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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第36話:勇者とアイリス

 ライオスはウェスパル村に留まった。


 一日、二日、三日——気がつけば一週間が過ぎていた。宿屋に泊まり、朝は村人と話し、昼は時々畑仕事を手伝い、夕方はアイリスの家に立ち寄る。そういうリズムが、いつの間にかできあがっていた。


 村人はライオスをすぐに受け入れた。


 最初は「あの勇者様が!」と緊張していた村人たちも、ライオスが気取らず、セルジュの畑を一緒に耕し、市場の屋台でチーズを買って「美味しい」と言い、子供たちの遊びを眺めて笑うのを見て、距離が縮まった。ベルン神父とも長く話していた。


 吾輩はその様子を、シフォンに引きずられながら観察していた。


 落ち着かない気持ちで。




 落ち着かない理由を整理しよう。


 ライオスが村にいること自体は、問題ではない。あの夜の対話で吾輩を黙認すると言った。それは今も有効なはずだ。


 ライオスが村人と交流していること——これも問題ない。勇者が村を視察する、情報を集める、それは彼の仕事だ。


 ライオスがベルンと話していること——これも問題ない。ベルンは鋭い老人だが、吾輩の正体を知っているわけではない。


 問題は——ライオスが、アイリスとよく話していることだ。


 夕方、アイリスの家に立ち寄るライオスは、台所で夕食の準備をしているアイリスの隣に立って、話す。時に笑う。アイリスも笑う。ガリスが「勇者様、今日もですか」と言いながら、しかし歓迎している。


 その光景を見るたびに、吾輩の影が少しだけ形を変えかけた。


 翼ではない。角でもない。

 ただ——輪郭が滲む、というような変化だ。


 吾輩はそれを、毎回、辛うじて抑えていた。




 四日目の夕方、アイリスとライオスが村外れの草地に座っていた。


 シフォンが外に出たがったので、吾輩もついてきた。シフォンは草地で草の匂いを嗅いでいたが、吾輩の意識はアイリスとライオスの会話に向いていた。


「ライオス様は、旅が長いですけど、寂しくないですか」とアイリスが聞いた。


 ライオスが少し考えてから「慣れています」と答えた。


「慣れてる、って、寂しくないのとは違いますよね」


「そうですね」とライオスが認めた。


「寂しい、という感覚がわからなくなってきた、という方が正確かもしれない」


「それも、寂しいですね」とアイリスが言った。


 ライオスが「そうかもしれない」と言って、少し笑った。


「アイリスさんは、寂しいと思うことがありますか」


「ありますよ」とアイリスが即答した。


「お母さんが亡くなってから、お父さんと二人だったし。シフォンが来てから、なんか変わりましたけど」


「シフォン様が来て」とライオスが繰り返した。


「うん。なんか、家に誰かいる感じがして。シフォンだけじゃなくて、なんか——」


 アイリスが少し考えてから続けた。


「変な言い方だけど、なんか家の中に存在感が増えた感じ。シフォンの影が面白い形になることがあって、そういう時、誰かが部屋にいる気がして。気のせいなんだけど」


 ライオスが少し目を細めた。


「気のせいじゃないかもしれない」


「ライオス様もそう思いますか」


「……ええ」


 アイリスが「やっぱり」と言った。

 笑いながら。驚いていない顔だった。


「シフォンって一人じゃないんだ、ってずっと思ってたから。影が普通じゃないのは、その人のせいかなって」


「怖くないですか」とライオスが聞いた。


「怖くない」とアイリスが即座に答えた。


「悪いことは何もされてないし——むしろ、色々してもらってると思うし。誕生日に光を出してくれた気がするし」


 ライオスが少し驚いた顔をした。「光を?」


「うん。誕生日の夜に、部屋の中に星みたいな光が浮かんで。シフォンがやったのかな、って思ったけど、シフォンじゃない気もして」


 吾輩は——完全に動けなかった。


 アイリスが、ライオスに話していた。吾輩のことを。


 ライオスが「そうですか」と静かに言った。


「それは——良かった」


「何がですか」


「その方が、ちゃんと届いていた、ということだから」


 アイリスがきょとんとした。


「ライオス様、その人を知ってるんですか」


 ライオスが少しの間、黙っていた。


「少しだけ」と答えた。


「とても長い間、会ったことがなかった人なんですが」


 アイリスが「そうなんですね」と言って、それ以上は聞かなかった。




 吾輩は、その会話を聞きながら——「ちゃんと届いていた」というライオスの言葉を、繰り返していた。


 誕生日の光が、届いていた。


 アイリスが覚えていた。


 それをライオスが「良かった」と言った。


 吾輩を討伐した男が、吾輩がアイリスにした小さなことを「良かった」と言った。


 おかしな話だ。しかし——そう言われて、吾輩は何かが少し軽くなる感覚があった。


 シフォンが草地から戻ってきた。アイリスの横に座って、ライオスを見た。それから吾輩の影を見た。


「ミャア」と言った。


 ライオスがシフォンを見て、それから影を見て——「おかえり」と言った。


 誰に向けた「おかえり」かは、アイリスにはわからなかっただろう。


 吾輩には——わかった。




 五日目。


 この日、吾輩は自分の感情を分析することにした。


 問題を整理する。吾輩が「落ち着かない」のはなぜか。


 ライオスがアイリスと話す時間が増えている。それが——落ち着かない理由だ。


 なぜ落ち着かないのか。


 ライオスは敵ではない、ということは受け入れた。では何だ。


 吾輩は、正直に考えた。


 アイリスが笑う。ライオスに向かって。その時、吾輩の中で何かが動く。


 それは——嫉妬、と呼ぶものに近い。


 吾輩は、その結論に至った瞬間、しばらく固まった。


 魔王が、嫉妬している。少女への。


 何に対して嫉妬しているのか——アイリスがライオスに向ける笑顔に対して。アイリスがライオスと話す時間に対して。


 なぜそれが気になるのか——吾輩が影であるために、アイリスと直接話せないからだ。声が届かない。顔を見せられない。名前さえ言えない。


 しかしライオスは——直接話せる。笑わせられる。

 隣に立てる。

 その差が——落ち着かない理由だった。


 思えば吾輩は、半年以上ずっとアイリスの隣にいた。

 しかし一度も、直接言葉を交わしていない。アイリスが影に向かって話しかけることはあった。吾輩が薄く気配を漏らしたこともあった。しかし「会話」とは言えない。


 ライオスは三日で、吾輩が半年かけてもできなかったことをやっている。


 それが——落ち着かない。


 吾輩は、その事実を確認してから、深く溜息をついた。


 吾輩が、影の輪郭を滲ませながら勇者に嫉妬している。


 この話は——誰にも言えない。絶対に。




 六日目の朝、ライオスがガリスと話していた。


 アイリスが市場に出かけていた間のことだ。畑のそばで、ガリスとライオスが並んで立っていた。


「アイリスさんは、いい子ですね」とライオスが言った。


「当然だ。俺の娘だから」とガリスが言った。


「一年で、ずいぶん変わりましたか」


「シフォンが来てから、変わった」とガリスがあっさり言った。


「以前より、よく笑う。目が違う。どこかしっかりしてきた」


「シフォン様が来て」


「あの猫のおかげか、それとも聖獣のおかげか——まあ、どっちでもいい。娘が元気になったから、それで十分だ」


 ライオスが少し頷いた。


「ガリス殿は、シフォン様の影が変だと思ったことは?」


 ガリスが「変?」と繰り返した。


「何か、普通の猫と違うと」


「そりゃあ」とガリスが言った。


「聖獣様だから普通じゃないだろう。でも——変というより、なんか安心する。あの影があると」


「安心する?」


「なんか、誰かいるみたいな感じがするんだ。猫だけじゃなくて。変な話だが」


 ライオスが「変じゃないですよ」と静かに言った。


 「きっと、本当にいるんです」


 ガリスが「そうか」とだけ言った。


 深く追及しなかった。ガリスらしかった。


 吾輩は、その会話を聞きながら——ガリスにも感じ取られていたのか、と少し驚いていた。


 安心する。誰かいるみたいな感じがする。


 ガリスでさえ、感じていた。


 吾輩は——この家に、本当に「いる」んだと思った。気配として。存在として。




 六日目の夜、ライオスが宿屋へ帰る前にアイリスの家の扉の前で言った。


「明後日には、また旅に出ます」


「そうですか」とアイリスが言った。

 少し残念そうな声だった。


「また来てもいいですか」


「もちろんです」とアイリスが言った。


「シフォンも——たぶん、また来ても変わらず無視しますけど」


「それでいいです」とライオスが笑った。


「シフォン様に無視されるのは、ある種の安心感がある」


「安心感?」


「強大なものが、無関心でいてくれる、ということです。ある意味、信頼の形かもしれない」


 アイリスが「なるほど」と言った。


 ライオスが帰る前に、一度だけ影を見た。


 吾輩は静かに、そこにいた。


「では」とライオスが言った。

 アイリスに向かって。

 そして——少しだけ、影にも向かって。


「また」




 ライオスが去っていった後、アイリスがシフォンに言った。


「ライオス様、また来てくれるって」


「ミャア」とシフォンが言った。


「うん、よかった」とアイリスが言った。


「なんか、いい人だよね。最初は怖そうかな、と思ったけど」


「ミャア」


「シフォンはどう思う? ライオス様のこと」


 シフォンは「ミャア」と言いながら、アイリスの足元に来て体を擦り付けた。


 アイリスが笑いながらシフォンを抱き上げた。


「なんかね」とアイリスが言った。


「ライオス様、シフォンの影のことを知ってる感じがした。あの草地での話。


「ちゃんと届いていた」って言った時」


「ミャア」


「ライオス様は、影の中にいる人を知ってるのかな」


 シフォンは返事をしなかった。

 吾輩も答えられなかった。


「まあ、いいか」とアイリスが言った。


「知っててもよくない人なら、ライオス様は黙ってないだろうし。黙ってるってことは、悪くないって思ってるんだよね、きっと」


 吾輩は——その言葉が、鋭く正確だと思った。


 アイリスは推論している。ライオスがいながらも動いていない、ということから、吾輩が「悪くない」存在だとライオスが判断していると。


 正しい。ライオスは確かにそう判断して、黙っている。


 アイリスは賢い。

 吾輩はそれを、半年以上見てきてわかっていた。


 しかしこうして改めて実感すると——この子は、いつか全部気づくかもしれない、という感覚があった。


「おやすみ、シフォン」とアイリスが言った。

 それから少し間を置いて、「影の中にいる誰かも、おやすみ」と言った。


 笑いながら。冗談のように言いながら。

 しかしその目は——真剣だった。


 吾輩は——答えなかった。


 しかし今夜は、少し迷った。


 

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