第21話:旅の道中②
旅の三日目。いよいよ王都への最終日だ。
朝の出発は順調だった。
シフォンが敷物の上に自分から乗り込み、アイリスが「えらい、慣れてきたね」と言った。
馬車の揺れにもだいぶ慣れてきたようで、昨日のような踏ん張りがなくなっていた。
街道は次第に整備が行き届いてきた。
石畳の幅が広くなり、道沿いに立て札が整然と並び、行き交う人も増えた。王都に近づいているのがわかった。
午前中は何事もなく過ぎた。
問題は、昼過ぎに差し掛かった峠道で起きた。
峠道は細かった。
山の斜面を縫うように続く道で、左側は崖、右側は岩壁だ。馬車がすれ違うのがやっとの幅で、馬の速度も自然と落ちた。
使者が「この峠を越えれば、王都まで一時間もかかりません」と言った。
その時、先頭の護衛騎士が馬を止めた。
「前方に——」
低い、緊張した声だった。
吾輩は先んじて気配を探っていた。
峠道の前方、道が少し広くなる場所に、複数の魔物がいた。数は——十五体ほど。中型だ。ウェスパル村で遭遇した小型ゴブリンより一回り大きく、戦闘能力も高い。岩陰に隠れて道を塞いでいる。
通行人を狙う、待ち伏せだ。
街道を管理する衛士が定期的に討伐しているはずだが、どこかから流れてきたのかもしれない。あるいは、散り散りになった魔王軍の残党が野生化したものだ。
護衛騎士が二人いるが、中型魔物十五体は厳しい。
アイリスが馬車の窓から顔を出した。
「何があったんですか」
「魔物です」と使者が短く答えた。
「しばらく馬車の中にいてください」
「え、魔物!?」
アイリスが慌てて馬車の中に引っ込んだ。シフォンがアイリスの動揺を察知して、耳を立てた。
吾輩は状況を判断した。
護衛二人では厳しい。逃げるにも、峠道は細くて馬車を転回できない。前進するしかない。
吾輩が動くしかないだろう。
しかし前回のミルダ村の時のように、シフォンが静止している間に制御して魔力を放てれば——。
シフォンが馬車の窓に飛びついた。
「待て」と吾輩は思った。
シフォンが窓から外を覗いた。
前方の気配を嗅ぎ取ったのかもしれない。あるいは外の音を聞いた。
「まずい。動くな——」
シフォンが窓枠に前足をかけた。
「やめろ、馬車の中にいろ——!」
シフォンが馬車から飛び降りた。
アイリスが「シフォン!」と悲鳴を上げた。
シフォンが峠道の石畳に着地した。
吾輩も引きずられた。
前方に魔物の気配がある。シフォンの鼻が、何かを感じている。体を低くした。狩猟本能が起動した。
「やめろ。相手は中型だ。猫では——」
岩陰から魔物が出てきた。
四本足で、身長は人間の成人ほど、灰色の硬い皮膚と鋭い爪。重量感のある、力強い魔物だ。十五体がじりじりとこちらへ向かってきた。
護衛の騎士が剣を抜いた。
シフォンが——さらに体を低くした。
本気の狩猟姿勢だ。
吾輩は覚悟した。制御する。今度こそ、完全に制御する。シフォンが動く瞬間に合わせて、魔力を正確に放つ。前回より遥かに精度が上がっている。できる。
問題は、シフォンがどのタイミングで跳ぶかわからないことだ。シフォンの本能は読めない。しかし——この四ヶ月、吾輩はシフォンと行動を共にしてきた。シフォンの動き方を見続けてきた。跳ぶ前の体の沈み方、耳の向き、目の焦点——。
吾輩にはシフォンのことが、誰より、わかっていた。
シフォンの体が、さらに低くなった。後ろ足に力が集まった。
吾輩は魔力を準備した。
シフォンが跳躍した。
吾輩は魔力を放った。
タイミングが完璧に合った。
シフォンの跳躍の軌道と、吾輩の魔力の方向が、初めて完璧に一致した。魔力がシフォンの動きに乗って、前方に向けて一直線に飛んだ。散らばらず、暴走せず、狙い通りの方向に。
ドオオオオン。
峠道が揺れた。
魔物の群れが、まとめて吹き飛んだ。岩壁が揺れた。石が落ちた。煙が上がった。
静寂。
シフォンが着地した。前方に一体も魔物がいなくなっていた。全員が峠の向こう側へ吹き飛んでいた。
護衛の騎士が、剣を抜いたまま固まっていた。
吾輩は確認した。今回は——意図した通りだった。
暴走ではなく、制御された一撃だった。
死者も出ていない。全員を無力化した。
初めてだった。
シフォンが動くと同時に、吾輩が動いた。二者が一体となって動いた、初めての瞬間だった。
しばらくの沈黙の後、護衛の騎士の一人が言った。
「……聖獣様が、一撃で」
「しかも全員を」ともう一人が言った。
使者が馬車から飛び降りて、シフォンを見た。
シフォンは峠道に座って、前足を舐めていた。
「シフォン様……」
シフォンは何も言わなかった。毛繕いを続けた。
アイリスが馬車から飛び降りてきた。
「シフォン! 無事!?」
シフォンを抱き上げようとしたが、シフォンは毛繕いの途中なので少し抵抗した。それでもアイリスが強引に抱き上げた。
「もう、勝手に飛び出さないで! 心臓止まるかと思った!」
シフォンが「ミャア」と言った。
「ミャアじゃないよ!」
シフォンはアイリスの腕の中で毛繕いを再開した。
護衛の騎士と使者が、口を揃えたように頭を下げた。
「お助けいただき、感謝します」
峠を越えると、道が一気に広くなった。
遠くに、大きな都市が見えてきた。
王都アルクス・ラシアだ。
高い石造りの城壁、その向こうに塔と屋根が林立している。夕暮れの光を受けて、都市全体が金色に染まっていた。
吾輩はかつてあの城壁を攻略しようと軍を率いたことがある。何度か試みて、最終的に内部工作で城門を開かせた——しかしその後、王を脅えさせることに満足してしまい、完全な制圧は後回しにした。それが甘かったと今では思う。
しかしそれは今は関係ない。
アイリスが窓から王都を見て、しばらく言葉を失っていた。
「……大きい」
それだけ言った。目が輝いていた。
シフォンも窓から顔を出して、王都を見た。
耳がぴんと立った。何万人もの人間と、膨大な気配と、それに——地脈の強さが、ここからでも感じられた。
吾輩は王都の地脈を意識した。
あそこまで行けば——魔力の回復が一気に進む。計画が大きく前進する。そのはずだった。
しかしそれと同時に吾輩が思ったのは——峠道での、あの感触だった。
シフォンの跳躍と、吾輩の魔力が、初めて完璧に合致した瞬間の感触。バラバラに動き続けてきた二者が、一瞬だけ、一つのものとして動いた。
それは不思議な感覚だった。
協力、というものに近かったのかもしれない。シフォンが意図してやったわけではない。
吾輩が合わせただけだ。
しかし——合わせることができた。
吾輩はシフォンのことを、今や誰より理解していた。
「行こうか、シフォン」とアイリスが言った。
「ミャア」とシフォンが答えた。
馬車が王都へ向かって進み始めた。
城壁が大きくなってきた。
夕暮れの光の中で、アルクス・ラシアが迫ってきた。
吾輩はその都市を、かつてとは全く違う目で見ていた。
かつては「制圧すべき要塞」として見ていた。
今は——「行く場所」として見ていた。
その違いが何を意味するのか、吾輩にはまだわからなかった。




