第23話:玉座に猫
王都滞在二日目の朝、正式な謁見の席が設けられた。
王城の謁見室——広い石造りの部屋で、高い天井からシャンデリアが下がり、床には深紅の絨毯が敷かれ、正面奥に金と赤の玉座が置かれている。左右には廷臣たちが整列し、衛兵が等間隔に立っていた。
吾輩はその部屋に入った瞬間、足が止まった。
止まれる足がないので、正確にはシフォンが止まった。
玉座だ。
金と赤の、威厳ある玉座。王の権威の象徴。吾輩がかつて持っていたものより、装飾は派手かもしれないが、基本的な意味は同じだ。
吾輩は、長い間、玉座から遠ざかっていた。
影になってから、一度も玉座に近づいたことがなかった。ウェスパル村の聖獣祭の時に台座に乗ったが、あれは台座だ。玉座ではない。
本物の玉座が、目の前にある。
吾輩の中で、何かがうずいた。
謁見の手順はこうだった。
アイリスがシフォンを抱えて謁見室に入る。国王が玉座に座って迎える。
使者が「聖獣シフォン様の御来訪です」と告げる。アイリスがシフォンを下ろす。
シフォンが国王に向かって何かをする——おそらく村人が期待するような「神聖な仕草」を。
そういう段取りだったはずだ。
アイリスがシフォンを抱えて謁見室に入った。
廷臣たちが頭を下げた。
使者が「聖獣シフォン様の御来訪です」と告げた。
国王が玉座に座って、シフォンを見た。
アイリスがシフォンを床に下ろした。
シフォンが謁見室を歩き始めた。
吾輩はシフォンの動きを感じながら——玉座への引力を感じていた。
シフォンが絨毯の上を歩いた。
廷臣たちの足元を通り、衛兵の前を横切り、正面の壇へ向かった。
国王が少し身を乗り出した。
シフォンが壇の石段を登り始めた。
国王がシフォンを見ていた。
廷臣たちが固唾を飲んでいた。
シフォンが玉座の前に来た。
くんくんと匂いを嗅いだ。
それから——玉座の肘掛けに前足をかけて、登った。
玉座に、シフォンが乗った。
吾輩は、その瞬間——妙な感慨を覚えた。
やっと玉座だ。
そういう感慨だった。
影になってから、一度も座れなかった玉座に——正確にはシフォンが乗っているだけで吾輩は影だが——ようやく来た。
謁見室が静まりかえっていた。
国王が玉座から立ち上がっていた。シフォンに席を譲った形になっていた。
シフォンは玉座の上でくるりと一回転して——丸まった。
いわゆる「香箱座り」だ。
前足を体の下に折り畳み、尻尾を体に巻きつけて、まん丸になった。パンのような形だ。
そのまま、目を細めた。
眠そうだった。
廷臣の一人が「聖……聖獣様が……玉座に……」と震える声で言った。
「陛下の玉座に……」ともう一人が言った。
国王は玉座の隣に立ったまま、シフォンを見ていた。
それから——笑った。
堪えきれないように、声を出して笑った。
「いやはや」と国王が言った。
「これほど堂々とした御方は、なかなかおらんな」
廷臣たちが困惑した顔で「陛下……」と言いかけた。
「構わん」と国王は手を振った。
「聖獣様が玉座をお選びになったなら、それが正しい場所なのだろう。今日の謁見は、玉座の前で行う」
廷臣たちが、一斉に頭を下げた。
謁見は、玉座で眠りかけているシフォンの前で行われた。
各地の貴族や大臣が順番に進み出て、シフォンに向かって何か言い、頭を下げ、退出した。シフォンは時々目を開けてその様子を眺め、また閉じた。
ある貴族が「聖獣様の御加護を賜りたく——」と長い口上を述べ始めた。
シフォンが途中であくびをした。
「……聖獣様がお言葉を……!」と廷臣が感激した。
違う。あくびだ。
別の貴族が「シフォン様、我が領地にもぜひ——」と言いかけた時、シフォンが玉座の上で伸びをした。前足を思い切り前に出す、あの「へ」の字ポーズだ。
「聖獣様のお言葉だ! 御体を伸ばされた!」
「誰かに何かが授けられた!」
「授けられたのは私だ! 今まさに私に向けて——!」
廷臣たちが「私だ」「いや私だ」と小声で揉め始めた。
吾輩は影の中で、深く、静かに、脱力した。
あれは体が凝ったから伸びをしただけだ。
しかし今更それを言っても意味がなかった。
吾輩は——その光景を、複雑な気持ちで眺めていた。
玉座。
吾輩はかつて玉座を持っていた。
三大陸の覇者として、誰も近づけない頂点に座っていた。あの頂点は孤独だったと、吾輩の事を語ったあの夜に気づいた。それでも——玉座そのものへの執着は、今もわずかにある。
それが正直なところだった。
吾輩は権力の象徴に惹かれる本能を持っている。それは否定できない。百年かけて培った本能だ。玉座を見れば、そこに座りたいと思う。それが吾輩だ。
しかし今、玉座に座っているのはシフォンだ。
貴族たちが頭を下げる相手は、シフォンだ。
そしてシフォンは——眠りかけている。
権威も格式も関係なく、ただ居心地のいい場所を見つけて、丸まっている。
吾輩は笑いたいような、脱力したいような、しかしなぜか怒りではない感情を覚えた。
腹が立たない、というのが不思議だった。
普通なら腹が立つはずだ。吾輩の本来の玉座が、猫の昼寝場所になっているのだから。
しかし——まあ、いい。
どうせ吾輩は影だ。玉座に座れる体がない。
それでも——あの玉座の上に、吾輩の気配が少しだけある。シフォンの影として、あの玉座に、吾輩もいる。
それで今は、十分かもしれない。
そう思えること自体が——吾輩の変化の証かもしれなかった。
謁見が終わり、国王がアイリスに声をかけた。
「シフォン様のご縁者とのこと。今日は大変だったね」
アイリスが「いえ、その……」と言いながら玉座を見た。シフォンがまだ乗っていた。
「降ろしてよいか?」と国王が聞いた。
「あの……シフォンが自分で降りるまで待った方がいいかもしれません」
「なるほど」と国王が頷いた。真剣な顔で。
それから国王は少し声を落として言った。
「シフォン様は——不思議なお方だな。ああして玉座に座っていても、誰も不敬だとは思わない。むしろ自然に見える」
「そうですね」とアイリスが言った。
「シフォンはいつも、自分のペースで動くんです」
「うらやましいことだ」と国王が言った。
「私も玉座に座っている時は、自分のペースではいられない」
アイリスが少し驚いた顔をした。
「陛下でも、ですか」
「誰でも同じだよ」と国王が言った。
「玉座は重いものだ。あのように軽々と乗れるのは——聖獣様だからこそかな」
吾輩はその言葉を聞いた。
玉座は重い。
吾輩は、かつての自分を思い出した。玉座に座っていた頃の孤独を。重さを。
今のシフォンは——軽々と乗って、丸まって、眠りかけている。
何も背負っていない。ただ、居心地のいい場所を選んだだけだ。
国王の言う通りかもしれない。
玉座を「軽々と」扱えるのは——何も求めていないからかもしれない。
シフォンがのそのそと玉座から降りてきた。そのまま国王の足元まで歩いてきて、足に頬をすりすりと擦り付けた。
国王が固まった。
アイリスが「えっ」と声を上げた。
廷臣たちが息を呑んだ。
「シフォン様が……陛下に……」
「御加護を……!」
国王がゆっくりとしゃがんで、シフォンと目線を合わせた。シフォンが国王を見た。
「ありがとう」と国王が静かに言った。
シフォンが「ミャア」と答えた。
吾輩は——その光景を見ながら、何かが緩んでいく感覚を覚えた。
緊張が、ではない。もっと別の何かが。
その夜、アイリスが部屋でシフォンに話しかけた。
「今日、玉座に登ったじゃん。びっくりしたよ」
シフォンは「ミャア」と言った。
「あそこが気持ちよかった?」
「ミャア」
「陛下もいい人だったね。笑ってくれてよかった」
シフォンがアイリスの膝に乗った。
「ねえシフォン」とアイリスが言った。
「なんか……王都って怖いと思ってたけど、シフォンがいるとなんとかなる気がする」
シフォンが喉を鳴らした。
吾輩は影の中で、その言葉を受け取った。
なんとかなる気がする。
吾輩も——そう思っていた。
ウェスパル村を出た時に、なぜか「帰ってくる」と思った。それと同じように、王都に来ても、なぜか「なんとかなる」と思っていた。
シフォンがいるから、というのは——吾輩の場合は少し違う。
シフォンと、アイリスがいるから。
そして——吾輩がいるから。
三者が揃っているから。
それで十分だと——吾輩は静かに、そう思っていた。




