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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第33話:帰還の夜

 馬車が止まり、扉が開いた。


 シフォンがアイリスの腕から飛び降りて、石畳の上に着地した。


 村の空気を嗅いだ。


 鼻をひくひくとさせて、ゆっくりと深呼吸するように。それから、ルカの方を向いた。


 ガリスに抱えられたルカが、シフォンを見ていた。

 丸い目で。まだ少し大きくなった気がする。

 半月で、成長した。


 シフォンがルカに近づいた。


 ルカが「ミャッ」と鳴いた。


 シフォンがルカの頭を一度だけ舐めた。


 素早く、短く。それだけだった。


 ガリスが「おかえり、シフォン」と言った。

 それからアイリスを見た。


「アイリス、おかえり」


「ただいま、お父さん」とアイリスが言った。

 声が少し揺れていた。


 吾輩は、その光景を見ていた。




 その夜、アイリスの家に全員が揃った。


 ガリスの料理。シフォンの食器。ルカの小さな椀。暖炉の火。石造りの壁。馴染みの匂い。


 全部、吾輩が知っているものだった。


 王都の石造りの廊下も、煌びやかな謁見室も、豊かな地脈も——全部知っている。しかしこの場所には、別の何かがあった。


 馴染みの重さ、とでも言うのか。


 吾輩には体がないから、重さは感じない。

 しかし影として、この家の石床の上にいると——ここに居続けてきた時間の重みを感じた。


 ここで過ごした夏の朝。秋の雨。

 シフォンが干し魚を催促した日々。

 アイリスが鼻歌を歌いながら家事をしていた夕方。


 全部、吾輩の記憶の中にある。


 それが——帰る場所というものか、と吾輩は思った。


 記憶が積み重なっている場所。


 シフォンが夕食を食べ終わり、いつもの敷物の上に移動した。


 ルカがすぐに寄ってきて、シフォンの隣にくっついた。


 シフォンが少し耳を伏せた。

 嫌そうな顔をした。しかし動かなかった。


 ルカが「ぷる」と喉を鳴らした。


 シフォンが「ぷるる」と返した。


 アイリスが「仲良しじゃん」と笑った。


 ガリスが「ルカ、シフォンがいない間、よく鳴いてたぞ」と言った。


「寂しかったのかな」とアイリスが言った。


「毎晩、扉のところで鳴いてた。シフォンを探してたんだろう」


 吾輩は、その話を聞きながら、ルカを見た。


 シフォンがいない間、毎晩扉の前で鳴いていた。


 それは——シフォンのためか。

 それとも、シフォンの影の中にいる誰かのためか。


 吾輩には判断がつかなかった。

 しかし、ルカがここで吾輩たちを待っていたという事実は——何か温かいものとして、吾輩の中に残った。


 ルカがシフォンの体にぐりぐりと頭を押しつけた。


 シフォンが「ウ゛」と小さく唸ったが、どかさなかった。


 ガリスが「まあ、帰ってきてよかったな」と言った。

 アイリスに向かって言ったのか、シフォンに向かって言ったのかは、わからなかった。


「うん」とアイリスが言った。


「帰ってきてよかった」




 夜が深まり、アイリスもガリスも眠った。


 部屋は静かになった。


 暖炉の火が小さくなっていた。外では冬の風が吹いていた。しかし部屋の中は暖かかった。


 シフォンとルカが、敷物の上で並んで眠っていた。


 吾輩は——久しぶりに、この静けさの中にいた。


 王都は賑やかだった。毎日何かがあった。式典、謁見、陰謀、勇者との対話。常に何かへの警戒が必要で、常に遮断を維持していた。


 ここは違う。


 石造りの家の中で、二匹の猫が眠っていて、暖炉の火が揺れている。それだけだ。


 吾輩は、ゆっくりと地脈に触れた。


 ウェスパル村の地脈だ。王都のものより細いが、質が良い。熟成した、穏やかな流れ。吾輩がここで何ヶ月も育ててきた関係のある流れだ。


 吸収を始めた。


 静かに、ゆっくりと。


 急がなくていい。明日も明後日も、ここにいる。




 しばらくして、吾輩は独り言を言いたくなった。


 誰も聞いていない。アイリスは眠っている。シフォンもルカも眠っている。


 それでも——言いたかった。


「帰ってきた」と吾輩は思った。

 声にはならないが、意識の中で言葉にした。


 帰ってきた。


 この言葉を、吾輩は今まで使ったことがなかった。

 魔王城に戻る時は「帰城」という言葉を使った。

 しかしそれは「帰る」ではなかった。

 支配の場所に戻ることだった。


 今夜、吾輩は「帰ってきた」と思った。


 ウェスパル村という、自分の場所に。


「変わったものだ」と吾輩は続けた。


「吾輩が、こんな小さな村を帰る場所と呼ぶようになるとは」


 シフォンが寝返りを打った。


「お前のせいだ」と吾輩はシフォンに向かって言った。


「お前がここに来なければ、吾輩は別の場所に流れ着いていた。もっと力ある場所に。もっと魔力の集まる場所に。しかしお前がアイリスに拾われて、ここに来た」


 シフォンは眠っていた。


「お前は何も選んでいない。ただ、ミルクの匂いに引き寄せられて、少女の腕に収まっただけだ。しかしそれで、吾輩の半年が決まった」


 暖炉の火が小さく揺れた。


「考えてみれば——お前はずっとそうだ。何も選ばず、何も計画せず、ただ今感じたことに向かって動く。蝶を追いかけ、魔物に突進し、王女の部屋に入り込み、雨が嫌いだから暴れる。それだけだ」


 吾輩は少し間を置いた。


「それなのに——廃井戸が直り、麦が芽吹き、山賊が飛び、捕虜が助かり、毒殺が阻止された。全部、お前が意図していなかったことで起きた」


 シフォンがごろごろと寝言のように喉を鳴らした。


「吾輩はどうだった、か」と吾輩は自問した。


『吾輩は全部、意図してきた。計画して、計算して、目的を持って動いてきた。三大陸を征服した。しかし——孤独だった。玉座の上で、誰も本音で話しかけない場所で、ずっと孤独だった」


 ルカが小さく「ミャッ」と鳴いた。眠りながら。


「お前は違う」と吾輩はシフォンに言った。


「お前は今ここに、ルカと並んで眠っている。アイリスが「帰ってきてよかった」と言った。ガリスが待っていた。ルカが毎晩扉で鳴いていた」


 吾輩は、その事実を並べながら——吾輩自身のことを思った。


「吾輩も、待たれていたのかもしれない。シフォンを通じて。お前の影として、いつもそこにいたから——吾輩も、待たれていたのかもしれない」


 その考えは、少し照れくさかった。


 魔王が、農村の少女に待たれている。


「馬鹿げた話だ」と吾輩は言った。


「しかし——悪くはない」


 悪くはない。それが、今夜の吾輩の結論だった。


 吾輩はまだ、征服したいと思っている部分がある。

 力を取り戻したいと思っている。

 しかし同時に——この静けさを失いたくない。


 両方が本当だ。


 カタリナが言っていた。相反する二つのことが、同時に本当ってことはある、と。


 そうかもしれない。


 吾輩はまだ答えを出せない。しかし、答えを急ぐ必要もない。


 ここにいる。シフォンの影として。この村の、この家の、この石床の上に。


 それで今夜は、十分だ。




 ルカが寝言を言った。


 「ミャッ」と小さく。眠りながら。


 シフォンが耳をぴくりと動かした。しかし目は開けなかった。


 吾輩はその二匹を見ながら、王都での出来事を振り返っていた。


 ライオスとの対話。


「今のお前は、また世界を征服するつもりがあるか」という問い。「わからない」と答えた自分。


 今夜は——少し答えが見えてきた気がした。


 正確に言えば、「両方だ」という答えが。


 征服したい気持ちは今もある。力を取り戻して、世界に吾輩の存在を示したい。消えていない。


 しかし同時に——今ここにある静けさを、失いたくない。この家を。シフォンとルカが並ぶ敷物を。アイリスが鼻歌を歌う台所を。ベルンの教会の地脈を。広場の直った井戸を。


 両方が同時に本当だ。


 矛盾している。しかし人間だって矛盾を抱えて生きている。カタリナが猫アレルギーなのにシフォンを離さなかったように。アイリスが「気のせいかな」と言いながら影に感謝するように。ライオスが宿敵を追わずに「聞きたい」と言うように。


 矛盾を抱えたまま生きることが——今の吾輩には許されている気がした。


 答えは、まだ出なくていい。


 ここにいる。それだけで今夜は十分だ。


 


 夜明けが近づいた頃、アイリスが少し寝返りを打って、目を薄く開けた。


「……シフォン?」


 シフォンが目を開けた。


「帰ってきたんだね」とアイリスがぼんやりと言った。


「よかった」


 シフォンが「ミャア」と言った。


「おやすみ」とアイリスが言って、また目を閉じた。


 すぐに寝息が聞こえてきた。


 吾輩は、その短いやり取りを聞いていた。


 帰ってきたんだね、よかった。


 たった一言だ。眠りかけの、半分意識のない言葉だ。しかしアイリスの声には、本物の安堵があった。


 吾輩は——その「よかった」が、自分にも向けられているような気がした。


 シフォンが帰ってきてよかった。そしてシフォンの影の中にいる誰かも、帰ってきてよかった。


 そんなふうに、聞こえた。


 根拠はない。アイリスは眠りながら言っただけだ。


 しかし吾輩は——受け取った。


 今夜は、それで十分だった。


 吾輩もここにいる。帰ってきた。


 シフォンとルカの喉の音が重なって、静かな部屋に響いていた。


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