第19話:旅の準備
出発は二日後に決まった。
王家の馬車が村の広場に停められ、翌朝には旅の準備が始まった。
アイリスは生まれて初めての遠出に、前夜からそわそわしていた。着替えをどれだけ持っていくか、シフォンの食べ物は何を準備するか、道中の天気はどうか——次々と心配事が浮かんでくるらしく、夜遅くまで荷物をまとめては解き、まとめ直していた。
ルカは籠に入れてガリスに預けることになった。
アイリスがルカに「お父さんと仲良くしてね」と言うと、ルカが「ミャッ」と高い声で鳴いた。
ガリスが「猫の世話なんて知らんぞ」と言いながら、ルカの耳の後ろを掻いてやっていた。
シフォンはというと——。
問題が起きたのは、出発前日の昼だった。
馬車の様子を見に行こうとアイリスに連れられて広場に来たシフォンが、馬車を見た瞬間、足を止めた。
動かなくなった。
四本足を踏ん張って、尻尾をぴんと立てて、馬車を睨んだ。
「シフォン? どうしたの」
シフォンは答えなかった。馬車から目を離さず、低く「ウ゛ー」と唸った。
吾輩は状況を把握した。
馬車が怖いのだ。
正確には、馬車の「雰囲気」だろう。大きくて、見慣れない形で、馬の匂いと革の匂いと木の匂いが混じっている。それに、馬車は揺れる。猫は足場が不安定なものを本能的に嫌う。
「大丈夫だよ、乗ると思ってたの違うみたいだけど……」とアイリスが困った顔をした。
シフォンはじりじりと後退し始めた。
吾輩は頭を抱えた。影に頭はないが、概念として。
王都に行けば地脈がある。魔力を大量に回復できる。情報も集まる。それなのに——シフォンが馬車を嫌がっている。
その夜、吾輩は珍しく積極的に動いた。
シフォンが眠っている間に、影から薄く魔力を出して、馬車の周囲を探った。
馬車の構造を把握した。四輪の車体、革張りの座席、天井付きの箱型。揺れは馬の速度と道の状態による。
シフォンが嫌がる要因を整理した。揺れ、密閉空間、見知らぬ匂い、馬の存在。
どれかを緩和できれば、シフォンの拒絶反応も和らぐかもしれない。
翌朝早く、吾輩は影から腕を出して、馬車の内部に細工をした。
座席のクッションの上に、アイリスの家から持ち込んだシフォンの敷物を広げた。シフォンが毎日寝ている、馴染みの匂いのついた布だ。
それから、馬車の扉の隙間を少し広げた。完全に密閉されないよう、空気が流れるように。
最後に、馬車の中に薄く魔力の膜を張った。揺れを若干吸収する、緩衝の膜だ。乗り心地が少しだけ良くなるはずだ。
完璧な準備だ。
あとはシフォンが乗ってくれるかどうかだが——。
出発当日の朝。
アイリスがシフォンを抱えて馬車の前に立った。
「シフォン、乗ろうね。王都に行くために」
シフォンがアイリスの腕の中で、馬車を見た。昨日より距離が近い。鼻をひくひくさせた。
馴染みの匂いがした。自分の敷物の匂いが、馬車の中からしていた。
シフォンの体が、少しだけ緩んだ。
「行けそう?」とアイリスが聞いた。
シフォンが「ミャア」と言った。
「よし」とアイリスが馬車のステップに足をかけた。
シフォンが馬車の中を覗き込んだ。敷物がある。自分の匂いがする。馬の匂いは相変わらずあるが、さっきよりは薄い気がした。
シフォンがアイリスの腕から飛び降りて、自分で馬車に乗り込んだ。
敷物の上に座った。
匂いを嗅いだ。
くるりと一回転して、丸まった。
アイリスが「あ、自分で乗った!」と声を上げた。
「昨日と全然違う。なんで?」
謎として残った。
吾輩は影の中で、静かに満足した。
広場では出発の準備が進んでいた。
使者と護衛の騎士二人、アイリス、そして馬車の中のシフォン。
ベルンが見送りに来ていた。村人のほとんどが集まっていた。ウェスパル村全体が、早朝から広場に出てきていた。聖獣様のご出立だ、という気持ちが村人にはあったのだろう。
「シフォン様、どうかお気をつけて」とベルンが言った。
「王都でも、どうぞお変わりなく」
「アイリス、しっかりな」とガリスが言った。
声が微妙に揺れていた。
「お父さん、泣かないでよ」
「泣いとらん」
ガリスの目が明らかに赤かった。
ルカがガリスの腕の中で「ミャッ」と鳴いた。
慰めているのかもしれない。
アイリスがルカの頭を一度だけ撫でた。
「行ってくるね、ルカ。お父さんのこと頼んだよ」
ルカが「ミャッ」と答えた。
シフォンが馬車の窓から顔を出した。ルカを見た。
ルカが「ミャッ」と鳴いた。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
それだけだった。
しかし二声のやり取りに、確かに何かがあった。
吾輩は、なぜかそこで胸が詰まった。
影に胸はないが、概念として。
馬車が動き出した。
ウェスパル村の石畳を、ゆっくりと進んだ。
村人が手を振った。ベルンが静かに頭を下げた。
ガリスが——手を振ろうとして、なぜかルカを高く掲げた。ルカが困惑した顔をしていた。
「……お父さん何してんの」とアイリスが苦笑いした。
馬車が村を出た。石畳が終わり、街道の砂利道になった。揺れが少し増した。
シフォンが敷物の上で、揺れに合わせて体を落ち着けようとしていた。踏ん張っている。
吾輩は緩衝の膜を少し強くした。揺れが和らいだ。シフォンが少し楽になったように、体の力を抜いた。
「シフォン、大丈夫?」
「ミャア」
「よかった」
アイリスが窓の外を見た。遠ざかっていくウェスパル村が見えた。石造りの家々、収穫を終えた畑、煙を上げている煙突、村外れの木々。
「……行ってきます」とアイリスが小さく言った。
シフォンが「ミャア」と言った。
吾輩は、村が見えなくなるまで後ろを見ていた。
ウェスパル村。四ヶ月過ごした場所。廃井戸を修復した広場。ベルンの教会。ガリスの畑。アイリスの小さな石造りの家。
帰ってくる。必ず帰ってくる——そう、自然に思った。
計画の拠点として、という意味だ。それだけの理由だ。
そういうことにしておいた。
街道を南へ進むにつれ、景色が変わっていった。
ウェスパル村の周囲は農地と森だったが、街道沿いには次第に大きな村や町が現れ始めた。石造りの建物が増え、行き交う馬車や旅人が増え、道が広くなった。
シフォンは窓の外に興味を持ち始めた。
最初は敷物の上で丸まっていたが、しばらくすると窓際に移動し、流れていく景色を眺め始めた。人が多いのは嫌いだが、動くものを見るのは本能的に好きらしかった。
アイリスも窓から外を見て、「うわ、大きい村だ」「馬が並んでる」「あれなんの建物?」と小声で呟いていた。
吾輩は街道の気配を探りながら、情報を集めた。
行き交う旅人の会話から、大陸の現況が少しずつわかってきた。
新王は若く、魔王なき後の安定に力を入れているらしい。勇者ライオスは各地を回って魔物を討伐し、英雄として称えられている。
残った魔族の残党は小さな山賊的な振る舞いに成り下がり、もはや組織的な脅威ではないとみなされているという。
それは吾輩にとって複雑な情報だった。
組織的な脅威ではない——それはゾグたちのことだ。大陸の人々には、もはや魔族など恐れるに足らないと思われている。
その認識を、吾輩がいつか覆すつもりなのか。
吾輩は、その問いに、今日も答えを出さなかった。
一日目の宿は、街道沿いの大きな宿屋だった。
王家の使者が予め手配していたらしく、部屋は広く、食事も上等だった。
「こんな宿、はじめて」とアイリスが言った。
シフォンは部屋に入るや否や、隅から隅まで匂いを嗅いで回り、窓際の長椅子が気に入ったらしく、そこに落ち着いた。
吾輩は部屋の地脈を探った。街道沿いの宿屋は、地脈から離れた場所にあることが多い。ここも例外ではなかったが、それでもウェスパル村より微弱に流れていた。少しだけ吸収した。
アイリスが夕食を食べながら言った。
「明日もあさっても馬車かあ。シフォン、頑張れるかな」
シフォンは長椅子で既に丸まっていた。
「今日は思ったより平気だったね。最初怖がってたのに」
吾輩は何も言わなかった。
「王都、どんなとこなんだろ」とアイリスが独り言のように言った。
「私、こんな遠くに来たことないから……シフォン、あなたはどこから来たの?」
シフォンが片目を開けた。
「魔王城から?」とアイリスが笑いながら言った。
「そんなわけないか」
吾輩は、その言葉を聞いた。
そんなわけないか——。
事実その通りなのだが、吾輩は黙っていた。
ランプが消えた。
王都まで、あと二日。




