第20話:旅の道中①
旅の二日目が始まった。
一日目は比較的穏やかだった。シフォンは敷物の上で丸まったり、窓の外を眺めたり、アイリスの膝に乗ったりしながら、なんとか馬車の旅に適応していた。
吾輩は緩衝の膜を維持しながら、街道の情報を集め、少しずつ魔力を吸収していた。
問題が起きたのは、二日目の昼過ぎだった。
街道が丘陵地帯に入り、道が少し複雑になった。左右に木々が迫り、日差しが斑になった。
シフォンが窓の外を眺めていた。
そこに——鳥が飛んできた。
黒くて小さな鳥が、馬車と並走するように、しばらく窓の外を飛んでいた。ただそれだけだった。ただの鳥だ。
シフォンの目が、その鳥を捉えた。
吾輩は慄いた。
「シフォン。落ち着け。馬車の中だ。鳥は外だ。窓は——」
窓が開いていた。
吾輩が空気の流れのために開けておいた窓が、あろうことか、開いていた。
「待て。待て待て待て——」
シフォンが窓枠に前足をかけた。
「やめろ!」
シフォンが身を乗り出した。
吾輩は咄嗟に影から腕を出して、シフォンの尻尾を掴もうとした。届かなかった。
シフォンが窓から半身を出して、鳥を追いかけようとした瞬間——馬車が石を踏んで大きく揺れた。
シフォンが「ギャッ」と声を上げて、馬車の中に転げ落ちた。
座席から転がり落ちて、床に着地した。四本足で、しかし派手に。
「シフォン!」とアイリスが飛び上がった。
シフォンは床の上で座り直し、派手に毛繕いを始めた。なかったことにするつもりらしい。
「びっくりした、怪我してない?」
シフォンは毛繕いを続けた。
吾輩はそっと窓を閉めた。
午後、馬車が町に差し掛かった。
小さな町だが、街道の要所にある宿場町らしく、行き交う人が多かった。石畳の広場、並ぶ屋台、荷物を積んだ馬車が行き交い、ウェスパル村の何倍もの人間が動き回っていた。
使者が「少し休憩します」と言い、馬車が止まった。
アイリスがシフォンを抱えて外に出た。
それが失敗だった。
広場に出た途端、人の多さにシフォンが固まった。アイリスの腕の中でじりじりと後退するように体を縮めた。
「あ、怖い? ごめんごめん」とアイリスがすぐに馬車に戻ろうとした。
しかしその時、広場にいた誰かが「あっ、あの白い猫! 聖獣様じゃないか!?」と叫んだ。
広場が静止した。一瞬の後、視線が一斉に集まった。
「ウェスパル村の聖獣様が!」
「こんな町にまで!?」
「御利益を! お姿を拝ませてください!」
人が集まり始めた。笑顔の、善意の人たちだ。しかしシフォンには関係ない。知らない人間が大勢、自分に向かって殺到してくる——それだけが現実だ。
シフォンがアイリスの腕の中でさらに震えた。吾輩もその震えを感じた。
吾輩は緊急事態と判断し、影から薄い魔力の幕を張った。人波をそれ以上前進させない、ごく弱い壁だ。ぐっと人が止まった。
本人たちには「なんとなく足が進まない」程度にしか感じないはずだ。
使者が「聖獣様はお疲れです! お静かに!」と声を張り上げた。
人波が少し引いた。アイリスが素早く馬車に戻った。シフォンをシートの上に下ろした。
シフォンが敷物の中にもぐり込んで、顔を隠した。
「ごめんね、シフォン。人多かったね」
シフォンは敷物から顔を出さなかった。しばらくして、ふるふると体が震えているのが布越しにわかった。
怖かったのだ。
吾輩は——その震えを感じて、少し申し訳ない気持ちになった。
有名になりすぎるのも、考えものだ。
夕方、二日目の宿に着いた。
昨日よりさらに大きな宿屋で、部屋は広かった。アイリスは「こんな広い部屋、はじめて……」と圧倒されていた。
シフォンは部屋に入るや否や、ベッドの下に潜り込んだ。
一番安全だと判断したらしかった。
「シフォン、ご飯食べる?」とアイリスが呼んでも、ベッドの下から出てこなかった。
仕方なく、アイリスがシフォンの食べ物を皿に入れて、ベッドの下に差し入れた。
しばらくして、皿を舐める音がした。
「食べてる……」とアイリスが安堵した。
吾輩は影から腕を出して、シフォンの食べ物に少し細工をした。バターをほんの少し加えた。好物だ。
食べる音が少し速くなった。
「そんな所にいても退屈じゃないの?」とアイリスがベッドの下に向かって言った。
「ミャア」とシフォンが答えた。
「そっか。じゃあゆっくりしてて」
アイリスが窓際の椅子に腰を下ろして、外の夜景を見た。
「大きい町だなあ。明日には王都に着くんだよね」
独り言だった。
吾輩はその横顔を——正確には影から感じる気配として——眺めた。
アイリスは緊張しているのかもしれない。生まれて初めての長旅、初めての大きな町、そして明日には王都。
吾輩は、何か言いたかった。
言えなかった。影だから。
しかし——シフォンがベッドの下から這い出てきて、アイリスの足元に座った。
「あ、出てきた」とアイリスが足元を見た。
「ミャア」とシフォンが言った。
アイリスがシフォンを抱き上げて、膝に乗せた。
「ありがとう、シフォン。なんか、一人じゃないみたいで安心する」
シフォンが喉を鳴らした。
吾輩も——一人ではない、と思った。
シフォンがいる。アイリスがいる。
それは、かつての吾輩には想像もできなかった状況だった。
夜、アイリスが眠りについてから、吾輩は静かに外の気配を探った。
この町の地脈は太かった。街道の要所ということもあり、商業的な活力が地脈を活性化させているようだった。ウェスパル村の倍以上の量が流れている。吾輩はゆっくりと魔力を吸収した。確実に、着実に、蓄えが増えていく。
シフォンはぐっすり眠っていた。今日は色々あって疲れただろう。鳥に飛びかかろうとして馬車の中で転がり、群衆に囲まれて震え、ベッドの下に籠もった。それでも夜には出てきてアイリスのそばにいた。
たくましい、というより——素直な生き物だ、と思った。
怖ければ隠れる。安心できれば出てくる。好きなものには飛びつく。嫌なものは唸る。腹が減れば要求する。眠ければ寝る。
シフォンには計算がない。全部、そのままだ。
吾輩はかつて、そういう生き方を「知性がない」と片付けていた。猫など、本能で動く下等な生き物だと。
しかし今は——羨ましいとさえ思った。
それほど単純に生きられるなら、どれほど楽か。
吾輩は複雑に考えすぎる。
計画を立て、計算をし、感情を言い訳で包む。
「帰りたい」という気持ちを「計画の拠点として必要だから」と言い換える。
「アイリスが心配」という感情を「環境維持のための利害関係」と説明する。
「シフォンが可愛い」などという考えは——いや、それは別の話だ。
シフォンはただ——今にいる。
今、この宿の部屋で、アイリスのそばで、丸まって眠っている。それだけだ。
吾輩は、その単純さを、静かに羨んだ。
それから、今夜の魔力吸収に集中した。
明日は王都だ。計画の次の段階へ進む。集中しなければ。
シフォンの寝息が、部屋に響いていた。




