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吾輩は猫の影。ただし、元魔王である  作者: ゆもニャ


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第27話:王女とシフォン

 王都滞在六日目。

 ライオスが去り、王城は少し静かになった。


 静かになったが、問題がなくなったわけではない。

 王城には王家の人々が暮らしており、その中に吾輩が予期していなかった厄介な人物がいた。


 王女カタリナだ。


 国王の一人娘で、十六歳。母親譲りの赤みがかった金髪と、父親譲りの強い意志を持つ目をした少女だ。


 臣下たちからは「カタリナ様は気が強くて、どんな貴族の子息も手を焼く」と言われているらしかった。

 それだけなら吾輩には関係のない話だ。


 問題は——王女が重度の猫アレルギーを持っていることだった。


 シフォンが王城に来て以来、カタリナは「絶対にシフォンのいる場所には近づかない」と宣言していた。


 謁見の式典にも出なかった。食堂でシフォンがアイリスの膝にいる時は、別室で食事をとっていた。


 廊下でシフォンを見かけると即座に引き返した。


 徹底的な回避だった。


 それが、七日目の朝に崩れた。




 原因は、シフォンの気まぐれだった。


 朝食後、アイリスが「少し書き物をしてくるね」と言って部屋を離れた。


 シフォンは一人で部屋に残されることになった——正確には吾輩がいるが、シフォンには関係ない。


 シフォンは部屋の扉が完全に閉まっていないことに気づいた。


 前足でつついた。少し開いた。もう一度つついた。開いた。


 シフォンが廊下に出た。


 吾輩は引きずられながら、シフォンがどこへ行くつもりか探った。特に目的はないようだった。廊下の匂いを嗅ぎながら、のんびり歩いている。


 王城の廊下は長く、曲がりくねっている。東翼から北翼へ、北翼から中央棟へ。シフォンは気の向くまま歩いた。


 ある角を曲がった時、シフォンが足を止めた。


 前方に扉が開いている部屋があった。

 中から少し甘い香りがした。花の香りか、あるいは香水か。シフォンの鼻がそれを嗅ぎつけた。


 シフォンが扉の中に入った。


 部屋の中には、一人の少女がいた。


 赤みがかった金髪を一つに束ねて、窓際の椅子に座り、本を読んでいた。


 王女カタリナだった。




 カタリナが顔を上げた。


 白い猫が、扉から入ってきていた。


 カタリナが本を閉じた。


 シフォンがカタリナを見た。

 カタリナがシフォンを見た。


 一秒の沈黙。


「……なぜここに」とカタリナが言った。

 静かな、しかし棘のある声だった。


 シフォンは答えなかった。

 部屋の中をゆっくりと歩き始めた。

 カタリナの方へ。


「来ないでください」とカタリナが言った。


「私は猫が——」


 シフォンがカタリナの足元まで来た。


 カタリナが椅子を後ろに引いた。


「くっつかないで。本当に。頼みますから」


 シフォンがカタリナの足元に座った。


 そのまま見上げた。金色の目で。


 カタリナが深呼吸した。


「落ち着いて。大丈夫。まだ触れてないから。アレルギー反応は、毛が直接つかなければ——」


 シフォンが前足をカタリナの膝にかけた。


「あ」とカタリナが言った。


 それからシフォンがカタリナの膝の上に乗ろうとした。


「ちょっ——待って——!」




 廊下をアイリスが歩いていると、王女の部屋から声がした。


「くしゅん!」


 大きなくしゃみだった。


「くしゅん! くしゅん! くしゅん!」


 アイリスが部屋を覗いた。


 王女カタリナが椅子の上でくしゃみを連発しながら、膝の上にシフォンを乗せていた。


 シフォンはカタリナの膝の上でぐるぐると喉を鳴らし、完全に落ち着いていた。


「シ、シフォン!」とアイリスが飛び込んできた。


「ごめんなさい、カタリナ様! シフォンが勝手に——」


「くしゅん!」とカタリナがまたくしゃみをした。


「今すぐ連れ出します——」


「待って」とカタリナが言った。くしゃみをしながらも、シフォンを降ろそうとしていなかった。


「え?」


「ちょっと待って。あと少しだけ」


 カタリナがシフォンの頭を、おそるおそる触った。


「……ふわ」と小声で言った。


「くしゅん!」


「ふわふわ」とカタリナが言った。


「あの、カタリナ様……アレルギーが」


「わかってる。わかってるけど」


 カタリナがシフォンの頭を撫でた。シフォンが目を細めた。喉の音が少し大きくなった。


「くしゅん! くしゅん!」


 カタリナはくしゃみをしながら撫で続けた。




 吾輩はその光景を眺めていた。


 王女が、くしゃみを連発しながら猫を撫でている。目が赤くなり、鼻も赤くなり、それでも離さない。


 なんとも奇妙な光景だった。


 これは吾輩の意図したことではない。

 シフォンが気まぐれで入り込んだだけだ。

 しかしシフォンは、カタリナが「来ないで」と言っても、椅子を引いても、退こうとしなかった。


 なぜシフォンはカタリナに近づいたのか。


 匂いか。甘い香りに引き寄せられただけかもしれない。


 あるいは——シフォンには、何かを「感じる」能力があるのかもしれない。ルカが来た時もそうだった。最初は拒んで、最後は籠の隣で眠った。怖がっている小さなものへの、本能的な何かがあるのかもしれない。


 カタリナは猫アレルギーで猫を避けてきた。しかしその顔は——くしゃみをしながらも、どこか幸せそうだった。


 シフォンが誰かの「避けてきたもの」に踏み込んでいく。


 それは——吾輩が意図して起こせることではない。シフォンだから起きることだ。




 アイリスがカタリナに言った。


「シフォン、どこか別の部屋に連れて行きますね。本当にすみませんでした」


「少しだけ」とカタリナがまた言った。


「もう少しだけいさせて」


 くしゅん、と小さなくしゃみ。


「カタリナ様、でも体に——」


「大丈夫」とカタリナが言った。強い声で。


「これくらいは平気。薬も持ってるし」


 アイリスが「は、はあ」と答えた。


「あなたがアイリス?」とカタリナが聞いた。


「はい、そうです」


「シフォン様と一緒にウェスパル村から来たという」


「はい」


「どんな村なの」とカタリナが聞いた。

 シフォンを撫でながら。


「小さい村です。山に近くて、農家が多くて。でもいい村で」


「シフォン様はどんな暮らしをしてるの」


「普通の猫の暮らしです」とアイリスが正直に言った。


「朝ごはん食べて、日向ぼっこして、散歩して、お昼寝して。たまに外に遠出して、魔物を……」


「退治する?」とカタリナが少し目を丸くした。


「退治というか、なんか気がついたら魔物がいなくなってることが多くて」


「それが奇跡として広まったのね」とカタリナが言った。


「吟遊詩人の歌は聞いたわ。大げさすぎると思ったけど」


「大げさだと思います、私も」とアイリスが率直に言った。


 カタリナが少し笑った。くしゅんとくしゃみをしながら。


「正直な子ね。廷臣たちは皆、同調してばかりで」


「カタリナ様はそういうの苦手ですか」


「嫌い」とカタリナがはっきり言った。


「お世辞で埋め尽くされた言葉は、何も言っていないのと同じだもの」


 アイリスが「そうですね」と頷いた。


 しばらく二人は静かだった。

 シフォンが喉を鳴らす音だけが部屋に響いていた。


「ねえ」とカタリナが言った。


「シフォン様って、何考えてるのかな」


「わかりません」とアイリスが答えた。


「でもなんか……ちゃんと見てる感じはします。人のことを」


「ちゃんと見てる」とカタリナが繰り返した。その言葉を、口の中で転がすように。


「私の膝に乗ってきたのも、なんか理由があるのかもって」


「そんなわけないわ。猫でしょう」とカタリナが言ったが、その声は少し柔らかかった。


「猫に人を見る目なんてないわ。ただ暖かくて柔らかいものが好きなだけ」


「そうかもしれないですけど」とアイリスが言った。


「でも私、シフォンを拾った時から思ってたんです。なんか普通の猫と違うなって。逃げなかったんですよ、初めて会った時。普通、知らない人間には警戒するはずなのに」


「それがシフォン様の不思議さ、ということ?」


「そうかもしれないし、ただ図太いだけかもしれないし」とアイリスが笑った。


「よくわからないんです、私も」


 カタリナが少し考えてから言った。


「あなた、シフォン様に遠慮がないのね」


「え?」


「聖獣様に向かって、図太いとか、よくわからないとか、普通言わないわ。廷臣は誰もそんなこと言えない」


「あ……すみません、失礼でしたか」


「そうじゃなくて」とカタリナが言った。


「好き。そういう話し方が」


 アイリスが少し驚いた。

 カタリナが「くしゅん」とくしゃみをした。


「カタリナ様って、お友達とかいないんですか」とアイリスが聞いた。


 少し失礼かと思いながら。


「王女に友達を作るのは難しい」とカタリナが言った。


「会う人間は全員、何かを求めてる。好意か、縁か、権力か。純粋に話しかけてくる人間がいない」


「それは……寂しいですね」


「慣れてる」とカタリナが言った。

 しかし少しだけ間があった。


 シフォンがカタリナの手に頬を押しつけた。


 カタリナが「くしゅん」とくしゃみをした。

  それから「……ありがとう」と小声で言った。


 誰に向けた言葉か、アイリスにもわからなかった。


 吾輩にも、わからなかった。しかし——その一言に、何かが込められているとは感じた。




 その夜、アイリスが部屋でシフォンに言った。


「シフォン、今日カタリナ様のとこに勝手に入ってったじゃん。なんで?」


 シフォンは「ミャア」と言った。


「カタリナ様、くしゃみしてたけど、なんか嬉しそうだったよ。なんか……一人だったのかな、ずっと」


 吾輩はその言葉を聞いた。


 一人。


 カタリナは王女だ。廷臣も使用人も、常に周りにいる。一人ではない。しかし——アイリスが言う「一人」は、そういう意味ではないだろう。


 お世辞が嫌い。同調が嫌い。

 本音で話せる相手がいない。


 それは——吾輩がかつて知っていた孤独に、少し似ていた。


 玉座の上の孤独とは違う。

 しかし、人に囲まれながら孤独である、というのは——吾輩も、かつてそうだった。


「シフォンってさ」とアイリスが続けた。


「なんか、孤独な人のとこに行く気がするんだよね。私もそうだったし、カタリナ様もそうだった気がして」


 シフォンが「ミャア」と答えた。


「わかって行ってるの?」


「ミャア」


「そっか」とアイリスが笑った。


「まあ、聖獣様だからね」


 吾輩は、シフォンを見た。


 この猫は——本当に「わかって」いるのか、それとも本能で動いているだけなのか、吾輩にも判断がつかなかった。


 しかし結果として——カタリナのそばに行った。カタリナはくしゃみをしながら、それでも離さなかった。


 その事実があるだけで、十分かもしれない。




 翌朝、廊下でカタリナとアイリスが鉢合わせた。


 カタリナが少し足を止めた。


「昨日はごめんなさい」とアイリスが先に言った。


「シフォンが勝手に——」


「謝らなくていい」とカタリナが言った。


「こちらこそ、追い出せばよかったのに追い出せなくて」


「カタリナ様が追い出さなかったのは——」


「猫アレルギーでも、ふわふわしたものは好きなの」とカタリナがあっさりと言った。


「相反する二つのことが、同時に本当ってことはあるでしょう」


 アイリスが「……そうですね」と頷いた。


「シフォン様は」とカタリナが少し声を落とした。


「今日も廊下を歩き回るの?」


「多分、気が向いたら」


「もし……廊下で会ったとしたら」とカタリナがやや不自然な間を置いて言った。


「私は、逃げないかもしれない。そのことだけ、言っておこうと思って」


 アイリスが少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと笑った。


「伝えます」


「どうせ伝えなくても来るんでしょうけど」とカタリナが言って、廊下の先へ歩いていった。


 アイリスがシフォンを見た。


「聞いてた?」


「ミャア」とシフォンが言った。


 聞いていたかどうかは吾輩にも不明だったが、その日の午後、シフォンはまた王女の部屋の前をのんびりと通り過ぎ、扉の隙間から中を覗いた。


 カタリナが気づいた。


 くしゃみが来るとわかっていながら、カタリナは本を傍らに置いて、シフォンのために扉を大きく開けた。


「……入っていいわよ」と言った。半分諦めたような声で。


 シフォンが入った。


 カタリナの膝の上に乗った。


「くしゅん」とカタリナがくしゃみをした。


 シフォンが喉を鳴らした。


 それだけだった。


 それだけだったが——吾輩には、それで十分だと思えた。




 その夜、吾輩は地脈から魔力を吸収しながら、王都での日々を振り返った。


 謁見室で玉座に登ったシフォン。

 宮廷魔術師の測定を退けたシフォン。

 ライオスに観察されながら噴水を叩いていたシフォン。そして今日は、猫アレルギーの王女の膝に乗ったシフォン。


 この猫の行動に、計画も意図もない。ただ今この瞬間に動きたい方向へ動く。それだけだ。


 しかしその動きが——廃井戸を直し、麦を芽吹かせ、山賊を吹き飛ばし、魔物を退け、王女の部屋に踏み込んだ。


 意図せずして、何かを変えていく。


 吾輩は、この五ヶ月間でそれを何度も見てきた。最初は計画の邪魔として見ていた。次第に、不思議なものとして見るようになった。今は——羨ましいとさえ思っていた。


 吾輩はずっと「意図」してきた。計算して、計画して、全部の行動に目的を持たせてきた。それが魔王というものだと思っていた。


 しかしシフォンは——意図なく、目的なく、それでも何かを変えていく。


 カタリナはお世辞が嫌いだと言った。人に囲まれながら孤独だと言った。それは——吾輩がかつて知っていた感覚に、少し似ていた。玉座の上の孤独とは形が違う。しかし、誰も本音で話しかけない、誰も本当の意味では見てくれない——そういう孤独は、吾輩も知っている。


 シフォンは、そのカタリナのところへ行った。


 猫アレルギーがあると知らなかったから行ったのかもしれない。甘い香りに引き寄せられただけかもしれない。しかしカタリナの膝の上で喉を鳴らし、「ありがとう」と言わせた。


 どちらが世界に残るものを作るのか——吾輩には、もうわからなかった。


 ただ、シフォンのそばにいると、何かが起きる。それだけは確かだった。


 シフォンが吾輩の影の上で、深く眠っていた。


 王都の地脈が流れていた。魔力が満ちていった。討伐前の四割に届こうとしていた。着実に、確実に。


 復活の計画は進んでいる。


 それを確認しながら、吾輩は今夜も、シフォンのそばにいた。


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