第26話:勇者の疑惑
ライオスがシフォンをつけ回し始めたのは、王都滞在五日目からだった。
つけ回す、というと聞こえが悪いが、正確には「偶然を装って近くにいる」という形だった。
廊下でシフォンと鉢合わせれば少しの間立ち止まり、食堂でシフォンがアイリスの膝の上にいれば、少し離れた席に座ってそちらをちらちら見ている。
庭に出れば、柱の陰から観察している。
ライオスは観察が上手かった。
一般的な人間なら気づかないだろう。しかし吾輩は影として常にシフォンのそばにいるから、気配の変化に敏感だ。ライオスが「そこにいる」ことが、はっきりとわかった。
シフォンは、完全に無視していた。
ライオスが何をしていようと、シフォンは自分のペースで動いていた。廊下を歩き、食べ物を探し、日当たりを探して昼寝をする。世界最強の勇者に観察されていようと、シフォンにとっては関係のない話だった。
吾輩は、その無視っぷりに、少し救われていた。
気にしていない、ということが、一番自然に見える。もし吾輩が体を持ち、ライオスに観察されていれば、無意識に緊張して動きが変わったかもしれない。しかしシフォンは何も変わらない。ただ今日やりたいことをやるだけだ。
それが——吾輩の最大の護りになっていた。
五日目の夕、食堂での出来事をひとつ記録しておこう。
王城の食堂は広く、長いテーブルが並んでいた。貴族や廷臣が食事をとる場所だが、アイリスも招待客として使わせてもらっていた。シフォンはいつも通りアイリスの膝の上に収まり、食べ物のおこぼれを待つポジションをとっていた。
食堂の向こう側に、ライオスが座った。
吾輩はすぐに気づいた。
ライオスは普段、王城内の別の場所で食事をとっているはずだ。今日初めて、この食堂に来ていた。
偶然とは思えなかった。
ライオスが食事をしながら、時々シフォンの方を見た。視線と視線の間に、長い間隔がある。自然に見せようとしているが、吾輩にはわかった。
シフォンは気にしていなかった。
アイリスが食べていた鶏肉の端を、シフォンの前に差し出した。シフォンが食べた。また差し出した。また食べた。シフォンが「ミャア」と催促した。
アイリスが「もうないよ」と言った。
ライオスがその様子を見て、そっと視線を落とした。
何かを考えているように見えた。
食事が終わり、ライオスが立ち上がって出ていく時、食堂の入り口でシフォンの方を一度振り返った。
それだけだった。
しかしその目が——影を見ていた。
吾輩はライオスの目と、一瞬だけ、向き合った気がした。
互いに何も言わず。互いに何もせず。
ただ、そこにいた。
五日目の朝、庭で起きた出来事から話を始めよう。
王城の中庭は、石畳と手入れされた植え込みで構成された、静かな空間だった。噴水があり、ベンチが置かれ、秋の終わりの乾いた風が吹いていた。
アイリスがシフォンを連れて庭に出た。
城の室内に閉じこもっているのが気詰まりで、外の空気を吸いたかったらしい。
シフォンは庭に出た途端、植え込みの下に潜り込んだ。
「シフォン、何してるの」とアイリスが苦笑いしながら言った。
植え込みの影で、シフォンが何かの匂いを嗅いでいた。冬を前に植え込みに潜り込んだ虫か、あるいは野鳥の気配か。しばらくして植え込みから出てきたシフォンは、前足に泥がついていた。
「汚れた」とアイリスが嘆いた。
シフォンは泥など気にせず、噴水の縁まで歩いていった。水に顔を近づけて、匂いを嗅いだ。
「飲まないでよ、噴水の水は綺麗じゃないかもしれないから」
シフォンが水面をちょんと前足で叩いた。波紋が広がった。もう一度叩いた。波紋が広がった。それが面白いようで、しばらく繰り返した。
吾輩は——その様子を眺めながら、庭の周囲を意識していた。
ライオスの気配がある。
庭に面した回廊の柱の陰に、人が立っている。
距離は三十歩ほど。こちらを見ている。
シフォンは気にしていない。水面を叩き続けている。
吾輩は動かなかった。魔力の遮断を維持して、ただの猫の影として、シフォンの動きに従っていた。
ライオスが柱の陰から出てきた。
正面から歩いてきた。隠れているつもりが、あるいは隠れることを諦めたのか——いずれにせよ、堂々と近づいてきた。
「アイリス嬢、おはようございます」
「あ、ライオス様」とアイリスが少し驚いた顔をした。
「おはようございます」
「庭に出ていたのか」
「はい。シフォンが外に行きたそうだったので」
ライオスがシフォンを見た。シフォンは噴水の縁で水面を叩き続けていた。
「楽しそうですね」
「そうなんです、噴水が気に入ったみたいで」
「少し、ご一緒してもよいですか」
「えっ」とアイリスが少し驚いた。
「はい、もちろんです」
ライオスが噴水のそばのベンチに腰を下ろした。シフォンまで三歩ほどの距離だ。
シフォンはライオスを一瞬見て、また水面を叩いた。
吾輩は遮断を完璧に維持した。ここで気を緩めれば、すぐに察知される。
しばらく沈黙が続いた。
ライオスがシフォンを見ていた。シフォンが水面を叩いていた。
「シフォン様は」とライオスが静かに言った。
「ウェスパル村で、どんなことをしてきたんですか。聖獣として、色々なことがあったと聞いていますが」
アイリスが「そうですね」と言いながら、少し考えた。
「最初は、廃井戸が直ったんです。シフォンが来た次の日に突然。それから畑に麦の芽が出て、山賊が退散して、魔物が来て……全部シフォンがいる時に起きて、村の人が聖獣様って呼ぶようになって」
「全部、偶然ですか?」とライオスが聞いた。
「……どうなんですかね」とアイリスが正直に答えた。
「私にはわからないんですけど、偶然にしては続きすぎてて。でもシフォン本人は、何もしてない感じで」
「何もしていない感じで、結果として善いことが起きる」とライオスが繰り返した。
「はい」
「それは——」ライオスが少し間を置いた。
「力を持つ者の、最も難しい形だと思います」
アイリスが「え?」と聞き返した。
「意図せずして善いことをする。これは、意図してやるより難しい。意図すると、必ず何かが混じってしまうから。欲望が混じる。計算が混じる。恐怖が混じる。——純粋に、ただそこにいるだけで、周囲が良い方向に動く。それができる存在は、真に稀です」
アイリスが「……」と考え込んだ。
「シフォンがそういう存在だってことですか」
「かもしれません」とライオスが言った。
「あるいは——シフォン様のそばにいる何かが、そういう存在かもしれない」
吾輩は完全に静止した。
シフォンのそばにいる何か。
「シフォンのそばにいる何か、って」とアイリスが聞いた。
「言い過ぎました」とライオスが少し笑った。
「あなたがいるから、という意味かもしれないし——まあ、考えすぎかもしれません」
ライオスが視線を落として、シフォンの影を見た。
吾輩はライオスの視線を正面から受けながら、一ミリも揺れなかった。
ライオスが視線を上げた。
「シフォン様」と直接シフォンに向かって言った。
「あなたを調べようとは思っていない。ただ——知りたいとは思っています。あなたが何者で、どこから来て、何を守ろうとしているのかを」
シフォンが水面を叩く手を止めた。
ライオスを振り返った。
金色の目で、じっと見た。
ライオスが、その目を、静かに見返した。
五秒。十秒。
「ミャア」とシフォンが言った。
ライオスが頷いた。
「わかりました」
何がわかったのかは、誰にも説明できなかった。
その日の午後、アイリスが部屋でシフォンの毛をブラシでとかしながら、独り言のように言った。
「ライオス様、面白いこと言ってたね。シフォンのそばにいる何か、って」
シフォンはブラシをされながら、目を細めていた。
「私も、なんかいる気がしてたんだよね」とアイリスが言った。
「シフォンの影って、たまに変な形になるじゃないか。そういう時、なんかそこに誰かいる気がして」
吾輩は完全に静止した。
「まあ、気のせいかもしれないけど」とアイリスは笑った。
「でも気のせいじゃない気もして。なんか……シフォンって、一人じゃないんじゃないかって、ずっと思ってたんだよね」
シフォンが「ミャア」と言った。
「そうでしょ?」とアイリスが言った。
まるで返事を受け取ったように。
吾輩は、その言葉を聞きながら——動けなかった。
一人じゃない。
アイリスは気づいていた。完全に気づいていたわけではないかもしれない。
正確に「魔王の影が宿っている」とは思っていないだろう。
しかし「シフォンは一人じゃない」と感じていた。
五ヶ月かけて、その感覚を持つようになっていた。
吾輩は何も言えなかった。影だから。
言えたとしても、何を言えばいいかわからなかった。
「そうだ、吾輩は三大陸を征服した魔王ヴァルキスだ、シフォンの影に宿っている」と言えば、アイリスはどうするだろうか。
恐怖するか。逃げるか。
吾輩は、その問いの答えを、もう少し考えた。
そして——この子は怖がらないかもしれない、と思った。
根拠はない。ただの感覚だ。
しかし吾輩はアイリスという人物を五ヶ月かけて見てきた。この子は恐怖で人を判断しない。
だからライオスのことも「信頼できそう」と言える。だから吾輩のことも——。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
アイリスがその音を聞いて、「まあ、なんでもいいか」と笑った。
「シフォンがここにいてくれればそれでいい。一緒に誰かがいてくれてたとしても、それはそれで嬉しいし」
それで——いい。
吾輩は、その言葉を、静かに受け取った。
夜、ライオスが部屋の扉を叩いた。
アイリスが応対に出た。
「夜分に失礼します」とライオスが言った。
「少しお伝えしたいことがあって」
「はい」
「明日、私は調査のために王都を離れます。しばらくここには戻らない予定です」
「そうですか」とアイリスが言った。
「また会えますか」
「どこかでは」とライオスが言った。
「シフォン様と——ご縁があれば」
シフォンが扉の隙間から顔を覗かせた。
ライオスを見た。
ライオスがシフォンを見た。
「また会いましょう、シフォン様」
シフォンが「ミャア」と言った。
「ええ」とライオスが答えた。
それから、ライオスが吾輩の影に向けて——何かを言いかけた。
唇が動いた。しかし声にはならなかった。
何を言おうとしたのか、吾輩にはわからなかった。
ライオスが頭を下げて、廊下を歩いていった。
足音が遠くなった。
アイリスが扉を閉めながら「いい人だったね」とシフォンに言った。
シフォンは「ミャア」と言って、部屋の中に戻った。
吾輩は、ライオスが唇だけで言おうとした言葉を、しばらく考えていた。
「また」か。
「気をつけて」か。
あるいは——「わかっている」だったかもしれない。
吾輩には、確かめる方法がなかった。
ただ、ライオスが去った後で、奇妙な感覚が残っていた。
あの男は——吾輩の存在を知っていると、吾輩は確信しつつあった。しかし動かなかった。調査に去るという口実で、この場を離れた。
それは——何を意味するのか。
シフォンが吾輩の影の上に座って、丸まった。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩は答えの出ない問いを、今夜はそのまま眠ることにした。
明日からは、ライオスのいない王都での滞在が続く。
それは——少しだけ、静かになる気がした。
しかし同時に——何かが片付いていない感覚も残った。
ライオスとの話は、まだ終わっていない。
いつか、どこかで——続きが来る。
吾輩はそれを、確信していた。




