第25話:勇者ライオス登場
王都滞在四日目の朝、吾輩は気配を感じた。
王城の廊下を歩くシフォンに引きずられながら、吾輩は意識を広げた。王城の東翼に、見覚えのある気配がある。強い、しかし穏やかな——光の力を持つ者の気配だ。
ライオスだ。
来ていた。
ウェスパル村から追いかけるように、あるいは元々ここへ来る予定があったのか——いずれにせよ、勇者が今、王城の中にいる。
吾輩は即座に魔力の遮断を強めた。影の形を固定した。ただの猫の影として、完全に溶け込む。
問題は、シフォンがどの方向に歩くかだ。
シフォンは今、廊下を気の向くままに歩いていた。
アイリスが許可を得て、「少し散歩させてください」と城の使用人に告げた後の一人歩きだ。
王城の使用人たちはシフォンが廊下を歩くことを「聖獣様のご巡察」と呼んで、むしろ喜んでいた。
シフォンは東の廊下へ向かい始めた。
ライオスのいる方向へ。
吾輩は溜息をついた。
東翼の廊下は、西翼より天井が高く、壁に古い肖像画が飾られていた。歴代の王の肖像だ。吾輩はその何枚かに見覚えがあった。かつて脅し上げた相手の子孫や孫の顔が、そこにあった。
シフォンは肖像画など興味なく、廊下をのんびり歩いていた。
突き当たりの角を曲がった瞬間——ライオスと正面から鉢合わせた。
ライオスは一人だった。旅装束ではなく、王城での謁見用の服を着ていたが、腰には剣がある。廊下を歩きながら、何か書かれた羊皮紙を読んでいたようだ。
シフォンが立ち止まった。
ライオスが顔を上げた。
二者の目が合った。
ライオスがシフォンを見た。
シフォンがライオスを見た。
一秒。二秒。三秒。
吾輩は影の中で、完全に息を潜めた。魔力の遮断は完璧だ。気配は限りなくゼロに近い。ただの猫の影として、この場に溶け込んでいる。
ライオスの視線がシフォンから——影へ、移った。
廊下の石床に伸びる、シフォンの影を見た。
吾輩は動かなかった。
ライオスの目が細くなった。何かを探るような、しかし焦らない目だ。あの澄んだ目が、影の上で止まっていた。
一秒。二秒。三秒。四秒。五秒——。
吾輩は全神経を遮断に集中したまま、ライオスの動きを注視した。
気づかれた、と思った。
気づかれていない、とも思った。
あの目は「何かを感じている」目だ。
しかし「確信している」目ではない。
ライオスが、ゆっくりと視線をシフォンの顔に戻した。
「……いい猫だな」
それだけ言った。
しゃがんで、シフォンと目線を合わせた。
「聖獣様、だったか」とライオスが言った。
独り言のような口調だった。
「王都まで旅してきたんだな。疲れなかったか」
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
ライオスが少し笑った。表情の変化が小さい男だが、確かに口の端が上がった。
「そうか。元気そうだ」
それから立ち上がった。羊皮紙をまた手に持ち、廊下を歩き始めた。
通り過ぎる前に、もう一度だけ影を見た。
一瞬だけ。一秒にも満たない時間だったが、確かに見た。
そして歩き去った。足音が遠くなっていった。
シフォンがライオスの後ろ姿を、しばらく見ていた。
耳がライオスの方向を向いたまま、金色の目で追っていた。それから興味を失ったように、別の方向へ歩き出した。
吾輩は、ライオスが去っていった方向を意識しながら、シフォンに引きずられた。
「いい猫だな」——その言葉を、吾輩は反芻した。
単純な感想だ。しかしライオスがあれだけ影を見ていて、あの一言で終わったのが解せなかった。
あの男は確かに何かを感じている。それは間違いない。ウェスパル村でも、王都の城門でも、この廊下でも——影を見るたびに立ち止まる。それは偶然ではない。偶然で何度も同じことが起きるはずがない。
しかし攻撃してこない。問い詰めてこない。
なぜか。
吾輩には読めなかった。
考えられる理由はいくつかある。
一つ、証拠がないから動かない性格。
二つ、何かを確認するまで待っている。
三つ、既に何かを知っていて、それでも動かない理由がある。
どれが正しいかは、わからない。
いずれにせよ、今日は乗り越えた。
しかし次は——どうなるかわからない。
昼前、アイリスがシフォンを探して廊下に来た。
「シフォン、こんな所にいたの。心配したよ」
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
「一人で歩き回って……どこ行ってたの?」
「ミャア」
「まあ、無事ならいいか」とアイリスが笑いながらシフォンを抱き上げた。
「今日ね、国王陛下が城内を案内してくださるって。一緒に行こう」
城内の案内——それは吾輩にとっても有益だ。王城の構造、地脈の場所、要人の居場所。情報収集の観点から言えば、願ってもない機会だ。
それと同時に、ライオスがこの城にいるということも意味する。再び鉢合わせする可能性がある。
吾輩は覚悟を決めた。
来るなら来い。今の吾輩は、四ヶ月前とは違う。
城内の案内は国王自らが行ってくれた。
謁見室、執務室、礼拝堂、書庫、兵器庫——様々な場所を回った。案内の途中で、国王がアイリスに話しかけてきた。
「シフォン様は、ウェスパル村でどんな暮らしをしておられるのかな」
「えっと」とアイリスが少し考えた。
「普通の……猫の暮らしです。朝ごはん食べて、日向ぼっこして、散歩して、お昼寝して」
「奇跡を起こしながら?」と国王が少し笑って言った。
「そうなんです、いつも偶然みたいに奇跡が起きて……シフォン自身は何もしてないみたいで」
「それが一番難しいことかもしれない」と国王が言った。
アイリスが「え?」と聞き返した。
「意図せずして善いことをする、というのは、意図してやるより難しい。少なくとも人間には。意図するとたいてい、何か別のものが混じってしまうから」
アイリスがしばらく考えてから「確かに」と言った。
吾輩も——その言葉を、考えた。
意図せずして善いことをする。
吾輩はウェスパル村での五ヶ月間、「実務的な判断」「計画のため」「合理的な理由」という言い訳を積み重ねながら、結果として人々を助けてきた。
意図していた、と言い切れない。
しかし意図していなかった、とも言い切れない。
シフォンは——確かに意図していない。ただ動くだけだ。その結果として、何かが起きる。
どちらが「善い」のかは、吾輩にはわからなかった。
書庫を通り抜ける時、ライオスが現れた。
書庫の奥の席で本を読んでいたらしく、一行が入ってきた気配に顔を上げた。
「ライオス殿」と国王が言った。
「本を読んでいたか」
「はい」とライオスが立ち上がった。
「魔物の生態についての古い記録を」
国王がアイリスに「紹介しよう。わが国の英雄、勇者ライオス殿だ」と言った。
アイリスが「は、はじめまして」と少し緊張した様子で頭を下げた。
「はじめまして」とライオスが答えた。それからシフォンを見た。
「また会ったな、シフォン様」
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
「廊下で会っていたのか?」と国王がライオスに聞いた。
「今朝、少し」とライオスが答えた。
「面白い猫だと思いました」
「面白い」とアイリスが繰り返した。
「聖獣様に向かって面白いって、なかなか言えないですよね」
「褒め言葉のつもりです」とライオスが言った。
「単純でないという意味で」
その言葉に、吾輩は鋭く反応した。
単純でない。
ライオスは、シフォンが「単純でない」と言った。
猫のことを言っているはずだ。しかし——その言葉が、吾輩にも向けられているように聞こえた。
ライオスの目が、一瞬だけ影を見た。
また一瞬だけ。
それから国王に向き直った。
「陛下、先ほどの報告書の件で、少しよろしいですか」
「ああ」と国王が答えた。
「アイリス嬢、少し待っていてくれるか」
ライオスと国王が書庫の奥に引っ込んだ。
アイリスがシフォンを抱えて、書庫の入り口近くに立っていた。
「勇者様、かっこよかったね」とアイリスが小声で言った。
シフォンが「ミャア」と言った。
「なんか、すごい人だった。ちゃんと話したの初めてだけど……怖くなかった。でも、なんか見透かされてる気がして」
吾輩は、アイリスのその言葉を聞いた。
見透かされている気がする。アイリスも感じているのだ。ライオスの目に、何かを「読む」力がある。
シフォンがアイリスの腕から降りて、書庫の棚の間を歩き出した。
本の匂いが気になったのかもしれない。棚の下の方を嗅ぎ回り、やがて棚の隙間を通り抜けて、書庫の奥の方へ消えた。
「シフォン!」とアイリスが小声で追いかけた。
吾輩も引きずられた。
書庫の奥の方——ライオスと国王が話している場所に近い。
吾輩は遮断を強めながら、近づいた。
棚の向こうで国王の声がした。
「……シフォン様についてはどう思う。魔術師のオルドが気になっておったが」
ライオスの返事がした。
「測定が上手くいかなかったと聞きました」
「そうなのだ。オルドが言うには、影の部分に何か強いものがあると——測定器が正確に反応しなかったと」
「影に」とライオスが繰り返した。
「……そうですか」
その一言の温度が、他と微妙に違った。
知っている、あるいは感じている者の声だった。
「ライオス殿は何か知っているか?」と国王が聞いた。
「いいえ」とライオスが答えた。
「ただ——面白い猫だと思っています。普通でないことは確かです」
それからシフォンが棚の隙間から顔を出した。ライオスと国王が見えた。
二人がシフォンに気づいた。
「来てしまわれた」と国王が笑った。
ライオスがシフォンを見て、それから影を見た。
今度は長かった。十秒ほど。吾輩は遮断を維持しながら、ライオスの視線を正面から受けた。
それから静かに言った。
「……シフォン様は、思ったより遠くから来ておられるのかもしれません」
アイリスが「え? ウェスパル村からですよ?」と聞いた。
「そういう意味ではなく」とライオスが言った。
「もっと——遠いところから」
誰も返事ができなかった。
国王が「ほう」と言った。
アイリスが「どういう意味ですか」と聞いた。
「うまく説明できません」とライオスが言った。
「ただ、そう感じます。シフォン様の中に——あるいは周りに——長い時間と、重い何かがある気がして」
長い時間と、重い何か。
吾輩は、その言葉が刺さるように感じた。影に感覚はないはずだが、刺さった。
それは——吾輩のことを、言っているのかもしれなかった。百年以上生きた魔王の魂が、猫の影に宿っている。長い時間と、重い野望と、孤独の歴史が。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
ライオスが、その声を聞いて、少しだけ笑った。
「ご挨拶ありがとうございます、シフォン様」
シフォンは挨拶した覚えはないだろうが、鳴いただけだったが——その返答に、吾輩は奇妙な感覚を覚えた。
ライオスは、シフォンの「ミャア」が挨拶だと——あるいは、吾輩の存在に向けての何かだと——感じているのかもしれない。
この男は、やはり、危うい。
危うい、というより——鋭すぎる。
夜、部屋に戻ってアイリスがシフォンに言った。
「ライオス様、シフォンのこと気にしてたね。なんか、ずっと影を見てた」
シフォンは夕食の余韻で毛繕いをしていた。
「影って……変なのかな」とアイリスが首を傾けた。
「シフォンの影、確かにちょっと変だと思うことあるけど」
「ミャア」とシフォンが言った。
「まあ、聖獣様だから影も特別なのかな」とアイリスが笑って納得した。
「ライオス様も悪い人じゃなさそうだったしね。むしろ、なんか……信頼できそうな感じがした。なんでかわからないけど」
信頼できそう。
吾輩はその言葉を噛み締めた。
ライオスは吾輩の宿敵だ。吾輩を討伐した男だ。
今もおそらく、影に何かがいると感じている。
それでも攻撃してこない。
「長い時間と、重い何か」と言いながらも、それ以上踏み込まない。
なぜか。
考えてみれば——ライオスが即座に行動する男であれば、ウェスパル村の時点で動いていたはずだ。あの城門で影を見た時に。あの廊下で足を止めた時に。それをしなかった。
待っている。
何かを、確認するために。あるいは——何かを、判断しようとしているのかもしれない。
吾輩が危険かどうかを、独自の基準で測っているのかもしれない。
その基準が何かはわからない。
しかし——ウェスパル村での五ヶ月間、吾輩は誤発射とはいえ村人を助けてきた。魔物を退けた。山賊を吹き飛ばした。捕虜を助けた。結果として、人々の安全を守る方向にだけ力を使ってきた。
ライオスがその事実を知っているとすれば——。
吾輩はその考えの先を、また強制的に止めた。
信頼などという話ではない。ライオスは敵だ。それは変わらない。変えてはいけない。
しかし——アイリスが「信頼できそう」と言った。
シフォンが毛繕いを終えて、吾輩の影の上に座った。
ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩はその音を聞きながら、地脈から魔力を吸収し続けた。王都の地脈は豊かで、魔力は確実に回復していた。討伐前の三割五分——もうすぐ四割に達する。
計画は、進んでいる。
復活のための準備が、着実に進んでいる。
それが——今夜は、少しだけ遠く感じた。
遠いというより、霞んでいた。
吾輩は自分に言い聞かせた。計画を続ける。復活を果たす。それが吾輩の道だ。
シフォンが深く寝息を立て始めた。
吾輩は黙って、その隣にいた。




