第34話:村に帰ってきた
翌朝、ウェスパル村に戻って最初の朝が来た。
シフォンが起き上がり、台所に向かった。
いつも通りだった。
食器の前に座って、「ミャア」と言った。
ガリスが半目で台所に来て、「待て、今準備する」と言いながら食材を取り出した。
ルカがシフォンの後をついてきて、隣に座った。
シフォンがルカをちらりと見た。それからまた前を向いた。
ガリスが「二人分か」と言いながら、椀を二つ用意した。
その光景を見ながら、吾輩は——これが帰った、ということか、と思った。
王都の豪華な朝食ではない。
使用人が運んでくるわけでもない。ガリスが半目で台所に立って、二匹の猫の朝食を用意している。
それだけだ。
しかし——これが良い、と思った。
朝食が終わると、シフォンは日向を探した。
冬の日差しはまだ弱かったが、アイリスの家の南の窓から、朝の光が差し込んでいた。シフォンはその光の中に陣取り、丸まった。
ルカもその隣に来た。
シフォンが少し体を動かして、ルカのための場所を作った——ように見えた。
ルカがぴたりとシフォンに寄り添った。
二匹が並んで、朝の光の中で丸まっていた。
吾輩はその影を——二匹分の影を——眺めた。
吾輩の影はシフォンの影だ。シフォンとルカが並べば、二つの影が隣り合う。吾輩の影と、ルカの影が。
ルカにはまだ、魔王の影は宿っていない。ただの子猫の影だ。
しかし——隣り合っている。
吾輩は、それが少し嬉しかった。
午前中、ベルン神父が訪ねてきた。
白髪の老神父は、相変わらず静かな目をしていた。アイリスに「おかえりなさい」と言ってから、シフォンを見た。
「お戻りになりました」とベルンが言った。
シフォンに向かって。
「ミャア」とシフォンが答えた。
「王都では、色々なことがあったと聞きました」とベルンがアイリスに向いた。
「陛下のお命に関わることも」
「はい」とアイリスが答えた。
「シフォンが——いつも通り、気がついたらやってくれてた感じで」
「シフォン様はいつもそうですね」とベルンが静かに言った。
「ご本人は気づいていない」
「気づいてないと思います」とアイリスが笑った。
シフォンは日向で丸まったまま、この会話を聞いていなかった。
「一つ、聞いてもよいですか」とベルンがアイリスに言った。
「はい」
「王都で、勇者ライオス殿とお会いになりましたか」
アイリスが少し考えてから「はい、会いました」と答えた。
「どんなお方でしたか」
「……正直な人だと思いました」とアイリスが言った。
「建前じゃなく話してくれる感じで。あと、シフォンのことをすごくよく見てて」
「シフォン様のことを」とベルンが繰り返した。
「うん。影を、ずっと見てた」
ベルンが少し間を置いた。目を細めて、シフォンを見た。
「そうですか」と静かに言った。
「ライオス殿は——賢い方だ。賢い人ほど、見えないものを感じ取る」
アイリスが「どういうことですか」と聞いた。
「シフォン様の影には」とベルンが言った。
「何かがあります。私も最初から感じていました。何かとても古い、大きなものが」
吾輩は完全に静止した。
「それが何かは、わかりません」とベルンが続けた。
「しかし悪いものではない。この一年近く、シフォン様が村にいて、悪いことは何も起きていない。むしろ——」
「守ってもらってますよね」とアイリスが言った。
「そうです」とベルンが頷いた。
「守っていただいている。だから私は、その「何か」に感謝しています。正体がわからなくても」
吾輩は、その言葉を聞いた。
ベルンは神父だ。信仰を持つ人間だ。見えないものを信じることに慣れている。だから正体のわからないものにも、感謝を向けることができる。
しかしそれだけではない、と吾輩は思った。
ベルンは最初から、シフォンの影に「何かある」と感じていた。それを「神の使い」と解釈した。正体を問い詰めることはしなかった。ただ——感謝した。
その度量が、吾輩には少し眩しかった。
吾輩はかつて、信仰というものを利用対象としか見ていなかった。民の信仰を操れば支配が楽になる。神殿の地脈を使えば魔力が増す。そういう見方だった。
しかし今のベルンを見ていると——信仰とは、そういうものではないと感じた。
見えないものを、怖れずに、ただ受け入れる。それが信仰というものかもしれない。
「私も」とアイリスが言った。
「よくわからないけど、いてくれてありがとうって、ずっと思ってる」
吾輩は、その言葉を聞いた。
ベルンが「ありがとう」と言った。
正体がわからない何かに向かって。
アイリスが「ありがとう」と言った。
いつもそばにいる誰かに向かって。
吾輩は——何も言えなかった。影だから。
しかし受け取った。今日は、しっかりと受け取った。
三大陸を征服した魔王が、農村の老神父と少女に感謝されている。
おかしな話だ。
しかし——悪くない。悪くない、どころか。
吾輩はその感情を、うまく名付けられないまま、ただ感じた。
昼過ぎ、シフォンが外に出た。
久しぶりの村だ。シフォンはいつものように石畳の広場を歩き、井戸の周りを確認し、教会の石段でしばらく座り、それから村の外れの草地へ行った。
吾輩も引きずられながら、村を歩いた。
半月ぶりの村だ。
変わっていないようで、少し変わっている。
井戸の縁石が少し欠けていた。
収穫後の畑に霜が降りていた。
村の南の外れに、新しい物置が建てられていた。
小さな変化だ。しかし変化がある。村は生きている。
シフォンが草地の枯れ草の上に座った。
冬の空が広がっていた。雲が流れていた。遠くに山が見えた。
吾輩も、その景色を見た。
王都の石造りの壮麗な景色も良かった。しかしこの、枯れた草地と冬空の景色の方が——なぜか落ち着いた。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
誰に向けたのか、わからなかった。
吾輩は黙って、隣にいた。
夕方、村人が一人また一人と声をかけに来た。
「シフォン様、おかえりなさいませ」
「王都はいかがでしたか」
「陛下のお命を救われたとか」
シフォンはいつも通り、興味があるものは興味を示し、興味がないものは無視した。ベルンが「聖獣様はお疲れです、今日はお休みに」と使者役になってくれた。
夕食後、アイリスが「今日、ベルン神父様が来たことを日記に書かなきゃ」と言いながら、机に向かった。
ガリスが「アイリス、王都で変わったか」と聞いた。
「変わった?」
「なんか、少し大人になった気がした。帰ってきた時から」
アイリスが少し考えた。
「色々見たからかな。王都って、すごく大きくて、色々な人がいて。綺麗なものも見たし、怖いことも聞いたし」
「そうか」とガリスが言った。
「でも」とアイリスが続けた。
「帰ってきたらここが一番いいって、ちゃんとわかった」
ガリスが「そうか」と繰り返した。
今度は少し柔らかい声で。
吾輩は、その会話を聞いていた。
帰ってきたらここが一番いい。
アイリスがそう思った。吾輩も——今夜は、そう思っていた。
王都の地脈は豊かで、魔力の回収効率が高い。
しかし——ここには別の何かがある。
記憶の積み重なった場所の、あの重さが。
どちらが「良い」かではない。
どちらも、それぞれに、本物だ。
夜、全員が眠った後で、吾輩は静かに地脈に触れた。
ウェスパル村の地脈。細いが、穏やかで、質が良い。王都の眩しいほどの豊かさとは違う、落ち着いた流れ。吾輩が最初にここに来た日から、少しずつ関係を作ってきた地脈だ。
吾輩はここで、ゆっくりと魔力を吸収し始めた。
急がなくていい。
ここにいる。
これからも、ここにいる。
シフォンとルカが並んで眠っていた。アイリスの寝息が聞こえた。ガリスのいびきが微かに聞こえた。
吾輩はこの一年近くを振り返った。
魔王城が崩れた夜から始まった。シフォンの影に宿った。ウェスパル村に流れ着いた。アイリスに拾われた。聖獣として崇められるようになった。
その間に——廃井戸が直った。麦が芽吹いた。山賊が吹き飛んだ。魔物が退散した。捕虜が助かった。雨季に晴れ間が差した。カタリナが笑った。国王の命が救われた。
全部、意図していなかった。
しかし全部、起きた。
吾輩は「意図せずして善いことをする」という国王の言葉を思い出した。それが一番難しい、とも言っていた。
吾輩には、まだそれができているとは言えない。吾輩は常に意図する。計算する。しかしシフォンに引きずられながら、結果として何かが起きてきた。
それが——この半年の吾輩の形だった。
おかしな形だ。魔王らしくない。
しかし——それで、人が助かってきた。
吾輩はその事実を、今夜は素直に認めることにした。
認めたところで、吾輩が魔王ではなくなるわけではない。力を取り戻したいという気持ちが消えるわけでもない。しかし——同時に、こういう生き方もあると知った。
次に何が起きるかは、まだわからない。
ライオスはまた来るかもしれない。
ゾグたちからの連絡が来るかもしれない。別の何かが起きるかもしれない。
しかし今夜は——ここにいる。
シフォンとルカと、アイリスとガリスと、この小さな家の中に。
それで十分だ。今夜は、それで十分だ。




