第32話:王都との別れ
馬車が城壁を抜けた時、吾輩は意識として後ろを振り返った。
城壁の上に、人影があった。
赤みがかった金髪が、冬の風に揺れていた。
カタリナだった。
城壁の上から、馬車が見えなくなるまで見送るつもりらしかった。外套を羽織っているが、それでも冬の朝は寒い。くしゃみをしながら、しかし動かずに立っていた。
シフォンが馬車の後ろの窓から、城壁を見た。
カタリナが見えたのかどうか、距離があるのでわからない。しかしシフォンはしばらく後ろを向いていた。
やがて城壁が曲がりで見えなくなった。
シフォンが前を向いた。
吾輩も前を向いた。
街道を南へ、しばらく走ると、王都の気配が薄くなった。
建物が減り、農地が増え、空が広くなった。冬の空は晴れていて、遠くの山に雪が光っていた。
アイリスが窓の外を見ながら、「広いな」と言った。
シフォンも窓の外を見た。馬車の乗り心地にもすっかり慣れて、今は前足を窓枠にかけて外を眺めていた。往路と比べると、ずいぶん堂々としていた。
「シフォン、旅が好きになった?」とアイリスが聞いた。
「ミャア」
「まあ、帰り道だしね。気が楽かな」
吾輩には、その「気が楽」という感覚がよくわかった。往路は未知の場所へ向かう緊張があった。
帰り道は——知っている道を、知っている場所へ戻る。それだけで、何かが違う。
シフォンが欠伸をした。
それから敷物の上に戻り、丸まった。
帰り道の昼寝だ。
一日目の宿に着いた時、アイリスが使者に尋ねた。
「ライオス様は、今どちらにいらっしゃるんですか」
使者が「さあ、私どもにはわかりかねますが——調査のお旅に出ておられるかと」と答えた。
アイリスが「そうですか」と言った。
少し考えてから続けた。
「…また会えるといいな」
吾輩は、その言葉を聞いた。
またあの男と会う機会があれば——あの夜の続きを、するかもしれない。
「今は言えない。いつか、言えるかもしれない」と吾輩は答えた。声にならない言葉で。しかし今夜は誰も聞いていない。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
夕食を催促していた。
二日目の夜、街道沿いの宿で、アイリスが窓から星空を見上げた。
「シフォン、見て。星きれい」
シフォンがアイリスの隣に来て、窓の外を見た。
「誕生日の夜みたい」とアイリスが言った。
吾輩は、その言葉に止まった。
誕生日の夜。あの青白い光の粒を、吾輩が影から作った夜。アイリスが「きれい」と言って、天井を見上げて、シフォンを抱きしめた夜。
「あの星の光、まだ覚えてる」とアイリスが言った。
「部屋に浮かんでた、あの青白い光。ゆっくり揺れてて、だんだん消えていって」
シフォンが「ミャア」と言った。
「シフォンが出したんだよね、きっと」とアイリスが言った。
「どうやったのかは、全然わからないけど。猫がそんなことできるはずないし、でもシフォンだから、できるのかなって」
吾輩は黙っていた。
「でも、あれすごく綺麗だった」とアイリスが続けた。
「誕生日に、ああいうのをもらえると思ってなかったから。なんか——誰かが、私のためにやってくれた、って感じがして」
アイリスが少し間を置いた。窓の外の星を見ながら。
「シフォンだと思ってたけど、シフォンの中に何かいるんじゃないかって、最近ずっと思ってて」
吾輩は、完全に静止した。
「変なこと言ってるのはわかるけど」とアイリスが笑った。
「でもなんか、シフォンだけじゃない気がして。一緒にいる誰かが、いる気がして。もしそうだとしたら——その人にもありがとう、って言いたいな」
シフォンが「ミャア」と言った。
アイリスが「ありがとう、またいつか見せてね」と言った。
シフォンに向かって。あるいは——吾輩に向かって。
吾輩は、その言葉を、静かに受け取った。
その人にも、ありがとう。
吾輩は百年以上生きてきた。
しかし「ありがとう」という言葉を、自分に向けられた言葉として受け取ったことは——ほとんどなかった。
征服した国の王から感謝されたことはない。配下の魔族が忠誠を誓うことはあっても、感謝を言うことはなかった。
今夜、農村の少女が窓の外の星を見ながら、影の中の吾輩に「ありがとう」と言った。
吾輩は何も言えなかった。
しかし——受け取った。
三日目の夜、野宿になった。
宿が取れない山道で、使者が「申し訳ありません」と言いながら、街道脇の開けた場所に野営の用意をした。
焚き火が起こされた。
アイリスがシフォンを膝に乗せて、焚き火のそばに座った。使者と護衛の騎士たちは少し離れたところにいる。
夜空が広かった。
山の中なので、王都より空気が澄んでいた。星が鮮明に見えた。天の川が白く帯をなして、空を横切っていた。
「すごい」とアイリスが言った。
「こんな星空、見たことなかった」
シフォンも上を見た。その金色の目に、星が映っていた。
「ウェスパル村でも、こんなふうに見える夜があるのかな」とアイリスが言った。
『あんまり夜に外に出ないから、気づいてなかっただけかな」
「ミャア」とシフォンが言った。
「帰ったら、一緒に星空見ようね」
吾輩は、その言葉を聞きながら——星空を見ていた。
意識として、空を見上げていた。
無数の星。
かつて吾輩は星を見ても、何も感じなかった。地図の上の星座として、航路や季節の指標として見ていた。しかし今は——ただ、綺麗だと思う。
変わったな、と吾輩は思った。
世界を征服しようとしていた男が、野宿の焚き火のそばで星を眺めている。
おかしな話だ。しかし——悪くはない。
シフォンが「ぷるる」と喉を鳴らした。
アイリスが「眠くなってきた?」と言った。
「ミャア」
「私も」とアイリスが言った。
「でもこの星空、もう少しだけ見てたい」
吾輩も、もう少しだけ見ていた。
帰り道の三日間で、吾輩はいくつかのことを考えていた。
ライオスが言った言葉——「お前がどうなるかは、お前が決めることだ」。
それは吾輩への問いかけでもあった。
吾輩はこれからどうするのか。
魔力は五割近くまで回復している。もう少し時間をかければ、より強くなる。しかし何のために強くなるのか——以前ほど明確ではなかった。
世界を征服する、という目標。それが色褪せているわけではない。しかしその根っこにあったもの——どこにも居場所がなかった子供の時の恐怖——は、今の吾輩にはない。
吾輩には今、帰る場所がある。
ウェスパル村という場所が。シフォンとアイリスとガリスとルカがいる場所が。
それは——吾輩が長年探し続けていたものではないか、と思った。
全部征服すれば居場所ができると思っていた。しかし征服しなくても、居場所はあった。
おかしな話だ。
魔王がそんな結論に至るとは。
しかし吾輩は、その結論を、完全には受け入れられなかった。農村の猫の影として居場所を見つけました——そんな話で終わるわけにはいかない。
吾輩はヴァルキスだ。
もっと大きな何かのために存在しているはずだ。
しかし——何のために、という問いへの答えが、今はまだ見つからなかった。
それでいい、と吾輩は思った。
今すぐ答えを出す必要はない。
問いを持ったまま、帰ることができる。
それだけで、今は十分だ。
シフォンが寝返りを打った。
焚き火の音が続いていた。
四日目の夕刻、馬車がミルダ村を通った。
以前、シフォンが初めて遠出した時に立ち寄った村だ。あの時、ゴブリン変異種を退散させた村。市場で干し魚をもらった村。捕虜を助けた村。
馬車がゆっくりと村の中心を通ると、村人が気づいた。
「あの馬車、聖獣様では?」
しばらくして、村人が集まり始めた。
「シフォン様! 戻ってこられた!」
「お帰りなさい、シフォン様!」
シフォンが窓から顔を出した。
ミルダ村の村人たちが、手を振っていた。
吾輩は、その光景を見た。
王都の大通りの何千人とは違う、三十人か四十人ほどの、小さな村の歓迎だった。
しかし——なぜかこちらの方が、胸に来た。
顔が見える。一人ひとりの顔が。
市場の干し魚の屋台のおやじが、手を振っていた。
あの時「ありがたや……」と手を合わせた男だ。
捕虜として助けられた商人の中年男もいた。
あの時「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げていた人だ。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
村人が笑った。
馬車はそのまま通り過ぎたが、吾輩はしばらく後ろを見ていた。
手を振り続ける村人たちを。
あの日、シフォンが偶然のくしゃみで魔物を吹き飛ばして。それがこの村の人々に記憶された。そしてこうして、半年後も笑顔で手を振っている。
記憶は残る。
吾輩が意図しなくても、やったことは残る。
それは——悪くないことだと思った。
五日目の午後。
馬車の窓から、見慣れた石積みの低い塀が見えてきた。
ウェスパル村だった。
「あ!」とアイリスが声を上げた。
「見えてきた!」
シフォンも窓から外を見た。
金色の目が、少し大きくなった。
匂いを感じているのかもしれない。この村の匂い。石畳の匂い。アイリスの家の匂い。地脈の匂い——吾輩にはわかる、あの地脈が、そこにあった。
ウェスパル村の地脈だ。王都ほど太くはないが、吾輩がここで何ヶ月も育んできた、馴染みの流れ。
「帰ってきたよ、シフォン」とアイリスが言った。
シフォンが「ミャア」と言った。
いつもより少し、高い声で。
村の入り口に、人が集まっていた。
噂が届いていたのだろう。帰ってくる日がわかっていたのだろう。村人の多くが出迎えに来ていた。
農夫のセルジュが笑顔で立っていた。双子の姉妹が手を振っていた。宿屋の主人が腕を組んで待っていた。干し魚の屋台のおやじが来ていた。
ベルン神父が、静かに立っていた。
そしてガリスが——ルカを腕に抱えて、立っていた。
ルカが「ミャッ」と鳴いた。
シフォンが馬車の窓から顔を出して、ルカを見た。
ルカがまた「ミャッ」と鳴いた。
シフォンが「ミャア」と答えた。
吾輩は、その瞬間を——しっかりと見ていた。
帰ってきた。
ウェスパル村に。
吾輩が「帰る場所」と呼ぶようになった場所に。




