第35話:勇者、再び村へ
春になった。
ウェスパル村に戻ってから、三ヶ月が過ぎていた。
雪が溶け、野の花が咲き、シフォンの冬毛が抜け始めた。吾輩は毎日、アイリスがシフォンの毛をブラシでとかす時間を不快に思っていたが、それはシフォンへの過剰な心配であることに最近は気づいていた。気づきながら、気にするのをやめられなかった。
魔力は順調に回復していた。討伐前の六割近くになっていた。そこまで来ると、できることが増えた。遠くの気配を探ることが、以前より精度良くできるようになった。影の形を随意に変えることも。
しかし吾輩は、その力を積極的には使っていなかった。
なぜかは、自分でもよくわからなかった。
ある朝、吾輩は街道の方角に、見覚えのある気配を感じた。
光の力を持つ者。強く、しかし穏やかな。
ライオスだ。
ウェスパル村へ向かっている。
吾輩は遮断を維持しながら、その気配を追った。馬で来ているらしく、速い。午前中には村に着くだろう。
シフォンは知らず、台所でアイリスに朝食をねだっていた。
吾輩は何もしなかった。
来るなら来い。ここはウェスパル村だ。王都ではない。吾輩の地盤だ。それに——あの夜の対話の後、ライオスが敵意を持って来るとは思えなかった。
思えなかった、という事実が——少し前の吾輩とは違う、と気づいた。
ライオスが村に現れたのは、昼前のことだった。
馬から降り、手綱を木に結んで、村の入り口に立った。旅装束で、埃を被っていた。長い旅をしてきた様子だった。髪が少し伸びて、王都で見た時より疲れた顔をしていたが、目の澄み具合は変わっていなかった。
最初に気づいたのは、村の子供たちだった。
「あ! 勇者様だ!」
「ライオス様!」と走り寄る子がいた。
次にセルジュが気づいて「お久しぶりです、勇者様。また来てくださいましたか」と声をかけた。
「お久しぶりです。少しお邪魔してもいいですか」とライオスが答えた。
村人が集まってきた。
以前も来ているから、今度は緊張ではなく笑顔で迎えた。
「どれくらいいらっしゃいますか」
「シフォン様はお変わりないですか」
ライオスが少し困った顔をした。
「少しだけ、ご厄介になれれば」
騒ぎを聞いてアイリスが出てきた。シフォンをうっかり抱えたまま。
シフォンとライオスが、また正面から向き合った。
シフォンはライオスを見て、それから目を逸らした。特に反応しなかった。王都で何度も顔を合わせているし、以前もこの村に来ている。すでに見知った相手だ。だからといって特別に親しい者でもない。ただの見知った人間として扱っていた。
吾輩は、その無関心っぷりに、少しだけ安堵した。
「お久しぶりです」とアイリスが言った。
「お久しぶりです」とライオスが頭を下げた。
「突然来てしまって、すみません」
「いえ、大丈夫です。ライオス様、長旅でしたか」
「少し。各地を調べながら来ました」
ライオスの目がシフォンを見た。それから影を見た。
吾輩は遮断を維持したまま、ライオスを見返した。
ライオスが少し頷いた。気配を感じ取ったのかもしれない。
「ここにいる」という確認の頷きのように見えた。
「どうぞ、家の中へ」とアイリスが言った。
「お茶くらいしか出せませんが」
「十分です」とライオスが言った。
アイリスの家の居間に、ライオスが座った。
狭い石造りの家だ。テーブルと椅子が二つ。暖炉。ガリスが畑仕事に出ていたので二人だった。
ライオスは部屋を見回して「居心地がいい場所ですね」と言った。
「そうですか? 小さいですけど」
「王城より好きです、こういう場所は。あそこは天井が高すぎて、声が響きすぎる」
アイリスが少し笑った。
シフォンはライオスを一瞥してから、窓際の定位置に行って座った。完全に無視した。
ルカがライオスに近づいていった。においを嗅いで、前足でライオスの膝をぽんと触った。
「子猫がいるんですね」とライオスが言いながら、ルカの頭を撫でた。
「ルカっていいます。シフォンが来た後に拾って」
「シフォン様と仲良いですか」
「最初は嫌がってたけど、今は一緒に寝てますよ。シフォンが渋々認めた感じで」
ルカがライオスの膝に乗ろうとした。
「ルカ、だめだよ」とアイリスが言ったが、ライオスが「構いません」と言いながらルカを受け止めた。
ルカがライオスの膝の上でぐるぐると回って、落ち着いた。喉を鳴らし始めた。
アイリスが「ルカ、人見知りしないんですよね」と苦笑いした。
ライオスがルカを撫でながら言った。
「シフォン様はどうですか。王都から帰ってきて、変わりませんか」
「変わらないです、全然」とアイリスが笑った。
「相変わらず、気が向いたことだけやってます。昨日も昼間ずっと日向で寝て、夕方に急に外に出たと思ったらすぐ帰ってきて」
ライオスが少し笑った。
「それは——良いことだと思います。変わらずにいられる場所がある、ということですから」
お茶を飲みながら、ライオスがアイリスに聞いた。
「王都を出てから、村で何か変わったことはありましたか」
「特にないです。平和で。シフォンもいつも通りで」
「そうですか」
「ライオス様は、ずっと旅されてるんですか」
「ええ。各地の魔物の動向を調べたり、かつて魔王軍にいた者の残党を追ったり」
吾輩は、その言葉に少し反応した。
残党を追っている。ゾグたちのことが頭に浮かんだ。しかしライオスはそれ以上詳しく言わなかった。
「大変ですね」とアイリスが言った。
「剣を持って旅して、戦って」
「慣れています」とライオスが言った。
「ただ——最近は、戦うだけでは解決しないことが多いと感じていて」
「というと?」
「魔物を退けても、次が来る。残党を追っても、追いきれない。根本的な何かを解決しないと、いつまでも続く」
アイリスが「難しいですね」と言った。
「難しい。だから——」ライオスが少し間を置いた。
「色々な人と話をしたいと思って、旅をしています。戦うだけでなく、話を聞く旅を」
吾輩は、その言葉を聞きながら、あの夜の対話を思い出していた。
「お前の話を聞きたい」とライオスは言った。今も、それは続いているのだ。剣で解決できないものを、言葉で解決しようとしている。
シフォンが窓から降りてきた。
ライオスの方へ歩いていった。
ルカがライオスの膝の上にいたので、シフォンは少し離れた場所で座って、ライオスを見た。
「シフォン様」とライオスが静かに言った。
「久しぶりですね」
「ミャア」とシフォンが言った。
「お変わりないようで、安心しました」
シフォンが「ミャア」とまた言った。
ライオスが少し笑った。
それから——ライオスが、シフォンの影を見た。
吾輩は静止した。
ライオスが、静かに言った。
「元気そうですね」
アイリスがきょとんとした。
「シフォンに話しかけてますか?」
「ええ」とライオスが答えた。
それだけで、それ以上は言わなかった。
吾輩は——ライオスが「元気そうですね」と言った言葉が、シフォンだけでなく、吾輩に向けられていることをわかっていた。
元気か。
そう聞かれれば——悪くない、と答えたい気がした。
吾輩は意思を、薄く、ほんのわずかに漏らした。
ライオスが、また少し頷いた。
夕方、ライオスは村の宿屋に泊まることになった。
しばらく滞在するつもりらしかった。
「何日くらいいらっしゃいますか」とアイリスが聞いた。
「まだわかりません。シフォン様が嫌がらなければ、少しここにいさせてもらえたら」
「シフォンは気にしないと思いますよ」とアイリスが言った。
「ライオス様が来たって、もう自分の場所に行っちゃいましたし」
シフォンは確かに、今は日向で丸まって眠っていた。
ライオスが「それは安心しました」と言った。
宿屋へ向かう前に、ライオスがもう一度シフォンを見た。それから窓の外の光の当たり方を見て——影を、最後に一瞥した。
吾輩はその視線を受けた。
ライオスが去っていった。
吾輩は、その後ろ姿を見ながら、今日のことを整理した。
来た。話した。去った。それだけだ。王都の夜の対話のような、張り詰めた空気はなかった。ただ——穏やかに話して、穏やかに去った。
吾輩はその穏やかさに、少し戸惑っていた。
敵というものは、緊張をはらんだ関係のはずだ。しかしライオスは今日、アイリスとお茶を飲み、ルカに膝を貸し、シフォンに話しかけた。緊張がなかった。
吾輩との関係は、いつの間にか——「敵」とは違う何かに変わっていた。
まだ名前がつけられない何かに。
夜、シフォンが眠ってから、吾輩は少し外の気配を探った。
村の宿屋に、ライオスがいる。眠っているようだった。
吾輩はその気配を感じながら、今日のライオスの言葉を思い返していた。
「剣を持って戦うだけでなく、話を聞く旅をしている」。
「根本的な何かを解決しないと、いつまでも続く」。
それは——吾輩が世界を征服しようとしていた理由に近い何かを、ライオスも探している、ということだろうか。
方向は違う。目的も違う。
しかし——「根っこにある何か」を探している、という点では、似ているかもしれない。
吾輩は、その考えを少し温めてから、地脈の吸収に戻った。
明日もライオスはここにいる。
何かが、起きるかもしれない。




