、って最初に言ったけど」とアイリスが続けた。「本当に怖くない。なんか——ずっとそこにいてくれてたんだな、って思うと、嬉しくて」
「嬉しい?」
そう言ったのは、アイリスだった。自分の言葉を確認するように繰り返した。
「うん、嬉しい。一人じゃなかったんだって思うから。シフォンがいるのはわかってたけど、もう一人も——ずっといてくれてたって思うと」
アイリスが少し笑った。
「変なこと言ってるかな、私。影の中に誰かいて、嬉しいって言うの、変だよね」
光を揺らした。変じゃない、という意味で。
「そっか」とアイリスが言った。
少し間があってから「一つだけ聞いていい?」とアイリスが言った。
吾輩は揺らした。
「悪い人じゃないよね」
吾輩は——止まった。
悪い人じゃないか。
それは——難しい問いだ。吾輩は三大陸を征服した。多くの人を傷つけた。恐怖で支配した。悪い、という意味では、これほど悪い者もいない。
しかし。
この半年間、吾輩はこの村の人々を傷つけなかった。意図せずして助けた。アイリスの誕生日に光を作った。国王の命を救った。
吾輩は、光を——少し、ゆっくりと揺らした。
断言ではなく。しかし否定でもなく。
「わかった」とアイリスが言った。
「複雑なんだね、きっと」
光を揺らした。
「そっか。まあ、ずっとここにいてくれてたんだから、それでいい」とアイリスが言った。
「また何かあったら話しかける。返事してくれたら、嬉しい」
光を揺らした。
「おやすみ、シフォン。おやすみ、もう一人」
光の粒が、ゆっくりと消えた。
アイリスはすぐに眠ったようだった。
シフォンも眠っていた。ルカも眠っていた。
吾輩だけが、まだ起きていた。
今夜のことを、整理しようとした。しかし整理できなかった。
吾輩は——答えてしまった。
「ここにいる」と示してしまった。
これは正しかったのか。間違っていたのか。
計画の観点からは——身元を明かすリスクがある。
アイリスがいつか、「影の中の誰か」の正体を探るかもしれない。そうなれば吾輩の存在が露わになる。
ライオスはすでに知っている。ベルンは感じている。ガリスも感じている。
そしてアイリスも今夜、確認した。
しかし吾輩は今夜、計画を考えていなかった。
アイリスが「返事してほしい」と言った。暗い部屋で。眠れない夜に。
それだけで、吾輩は答えた。
「悪い人じゃないよね」と聞かれた時、吾輩は止まった。
正直に言えば——吾輩は「悪い」存在だ。三大陸を征服し、恐怖で支配し、多くを傷つけた。それが吾輩の歴史だ。
しかしアイリスの前での吾輩は——悪くはなかった、と思う。
誕生日の夜に光を作った。
シフォンが山賊を退けた時に魔力を使った。
ドミニク・アランデルの毒を阻止した。
アイリスの家を、村を、守る方向に動いてきた。
「複雑なんだね、きっと」とアイリスは言った。
正確だった。
吾輩は複雑だ。悪と善が混ざっている。
あるいは——長い歴史の間に、変わってきた、というべきかもしれない。
吾輩は、今夜の選択を、後悔していなかった。
答えて良かった。アイリスに「ここにいる」と示して、良かった。
それが正しいかどうかは——まだわからない。しかし今夜の吾輩は、そう感じた。
シフォンが吾輩の影の上で、寝返りを打った。何も知らない顔で眠っていた。
吾輩は——シフォンの、その無関係な顔が、今夜は少し羨ましかった。あの無関心さがあれば、もっと単純でいられる。
しかし吾輩は単純でいられない。
それでいい、と今夜は思った。
単純でないから、今夜答えることができた。
部屋に、シフォンとルカの寝息が重なって聞こえていた。
吾輩は地脈から魔力を吸収しながら、この夜の静けさの中にいた。
アイリスが眠っている。
「おやすみ、もう一人」と言って眠った。
吾輩は——その言葉の温かさを、しばらく感じていた。




