第30話:魔王と勇者、夜の対話
ドミニク・アランデルの一件から二日後の夜、ライオスが王都に戻ってきた。
吾輩は気配で察した。夕刻、城門の方角から、あの澄んだ光の力が近づいてくるのを感じた。
旅装束で馬を駆っているのだろう。数日の調査から戻ってきたらしかった。
その夜、吾輩は警戒を高めた。
ライオスが戻れば、また観察が始まる。
影への視線、「単純でない」という言葉、去り際に唇だけで言いかけた何か——それらが再び始まる。
吾輩は魔力の遮断を完璧に維持して、ただの猫の影として過ごすつもりだった。
アイリスとシフォンは早めに眠った。
ドミニク事件の後、王城の空気は少し緊張しており、アイリスも疲れていたようだった。シフォンも今日は外をあまり歩かず、部屋でアイリスの横に丸まっていた。
深夜になった。
城内が静まりかえった。
吾輩は地脈から魔力を吸収しながら、夜の王城に意識を広げていた。
その時、廊下に足音がした。
一人の足音。軽く、しかし確実な足取りだ。
足音が、吾輩たちの部屋の前で止まった。
吾輩は完全に遮断した。
扉の向こうに人が立っている。気配を探った。
ライオスだった。
なぜここに来た。まさか今夜、動くつもりか。吾輩は瞬時に全ての選択肢を考えた。逃げるか、迎えるか、無視するか——。
ライオスが、扉の向こうで、静かに言った。
「ヴァルキス」
吾輩は、動けなかった。
名前を呼ばれた。
本名を。
「聞こえているか」とライオスが続けた。
声は低く、しかし静かだった。怒りも、威圧もなかった。ただ確認するような声だった。
「聞こえているなら、返事をしなくていい。ただ、聞いてくれ」
吾輩は動かなかった。
答えるべきか。答えないべきか。
名前を知っている。ヴァルキスという名前を知っている。つまりライオスは確信していた。シフォンの影に、魔王ヴァルキスが宿っていると。
しかしライオスは扉を開けなかった。中に入ってこなかった。
ただ、廊下に立って、話しかけていた。
「わかった」とライオスが言った。
「お前が何も言わなくても、構わない。ただ、俺の話を聞いてくれ」
少し間があった。
「お前が魔王ヴァルキスだとわかったのは、ウェスパル村に行く前からだ。大陸を回っている間に、いくつかの古い記録を調べた。魂が消えずに残る場合の条件。影に宿る可能性。そして——お前の魔力の特徴」
吾輩は聞いていた。
「城門でシフォンを見た時に、確信した。影の形が、一瞬だけ変わった。翼と角が見えた。あれはお前の形だ。俺はお前と戦ったから、その形を知っている」
吾輩はその言葉を聞きながら、静かに驚いていた。
城門の時。あれはほんの一瞬だった。魔力の遮断も、その時点ではまだ完璧ではなかったが、一瞬だけ形が崩れたとしても——あの短時間で気づくとは。
「なぜ今まで黙っていたかというと」とライオスが続けた。
「わからなかったからだ。お前がここにいて、何をするつもりか」
少し間があった。
「ウェスパル村での五ヶ月を、俺は調べた。井戸の修復、麦の芽吹き、山賊の退散、魔物の撃退、捕虜の救出。全部お前だろう。意図したかどうかはわからないが、結果として人を助けてきた」
吾輩は黙っていた。
「ここ王城でも、ドミニク・アランデルの毒殺計画を阻止した。ジュリアン陛下が生きているのは、お前のおかげだ」
ライオスが一度、静かに息をついた。
「俺は魔王を倒すために戦った。それは変わらない。お前が三大陸にしてきたことを、俺は許しているわけではない。ただ——今のお前が何をしているかを見て、俺にはわからなくなった」
吾輩は、その言葉の重さを感じていた。
扉一枚隔てた向こうで、ライオスが立っている。かつて吾輩を討伐した男が。その男が今、「わからなくなった」と言っている。
どうする。
このまま黙っているか。
あるいは——。
吾輩は、長い間考えた。
シフォンが寝返りを打った。アイリスの寝息が聞こえた。
吾輩は、今夜が——何かの分岐点だと感じた。
このまま黙れば、ライオスはいつか別の判断を下す。証拠を揃えて、あるいは確信だけで、動くかもしれない。
話せば——何が起きるか、わからない。
しかし。
吾輩は影から、ほんの薄く、気配を漏らした。
遮断を、少しだけ緩めた。
魔王ヴァルキスの気配が、扉の隙間から漏れた。
ライオスが「……」と、息を止めた気配がした。
吾輩は意思を送った。声にはならない。しかし、かつてゾグとリルに送ったように、意思として。
聞いている、と。
ライオスが、長い息をついた。
「そうか」と静かに言った。
「聞いているか」
それから少しの間、ライオスは黙っていた。
「お前に一つ聞きたい」とライオスが言った。
「今のお前は、また世界を征服するつもりがあるか」
吾輩は——答えが、すぐに出なかった。
以前なら即座に「ある」と答えていた。それが吾輩の目標だったから。しかし今夜、廊下でライオスに問われて——答えが、出なかった。
「ある」と言えるか?
吾輩の中を探った。五ヶ月前にはあったはずの、あの強烈な意志——世界を手中に収める、すべてを支配する、誰にも追い出されない場所を作る——その意志が、今夜はどこにあるかわからなかった。消えたわけではない。しかし以前ほど鮮明ではなかった。
吾輩は意思を送った。
わからない、と。
ライオスが「わからない、か」と繰り返した。声に何かが混じった。驚きか、あるいは——安堵に近い何かか。
「そうか」とライオスが言った。
「お前が"ある"と言えば、俺は今夜ここで決着をつけようとしていた。"ない"と言えば、それが本当かどうか測れない。しかし"わからない"とは——正直な答えだな」
吾輩は何も言わなかった。
「俺もわからないことがある」とライオスが続けた。
「お前を倒した。魔王は討伐された。それで世界は平和になるはずだった。実際、大きな戦争はなくなった。しかし——宮廷の陰謀は残った。民の貧困は残った。各地に散った魔物の残党は今も人を傷つけている。俺が剣で倒せるものは、思っていたより少ない」
吾輩は、その言葉を意外に感じた。
勇者が、こういうことを言う。英雄として称えられている男が、「思っていたより少ない」と言う。
「お前が世界を征服しようとした時、お前には理由があったんだろう」とライオスが言った。
「ただの力への欲求だけではなかったはずだ。何かがあったはずだ、その根っこに」
あの夜、吾輩が誰も聞いていない闇の中で語ったこと。北の果ての村。どちらからも疎まれた子供。全部手に入れても居場所がなかった玉座。誰も本音で話しかけない孤独。
ライオスは知らない。しかし——この男は、見えていない部分を感じ取っているのかもしれない。
「俺はお前を倒した後で、思ったことがある」とライオスが静かに言った。
「なぜお前と話さなかったのか、と。戦う前に。剣を交える前に、言葉を交わせばよかった、と」
吾輩は、その言葉を聞いた。
「それは甘いことだとわかっている。お前は三大陸を傷つけた。俺の仲間も多く失った。話して済む話ではなかった」
ライオスが一度、息を止めた。
「それでも——死んだと思っていたから、もう聞けないと思っていたから。こうして話せる機会があるなら——俺はお前の話を、聞きたい」
吾輩は、しばらく動かなかった。
聞きたい。
吾輩の話を。
これまでの人生で、吾輩の話を「聞きたい」と言った人間は一人もいなかった。命令を聞く者はいた。報告を聞く者はいた。
しかし吾輩自身の話を聞きたいと言う者は——魔族の部下にも、征服した国の王にも、いなかった。シフォンも聞いてくれた、あの夜に。しかしシフォンには言葉が届かない。
ライオスは——届く。
吾輩は、意思を送った。
今は言えない。いつか、言えるかもしれない。
ライオスが「……そうか」と言った。少しの間があった。
「それで十分だ」
「一つだけ、伝えておく」とライオスが言った。
「今夜のことは、誰にも言わない。アイリスにも、国王にも、ラファエル・ベルタン侯爵にも」
吾輩は聞いていた。
「お前が今のままでいる限り——シフォン様と、アイリスと、あの村の人々のそばにいる限り——俺は動かない。それが俺の判断だ」
静かな言葉だった。
脅しではなかった。宣言でもなかった。
ただ、一人の男が一人の——影に向かって、伝えていた。
「ただ、わかってほしいのは」とライオスが続けた。
「俺は、お前が再び人を傷つけようとした時には、止める。それだけは変わらない」
吾輩は、その言葉を聞いた。
再び人を傷つけようとした時。
吾輩はこの五ヶ月間、人を傷つけていない。意図せずして助けてきた。それはライオスも知っている。
「お前がどうなるかは、お前が決めることだ」とライオスが言った。
「俺にはわからない。ただ——今のお前を見ていると、あの夜討伐した魔王と、同じ存在だとは思えなくなってきた」
それが最後の言葉だった。
ライオスの足音が、廊下を遠ざかっていった。
静かになった。
吾輩は、長い間、動かなかった。
シフォンが寝息を立てていた。アイリスが寝返りを打った。
王都の夜は静かで、地脈が流れていた。
吾輩は、ライオスの言葉を、一つひとつ反芻した。
本名を知っていた。城門から確信していた。
しかし五ヶ月以上、黙っていた。
なぜか——わからなかったから、と言った。
お前がどうなるかは、お前が決めることだ。
その言葉の重さを、吾輩は測っていた。
かつての吾輩なら「敵が様子を見ている」という判断をした。警戒を高め、逃げるか先手を打つかを考えた。しかし今夜の吾輩は——そう判断しなかった。
なぜか。
ライオスは脅しに来たのではなかった。
確信していながらも動かなかった。
「わからなくなった」と正直に言った。
「聞けばよかった」と言った。
「聞きたい」と言った。
それは——敵の振る舞いではなかった。
吾輩にはうまく言えない。しかし何かが違った。
今まで吾輩が見てきた人間——恐怖で従う者、利益で動く者、建前だけで話す者——とライオスは違った。
アイリスも違った。
国王ジュリアン・ヴァロアも違った。カタリナも。
吾輩の周りに、そういう人間が集まっていた。
シフォンのせいかもしれない。
シフォンがそういう人間を引き寄せるのか、それとも吾輩の見方が変わったのか。
どちらかは、わからなかった。
ただ——今夜、ライオスに問われた問いが、吾輩の中に残っていた。
今のお前は、また世界を征服するつもりがあるか。
わからない、と答えた。
それは正直な答えだった。五ヶ月前なら「ある」と即答していた。しかし今夜は——出なかった。
なぜ出なかったのか。
ウェスパル村があるから、と吾輩は思った。
アイリスとルカがいるから。シフォンがいるから。
しかしそれは「征服しない理由」にはならないはずだ。征服してしまえば、その全てを手中に収められる。昔の吾輩ならそう考えた。
なぜ今は、そう思わないのか。
吾輩はその問いを、夜明けまで持ち続けた。
答えは出なかった。
しかし問い続けること自体が——吾輩が変わった証なのかもしれない、とぼんやりと思った。
やがて夜明けが近づいた。
シフォンが目を覚ました。きょとんとした顔で、伸びをした。
「ミャア」
アイリスが「んー」と起き上がった。
「シフォン、おはよ」
「ミャア」
「朝ごはん?」
「ミャア」
いつも通りの朝だった。
吾輩も引きずられながら、台所に向かった。
今夜の出来事は——しばらくこの胸の中だけにしまっておくことにした。
影に胸はないが、概念として。
シフォンが干し魚の匂いを嗅いで、催促のように「ミャア」と鳴いた。
吾輩は影から腕を出して、魔力で魚を温めた。バターも少し加えた。
シフォンが食べ始めた。
王都の朝が来た。




