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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第28話:宮廷陰謀①

 王都滞在も、八日目を迎えた。


 当初の予定では「謁見を済ませて三日ほどで帰る」はずだったのが、国王の強い希望で滞在が延びていた。


「聖獣様にはもう少しここにいていただきたい」という話で、アイリスも断りにくかったのだろう。


 シフォンは相変わらず気の向くままに城内を歩き回り、カリナの部屋に入り込み、食堂でおこぼれを狙い、中庭で噴水を叩いていた。


 吾輩はその間、地脈からの魔力吸収を続けていた。

 討伐前の四割強まで回復した。

 王城の地脈は豊かで、一日に吸収できる量がウェスパル村の何倍もある。もう少し滞在が延びれば、五割に達するかもしれない。


 そういう意味では、滞在の延長は吾輩にとって好都合だった。


 しかし——八日目の夜から、城内の空気が変わった。


 


 吾輩が最初に気づいたのは、ある廷臣の動きだった。


 名前はドルフ。五十代の、がっしりとした体格の男で、王城の財務を取り仕切る高官だ。顔は温和に見えるが、目が笑っていない。吾輩は人を見る目だけは長年磨いてきた。あの目は、常に損得を計算している者の目だ。


 ドルフが夜中に城内を歩いていた。


 シフォンが夜中にふらりと起き出して廊下を歩くことがある。その時、吾輩はドルフとすれ違った。ドルフは深夜に、人気のない廊下を早足で歩いていた。手に何かを持っていた。小さな瓶のようなものだ。


 翌日も、ドルフは似たような時間に似たような場所を通った。


 吾輩は不審に思い、魔力の探知を薄く広げた。


 瓶の中身は——液体だ。魔力的な反応がある。植物由来の何かで、強く凝縮されている。


 毒だ。


 吾輩は、かつて魔王として各地を支配していた頃、こういうものを何度も見たことがあった。政治の世界では毒殺が珍しくない。ドルフが持ち歩くものが毒であれば——計画が動いているということだ。


 吾輩は慎重に情報を収集し始めた。




 三日かけてわかったことがある。


 王城の高官の中に、二つの派閥があった。


 一つは現国王を支持する勢力で、ベルタン侯爵を中心としている。彼らは現在の穏やかな統治を維持することを望んでいる。


 もう一つが、ドルフを含む反王派だ。彼らは隣国との秘密の条約を結ぼうとしており、現国王はその条約に難色を示していた。


 条約が結ばれれば自分たちに利益が入り、結ばれなければ現状維持——彼らにとって、国王は障害だった。


 毒殺計画は、ここ数ヶ月で具体化していたらしい。


 手口はこうだ。国王が毎朝飲む薬湯がある。長年の持病のための薬で、侍医が調合している。この薬湯に、ごく微量の毒を少しずつ混ぜる。一度に致死量ではなく、何週間もかけてじわじわと蓄積させる。自然死に見える形で、しかし確実に国王を弱らせる。


 典型的な宮廷の毒殺だ。吾輩も知っている手法だ。

 かつて吾輩の支配下にあった国でも、同じような謀略が繰り広げられていた。魔族を介さずとも、人間同士でこういうことをやる。


 投毒の実行犯は、侍女の一人だ。ドルフに弱みを握られているのか、あるいは金で動かされているのか、それは吾輩には確認できていない。


 ただ、毎日の薬湯の調合に、あの植物由来の毒が微量だけ加えられている形跡があった。


 問題は——吾輩がこれをどうするか、だった。




 正直に言えば、吾輩には「関係ない話だ」と思う部分もあった。


 人間同士の権力争いに、吾輩が介入する理由はない。ドルフの派閥が国王を殺し、新しい秩序を作ろうとするなら、それは人間の世界の話だ。吾輩は魔王だ。

 人間の政治に首を突っ込む立場ではない。


 むしろ——王が変われば、聖獣への対応も変わるかもしれない。


 新しい権力者が「聖獣など関係ない」と言えば、吾輩たちは王都から追い出され、ウェスパル村に帰ることになる。それはそれで、都合が悪くない。魔力は十分に蓄えられつつある。


 しかし。


 吾輩がこの三日で観察した国王は——シフォンに向かって笑った男、「玉座は重い」と言った男、カリナを慈しんでいる父親の顔——は、吾輩が知っている王の中で、最も「ただの人間らしい」王だった。


 吾輩はかつて多くの王と対峙してきた。権力に溺れた王、恐怖で支配する王、民を駒として扱う王。それが吾輩の知る王というものだった。そして吾輩自身も、そういった者の一人だった。


 しかしあの国王は違った。シフォンが玉座に乗っても怒らず笑った。臣下の前でカタリナのアレルギーを心配した。


「聖獣様の力は通常の魔術理論では説明がつかない」というオルドの報告を聞いた時も、追及せずに「ならばそういうものだ」と受け入れた。


 殺すには、惜しい人間だ——と吾輩は思った。


 その感想が生まれた瞬間、吾輩は少し驚いた。


 吾輩は、人間を「惜しい」と思うようになっていた。


 ウェスパル村に来る前の吾輩には、そういう感情はなかった。人間は支配する対象か、あるいは邪魔な障害だ。それだけだった。


 五ヶ月で——変わったのかもしれない。


 関係ない、と言い切れなかった。

 それが、吾輩には少し腹立たしかった。




 九日目の朝、シフォンが目を覚ました。


 いつもならまず食事を要求するが、この朝は違った。シフォンが扉に向かって歩き始めた。


「まだ朝ごはんだよ」とアイリスが言ったが、シフォンは扉を前足でつついた。


「お外行くの? 一人で?」


 シフォンが「ミャア」と言った。


「……待って、一緒に行く」


 アイリスがシフォンを抱えて廊下に出た。

 シフォンが廊下に降りて歩き始めた。


 吾輩は、シフォンがどこへ向かうか、感じていた。


 国王の私室の方向だ。


 なぜそちらへ向かうのか——シフォンに理由はないだろう。しかし吾輩は、シフォンの鼻が何かを察知している可能性を考えた。


 毒の匂いを、嗅ぎつけているのかもしれない。




 廊下の突き当たりを曲がった時、前方に人影があった。


 侍女だ。国王の薬湯を運んでいる。

 盆の上に白い陶器の湯呑みが乗っている。

 湯気が立っていた。


 シフォンがその侍女を見た。


 鼻をひくひくとさせた。


 薬湯の匂いをシフォンが感じているのか、それとも侍女の服の匂いか、あるいは別の何かか——吾輩には判断できなかった。ただ、シフォンの耳がぴんと立ち、目が真剣になった。


 歩き始めた。侍女の方へ。


「シフォン?」とアイリスが不思議そうにした。


 侍女がシフォンに気づいて、足を止めた。


 「あ、聖獣様……」


 緊張したのだろう。盆を持つ手が少し硬くなった。


 シフォンが侍女の足元まで来た。それから——盆の方を見た。


 湯呑みの方を見た。


 ゆっくりと近づいて、鼻を湯呑みの方へ向けた。


 吾輩も感知した。


 湯呑みの中の薬湯に、異質な気配がある。植物由来の毒——あの瓶の中身と同じ成分だ。ごく微量だが、確かにある。今日が投毒の日だ。


 シフォンが前足を伸ばして、盆の縁に触れた。


「あっ、シフォン、だめ——」とアイリスが言った。


 盆が傾いた。侍女が慌てて支えようとしたが、湯呑みが盆から滑り出た。


 石床に落ちた。砕けた。薬湯が広がった。


 侍女が「申し訳ありません!」と真っ青な顔をした。


「大丈夫ですか、怪我は?」とアイリスが侍女に声をかけた。


「は、はい。でも陛下のお薬が……」


「シフォンのせいですよね、本当にすみません」とアイリスが頭を下げた。


「新しく作ってもらえますか。私から陛下にもお詫びを——」


「いえ、聖獣様が触れられたのですから、それは……」


 侍女は聖獣のせいにすることに戸惑っているようだった。


 吾輩は、広がった薬湯を見ていた。毒が入っていた。しかし床に広がって、国王の口には入らなかった。


 シフォンは——やはり、意図していたのかどうか、わからない。


 ただ、盆の縁を前足で触っただけかもしれない。


 しかしその結果として、投毒が阻止された。


 これがシフォンというものだ。意図せずして、結果だけが起きる。




 廊下に人が集まってきた。


 騒ぎを聞いて、近くにいた廷臣や使用人が来た。


 そしてドルフが来た。


 吾輩はドルフを見た瞬間、内側で何かが締まるのを感じた。あの男が「たまたま近くにいた」はずがない。薬湯が運ばれる時間帯を知っていて、近くで待機していたのだ。計画通りに投毒が行われたかを確認するために。


 ドルフは廊下に広がった薬湯を見て、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——表情が変わった。焦りの色が走った。


 それをドルフはすぐに消した。長年宮廷で生き延びてきた男の、鍛えられた自制心だ。しかし吾輩は見ていた。


「何事ですか」とドルフが冷静な声で言った。


「聖獣様が盆に触れて、薬湯が」と侍女が答えた。


「ふむ」とドルフが言った。それだけだった。


 周囲の廷臣たちは「やれやれ」という顔をしていたが、誰も咎めなかった。聖獣の行為だから。


 ドルフが「新しい薬湯を用意しなさい」と侍女に言った。


「はい」と侍女が答えた。


「急いで。陛下のお体のために」


 その言葉は、表面上は当然の指示だ。しかし吾輩には聞こえた。ドルフが「新しい薬湯にもう一度投毒する機会を作ろうとしている」ように。


 吾輩はドルフを見ていた。


 ドルフも——シフォンを見た。


 そしてシフォンの影を見た。


 普通の人間なら、ここで視線を外す。しかしドルフは外さなかった。じっと影を見ていた。数秒間。


 ドルフは——何かを感じているのかもしれない。

 魔力的な感知能力があるわけではないだろう。しかしあれだけの謀略家であれば、「聖獣の影が不自然だ」という感覚くらいは持つかもしれない。


 吾輩は完全に遮断した。しかし同時に、ドルフへの警戒を最高レベルに引き上げた。


 この男は、吾輩の存在に気づきかけているかもしれない。そしてその事実を、計画の中に組み込もうとするかもしれない。


 宮廷の陰謀家というものは、使えるものは何でも使う。


 吾輩が魔王の影だと気づけば——それを「脅し」に使うかもしれない。「シフォンに宿っているものを暴露する」と言えば、吾輩を従わせることができると思うかもしれない。


 そうはさせない。


 しかしその「させない」ために、吾輩にできることは限られている。


 今夜、しっかりと考える必要があった。




 昼前、アイリスが部屋に戻ってからシフォンに言った。


「さっき、なんで薬湯に触ったの? 危ないじゃん」


 シフォンは「ミャア」と答えた。


「まあ、壊れたものは壊れたし、誰も怪我しなかったからいいけど」


 侍女は後で新しい薬湯を作り直し、国王に届けた。新しい薬湯には毒が入っていないはずだ。ドルフが今日のところは再び投毒するチャンスはないだろう。


 しかし計画そのものは止まっていない。


 ドルフはまだ諦めていない。吾輩にはそれがわかった。


 問題は——このことをどうするか、だった。


 吾輩が直接動くことはできない。

 影だから。誰かに伝える手段がない。


 アイリスに伝えることもできない。影だから、声が出ない。


 しかしシフォンは——今日、偶然にも動いた。次もそうなるとは限らない。


 吾輩は今夜、この問題について真剣に考えることにした。




 夜、アイリスが眠った後、吾輩は地脈を吸収しながら考えた。


 投毒計画を阻止するには、何が必要か。


 一つ、証拠を誰かに見せること。しかし影の吾輩には物を運ぶことができない。腕を出せば物を動かせるが、誰かが見ている場所でそれをすれば、吾輩の存在が露わになる。


 二つ、シフォンをまた同じ場所に連れて行くこと。しかし薬湯が運ばれる時間は毎朝同じとは限らない。ドルフは今日の失敗から手順を変えるかもしれない。薬湯だけでなく、他の食事や飲み物に毒を混ぜる可能性もある。


 三つ、国王に直接警告する。

 これも影の吾輩にはできない。声が出ない。


 四つ——ドルフを直接動けなくする。

 影から腕を出して、物理的に阻止する。しかしそれは「聖獣の影から腕が出た」という事実を作ることになり、吾輩の正体に迫る新たな謎になる。


 吾輩は行き詰まって、シフォンを見た。


 シフォンが今日、薬湯を落とした。それはシフォンの本能によるものだった可能性がある。毒の匂いを異質なものとして感じ、それに近づいた。そして盆を傾けた。


 ならば——もう一度、同じ状況を作ることができるかもしれない。


 方法は干し魚の匂いだ。


 シフォンは食べ物の匂いに敏感だ。朝、台所の干し魚の匂いをわずかに廊下に漏らせば、シフォンが朝食の前に廊下へ出ようとする。そこへ薬湯が運ばれてくれば——今日と同じことが起きるかもしれない。


 しかし問題がある。


 ドルフは今日の失敗を受けて、計画を変えるはずだ。薬湯への投毒だけでなく、別の方法を試みるかもしれない。あるいは時間帯を変えるかもしれない。吾輩の干し魚作戦が機能するかどうか、確信がなかった。


 吾輩には、もう一つの選択肢がある。


 国王の護衛に近い人物の耳に、「毒の瓶を見た」という情報をどうにかして入れることだ。


 シフォンを使って——ドルフが毒の瓶を隠している場所に近づかせる。そこで吾輩が影から腕を出して、瓶を廊下の中央に移動させる。誰かが見つける。


 問題は、シフォンを特定の場所に「誘導」しなければならないことだ。言葉は届かない。匂いで引き寄せるしかない。


 ドルフが毒を隠している場所は——吾輩の探知によれば、ドルフの執務室の書棚の裏だ。そこには、確かに例の植物由来の強い匂いがある。


 明日の朝、シフォンを執務室の近くに連れて行ければ——。


 吾輩は計画を整えた。


 三大陸を征服した魔王が、猫の本能と干し魚の匂いと毒の気配を組み合わせて、宮廷の陰謀を阻止しようとしている。


 この事実は、歴史書には残らないだろう。


 残らなくて構わない。


 吾輩はそう思いながら、明日への準備を始めた。


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