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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第31話:王都を去る決意

 王都滞在十四日目の朝、シフォンが窓の外をじっと見ていた。


 南の方角だ。


 ウェスパル村のある方向だ。


 吾輩は、シフォンの横顔を見ながら、その視線が向いている先を感じていた。南へ続く街道、丘と森を越えた先の、小さな村。石造りの家々と、農地と、教会と、広場の井戸と——。


 シフォンが「ミャア」と鳴いた。


 アイリスが顔を上げた。


「どうしたの、シフォン」


「ミャア」


 アイリスがシフォンの視線の先を見た。窓の外、南の空。


「……帰りたい?」


 シフォンが「ミャア」と答えた。


 アイリスが少し考えた。

 それから「そうだね」と言った。


「私も、そろそろかな、と思ってた」




 長旅だった。


 ウェスパル村を出て半月が過ぎていた。ガリスが一人で畑を守っている。ルカも預けてきたままだ。村の人々も、シフォンがいなくなってから、何か変わりがないか心配しているかもしれない。


 アイリスが使者に「帰りたい」と伝えると、使者は少し困った顔をした。


「国王陛下が、もう少しご滞在いただければと——」


「わかってるんですけど」とアイリスが言った。


「シフォンが、なんか落ち着かなくなってきて。猫って、縄張りの場所に戻りたくなる生き物らしくて」


「聖獣様がご帰還を望まれているのであれば」と使者が言った。


「それが最優先でございます。陛下にもお伝えします」


 その日の午後、帰還の日程が決まった。

 二日後に出発する、と。


 吾輩はその知らせを聞きながら、二日後か、と思った。


 二日。


 王都の地脈はまだ豊かだ。あと二日あれば、もう少し魔力を吸収できる。計画の観点からは、もう少し滞在した方が良かった。


 しかし——シフォンが南を見ていた。


 それで十分だ、と吾輩は思った。


 帰ろう。


 その思いが、自然に生まれた。




 出発前日、吾輩は王城の各所を最後にひとめぐりした。


 もちろん体がないので、シフォンに引きずられながら、だ。シフォンがなぜかその日は城内をあちこち歩き回ったので、結果として吾輩も城の隅々まで歩くことができた。


 書庫——ライオスが本を読んでいた場所。あの夜の対話を思い出した。


「今のお前は、また世界を征服するつもりがあるか」という問いを。


「わからない」と答えた自分を。

 


 謁見室——玉座に登ったシフォンを、臣下たちが固唾を飲んで見ていた場所。国王が笑った場所。


 中庭——噴水を叩き続けたシフォン。ライオスが柱の陰から観察していた場所。


 カタリナの部屋の前——くしゃみをしながらもシフォンを離さなかった王女。


 それぞれの場所に、二週間の記憶があった。


 吾輩はかつて、この王都を「制圧すべき要塞」として見ていた。今は——場所ごとに、出来事の記憶がある。人の顔がある。


 世界の見方が、変わっていた。


 吾輩はその事実を、静かに確認した。


 国王ジュリアン・ヴァロアへの謁見が、翌日に設けられた。




 最後の謁見は、正式なものではなかった。


 謁見室ではなく、国王の私室に近い小部屋で、アイリスとシフォンと国王、それとカタリナが顔を合わせた。


 カタリナは相変わらずシフォンの前でくしゃみを繰り返しながら、それでも部屋から出ようとしなかった。


「帰ることにしたのね」とカタリナがアイリスに言った。


「はい。シフォンが帰りたそうで」


「そう」


 短い返事だった。

 しかしカタリナの目が、少しだけ細くなった。


「また来てもらえる?」と、珍しく柔らかい声でカタリナが言った。


「来る機会があれば」とアイリスが答えた。


「カタリナ様もいつかウェスパル村に来てみませんか。小さい村ですけど」


「猫が一匹いるんでしょう」


「ルカっていうんです、子猫で」


「子猫」とカタリナが言った。くしゅんとくしゃみをした。


「……ルカ、か」


 シフォンが、カタリナの足元に近づいた。


「シフォン」とカタリナが言いながら、しゃがんでシフォンの頭を撫でた。


「くしゅん」


 くしゃみをしながら、撫でていた。


「ありがとうね」と小声でカタリナが言った。


「来てくれて」


 シフォンが「ミャア」と答えた。


 吾輩はその場面を見ながら、二週間前にカタリナが言っていた言葉を思い出していた。臣下は全員お世辞しか言わない。王女に純粋に話しかける人間がいない。


 シフォンが来て、アイリスが来た。


 それだけで、カタリナの何かが変わった気がした。




 国王との別れは、もっと短かった。


 ジュリアン・ヴァロアはシフォンを見て、それから静かに言った。


「また奇跡が起きたら、聞かせてほしい。ベルンという神父から手紙が届くことを楽しみにしている」


「はい」とアイリスが答えた。


「シフォン様」と国王がシフォンに向かって言った。


「ありがとう。ドミニク・アランデルのこと、そしてこの王都に来てくれたこと、全部」


 シフォンが「ミャア」と言った。


「そうだな」と国王が笑った。


「お前に礼を言われても困るか」


 それから国王が少し声を低くして、アイリスだけに聞こえるように言った。


「あの子が少し笑うようになった。カタリナが。シフォン様と、あなたのおかげだ」


 アイリスが「……カタリナ様のおかげだと思います」と答えた。


「もともとそういう力を持ってらしたんですよ、きっと。シフォンはきっかけを作っただけで」


 国王が少し目を細めた。


「賢い子だ」


 アイリスが照れた顔をした。




 出発の朝、王城の前庭に馬車が用意された。


 帰りも王家の馬車だった。使者と護衛の騎士が同行する。ウェスパル村まで送ってくれるとのことだった。


 前庭に、多くの者が見送りに来ていた。


 臣下たち、使用人たち、城の衛兵たち。みんながシフォンを見ていた。シフォンはといえば、馬車を見てまたじりじりと後退しそうになったが、吾輩が昨夜のうちに敷物を馬車に入れ直しておいたので、前回ほど嫌がらなかった。


 カタリナが前庭に出てきた。


 くしゃみをしながら、しかし出てきた。


「くしゅん」


「カタリナ様、外は寒いですよ」とアイリスが言った。


「少しだけ」とカタリナが言った。


 シフォンがカタリナに近づいた。カタリナの足に頬をすりつけた。


「くしゅん」


 カタリナの目が赤くなった。アレルギーのせいか、それとも別の理由かは——わからなかった。


「元気でね」とカタリナが言った。シフォンに向かって。


「また来てよ」


「ミャア」とシフォンが言った。


 カタリナが「くしゅん」とくしゃみをして、しかし笑っていた。




 馬車が動き出した。


 城門を出ると、大通りに人が集まっていた。シフォンの出立を知った市民たちが集まっていたのだ。


「聖獣様のご出発だ!」


「また来てください、シフォン様!」


「ありがとうございました!」


 歓声が大通りを満たした。


 シフォンは馬車の窓から顔を出して、その人波を見た。


 体が固まった。大勢の人間に——。


 しかし今回は、すぐに逃げなかった。


 しばらく、じっと見ていた。


 吾輩も、シフォンの隣で見ていた。


 二週間前、この大通りを来た時は馬車に顔を埋めて隠れていたシフォンが——今は、窓から顔を出して、人々を見ていた。


 慣れた、というわけではないだろう。ただ——今日は、見ようと思ったのかもしれない。


 最後に、記憶に留めようとしているのかもしれない。


 シフォンが「ミャア」と一声鳴いた。


 誰に向けた声かは、わからなかった。


 しかし人々がそれに応えて歓声を上げた。


 吾輩は——その光景を、影の中から眺めていた。


 かつて、吾輩が大通りを行軍した時も、人々が沿道に並んだ。しかしあの時の顔は恐怖で凍りついていた。今の顔は笑っている。手を振っている。子供が走り回っている。


 同じ大通りで、全く違う光景だ。


 どちらが良いかは——今の吾輩には、明白だった。




 城壁を出ると、王都の音が遠くなった。


 街道が始まった。石畳の広い道が、南へ続いている。


 アイリスが「出発したね」と言った。


「ミャア」とシフォンが答えた。


「帰るよ、シフォン。ウェスパル村に」


「ミャア」


「お父さんも、ルカも待ってるよ」


 シフォンが、窓から外を眺めた。


 遠ざかる王都の城壁を、しばらく見ていた。それから視線を前方に向けた。南へ続く道へ。


 吾輩も、同じ方向を見ていた。


 帰る。


 その言葉が、吾輩の中でも自然に生まれていた。


 王都での二週間を振り返った。

 玉座に登ったシフォン。

 宮廷魔術師の測定。

 ライオスとの邂逅。

 カタリナとの出会い。

 ドミニク・アランデルの陰謀。

 そして——夜の対話。


 多くのことがあった。


 魔力も大きく回復した。討伐前の五割近くまで来ていた。ウェスパル村での半年で二割だったものが、二週間でさらに三割近く積み上がった。王都の地脈の豊かさを、改めて実感した。


 計画は確実に進んでいる。


 しかし今、馬車が南へ動き出した瞬間に、吾輩が感じたのは——計画の進捗ではなかった。


 帰る、という感覚だった。


 ウェスパル村という場所へ。ガリスとルカがいて、ベルンがいて、村人たちがいて——あの石畳の広場と、直った井戸と、アイリスの小さな石造りの家がある、あの場所へ。


 吾輩が「帰る場所」と呼ぶようになった場所へ。


 いつからそうなったのかは、わからない。しかしそう感じていた。


 シフォンが馬車の敷物の上に丸まった。


 吾輩も、その隣にいた。


 南へ、帰る。


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