第29話:宮廷陰謀②
翌朝、夜明け前に吾輩は動き始めた。
アイリスとシフォンはまだ眠っていた。
吾輩は影から腕を伸ばし、台所の棚にある干し魚の袋の口を、ほんのわずかだけ開けた。強い匂いが漂い始めた。
五分後、シフォンの耳がぴくりと動いた。
十分後、シフォンが目を開けた。
鼻をひくひくとさせて、台所の方向を向いた。
そしてのそのそと起き上がり、扉に向かって歩き始めた。
「ミャア」
アイリスが「……んー」と寝返りを打った。
「ミャア」
アイリスが半目で起き上がった。
「朝ごはん? まだ早いけど」
「ミャア」
「わかった、わかった」とアイリスが立ち上がった。
計画の第一段階は成功した。
廊下に出ると、城内はまだ静かだった。夜明けの光が窓から差し込み始めたばかりで、使用人たちが動き始める前の時間だ。
シフォンは廊下を歩き始めた。台所から遠ざかっているが、本人は気にしていないようだった。匂いに引き寄せられて起きたくせに、今は別のことに興味が移っている。朝の廊下の空気が新鮮だったのかもしれない。
吾輩は周囲の気配を探りながら、ドルフの執務室の方向を意識していた。
執務室は北翼の中ほどにある。薬湯が用意される侍医の室は東翼だ。シフォンが今歩いているのは中央棟の廊下で、北翼へ向かえばドルフの執務室に近づく。
しかしシフォンを誘導する手段が、吾輩にはない。
匂いは一時的に使えるが、廊下の端々に干し魚の匂いをばらまくわけにもいかない。
吾輩は別の方法を考えた。
ドルフの執務室の扉の下から、毒の匂いがわずかに漏れ出しているはずだ。植物由来の強烈な成分は、シフォンの鼻なら廊下越しでも感知できるかもしれない。
問題は、シフォンをその廊下へ連れていくことだ。
シフォンは今、自分の足で気ままに歩いている。
吾輩は一計を案じた。
影から、ほんのわずかな魔力を放出した。魔王の気配——本当にごく薄い、しかし吾輩固有の気配だ。それを北翼の方向へ、細い糸のように流した。
これは賭けだった。シフォンがその気配を感じ取り、北翼へ向かうかどうか——わからない。
しかしシフォンは、過去に何度か、吾輩の気配に反応したことがあった。影の上に座る時、吾輩の意思を送った時、微妙に振り向くことがあった。
シフォンの耳が、北翼の方向へ向いた。
そして歩き始めた。北翼へ。
北翼の廊下に入ると、空気が変わった。
吾輩は感じた。毒の気配が、かすかに漂っている。ドルフの執務室の扉の隙間から漏れているのだ。
シフォンが立ち止まった。
鼻を上げた。何かを感じている。
執務室の扉に向かってゆっくりと近づいた。
その時、廊下の向こうから人が来た。
ドルフだった。
早朝の執務室へ向かっているのだろう。書類を抱えていた。そして——もう一つ。腰の内側に、あの小さな瓶が隠されているのが、吾輩には気配でわかった。
今日は薬湯ではなく、別の方法を試みるつもりだ。
ドルフがシフォンを見た。
シフォンがドルフを見た。
執務室の扉の前で、二者が向き合った。
ドルフの顔が、一瞬だけ硬くなった。
昨日の薬湯事件の後、この聖獣には気をつけなければならないと思っていたはずだ。しかしまさか早朝に自分の執務室の前で鉢合わせるとは思っていなかっただろう。
「おはようございます、シフォン様」とドルフが穏やかな声で言った。
シフォンはドルフを見ていた。それから執務室の扉を見た。
「こんなところで何をしておられますか。お部屋はこちらではございませんよ」
シフォンが執務室の扉に近づいた。
扉の隙間に鼻を近づけた。
ドルフの顔が、また硬くなった。
「シフォン様、こちらは——」
シフォンが扉を前足でぱしりと叩いた。
ドルフが手を伸ばしてシフォンを制止しようとした——その瞬間。
吾輩の中で、何かが動いた。
ドルフがシフォンに触れようとした。その手が——シフォンに向かった。
吾輩はその手が許せなかった。
感情が魔力に干渉した。
先ほど絞り込んでいた気配の糸が、ぶつりと切れた。
吾輩の魔力が——暴走した。
ドオン、という鈍い音がした。
衝撃波が廊下を走り、ドルフが壁に押しつけられた。壁の石が少し欠けた。
ドルフが持っていた書類が舞い散った。
そして——腰の内側に隠していた瓶が、衝撃で飛んだ。
瓶は廊下の石床に落ちて、割れた。
中身が広がった。
吾輩は状況を把握した。
暴走だ。意図していなかった。しかし結果として——ドルフが壁に押しつけられ、毒の瓶が床に割れた。
ドルフが壁から離れ、床の上の割れた瓶を見た。液体が広がっている。顔が青ざめた。
アイリスが駆けてきた。
「シフォン! 何があったの!?」
シフォンは廊下の真ん中で座っていた。きょとんとした顔で、散らばった書類を見ていた。
「ドルフ様、大丈夫ですか?」とアイリスが言った。
「……ええ」とドルフが絞り出すように言った。
床の液体から目を離せずにいた。
騒ぎに気づいた使用人たちが集まってきた。
廊下に散らばった書類、欠けた壁、広がった液体。そしてシフォンと、壁に押しつけられたドルフ。
「何かが爆発したような音がしましたが」と使用人の一人が言った。
「聖獣様のお力が」と別の使用人が言った。
ドルフが、ゆっくりと立ち上がった。床の液体を見た。もう一度、シフォンを見た。
シフォンは使用人の一人に「ミャア」と鳴きかけていた。朝ごはんを要求しているらしかった。
ドルフの顔に、様々な感情が走った。動揺、恐怖、そして——何かを悟ったような色。
その時、廊下の向こうからベルタン侯爵が現れた。
王派の中心人物だ。早朝から国王に会いに来ていたのだろう。騒ぎを聞いて来たらしかった。
ベルタン侯爵が廊下を見渡した。書類、欠けた壁、床の液体。
「これは?」
「聖獣様が通られて、何か衝撃があったようで」と使用人が答えた。
ベルタン侯爵が床の液体に近づいた。しゃがんで、匂いを嗅いだ。
表情が変わった。
「ドルフ殿」とベルタン侯爵が静かに言った。
「この瓶は、あなたのものですか」
ドルフが何か言おうとした。しかし言葉が出なかった。
「侍医に調べてもらいましょう」とベルタン侯爵が言った。
「この液体が何か、はっきりさせる必要がある」
ドルフが「これは——」と言った。
「偶然落ちたものでして——」
「偶然、腰の内側に薬の瓶を忍ばせていた、と?」とベルタン侯爵が静かに言った。
ドルフが口を閉じた。
ベルタン侯爵の目が、シフォンを見た。
シフォンはまだ使用人に「ミャア」と朝食を要求していた。
「聖獣様」とベルタン侯爵が静かに言った。
「ありがとうございます」
シフォンは振り向きもしなかった。使用人の袖を前足で引っ張っていた。
その後のことは早かった。
侍医が液体を調べた結果、植物由来の毒と判定された。微量では即死しないが、継続して摂取すれば体を蝕む種類のものだと。
ドルフは午前中のうちに連行された。国王の私室で、国王自身も事の経緯を聞いた。
吾輩はその一連の動きを、シフォンに引きずられながら遠くから見ていた。
シフォンは朝食を食べ終わって、中庭で日向ぼっこをしていた。宮廷の陰謀などまったく関知していない顔で、のんびりと毛繕いをしていた。
吾輩は、今日起きたことを整理した。
計画の一部は成功した。シフォンをドルフの執務室前に誘導した。ドルフと鉢合わせした。毒の瓶が露わになった。ベルタン侯爵が証人になった。
しかし途中で——吾輩の感情が乱れた。
ドルフがシフォンに手を伸ばした瞬間に、吾輩の魔力が暴走した。
なぜ乱れたのか、吾輩は考えた。
ドルフの手がシフォンに向かった。それが、許せなかった。
計画上は、感情を制御するべき場面だった。しかし制御できなかった。あの手がシフォンに触れようとした瞬間、吾輩の中で何かが弾けた。怒り、というより——拒絶だ。シフォンへの危害を、体が、いや影が、受け付けなかった。
吾輩は、その事実を静かに確認した。
シフォンへの危害を許せない。それは感情だ。
魔王が、猫への感情で魔力を暴走させた。
しかし——その暴走が、今日の事件を解決した。制御された魔力では、ドルフの腰の瓶は飛ばなかっただろう。偶然の暴走が、ちょうど良い衝撃を生んだ。
シフォンの気まぐれと、吾輩の暴走と。
この組み合わせは、最初からずっとそうだった。
それで——良かったのかもしれない。
この話は、誰にも言えない。言わなくていい。
昼過ぎ、国王がアイリスを呼んだ。
謁見室ではなく、国王の私室だった。
臣下もいない、静かな部屋だ。
国王が椅子に座って、アイリスとシフォンを迎えた。
顔色は普段と変わらなかった。しかしその目の奥に、何か深いものがあった。今日、自分の命が危うかったことを、改めて実感しているのかもしれない。
「今日のことを聞いた」と国王が言った。
「シフォン様が、また奇跡を起こされた」
「えっと……私には何があったか、よくわからなくて」とアイリスが正直に答えた。
「ドルフという男が、わたしを毒殺しようとしていた。それをシフォン様が止めてくれた」
アイリスの顔が青くなった。
「毒殺……?」
「詳しいことはいい。ただ——シフォン様のおかげで、わたしは今日も生きている」
国王が少し間を置いた。
「実を言うとな」と国王が静かに言った。
「ドルフが怪しいとは、薄々感じていた。しかし証拠がなかった。宮廷の権力争いは証拠なしには動けない。疑いだけでは人を裁けぬ」
「それで……」
「シフォン様が動いてくれた。偶然かどうかはわからぬ。しかし証拠が出た。それだけで十分だ」
国王がシフォンを見た。シフォンはアイリスの腕の中でぐるぐると喉を鳴らしていた。
「シフォン様」と国王が言った。
「ありがとう。おかげで今夜も、カタリナに会える」
シフォンが「ミャア」と言った。
「君は——不思議な存在だ。意図していないように見えて、必要なことをする。そして何も求めない」
国王が少し笑った。目が潤んでいるように見えた。
「私も見習わなければいけないな。深く考えすぎず、ただ目の前のことに誠実に向き合う。それが一番難しいのに、それが一番大切なのだから」
アイリスが「陛下……」と言いながら、シフォンを見た。
シフォンは欠伸をした。大きな欠伸だった。
国王が笑った。今度は声に出して。
「そうだな。あまり難しく考えることはない、か」
吾輩は——その国王の言葉を、静かに聞いていた。
意図していないように見えて、必要なことをする。何も求めない。
それはシフォンのことだ。しかし同時に——吾輩のことでもあるかもしれない、と今日初めて思った。
意図せずして、吾輩も動いてきた。全部、計画ではなかった。しかしその結果として——人が助かった。
吾輩は、その事実を、今日も受け止めた。
夜、部屋でアイリスがシフォンに言った。
「今日、すごいことが起きたね。国王陛下を助けたんだって」
「ミャア」とシフォンが言った。
「わかってないでしょ、絶対」とアイリスが笑った。
「でもすごいよ。シフォンはいつも、気がついたら大事なことしてるんだよね」
シフォンがアイリスの膝に乗った。
「ありがとうね」とアイリスが言った。
シフォンの頭を撫でながら。
誰に向けた言葉かは、わからなかった。
吾輩は、その「ありがとう」を——受け取っておくことにした。
今夜くらいは。




