第17話:アイリスの誕生日
ライオスが村に滞在して三日が経っていた。
勇者は宿屋に泊まり、村人と話し、ベルンと長い議論をしていた。魔王の痕跡を探す旅の一環らしく、各地の奇異な出来事を記録して回っているようだった。シフォンのことも調べているはずだが、今のところ表立った動きはない。
吾輩は引き続き影の気配を薄くして、ただの猫の影として過ごしていた。
ライオスはシフォンを見るたびに少し立ち止まった。しかし何も言わなかった。
緊張の続く日々の中、アイリスがある朝、台所でこそこそしていた。
「お父さん、今日だけはお昼過ぎに帰ってきてね。それまでは台所に入らないで」
「なんだ、何かするのか」とガリスが言った。
「秘密」
ガリスが「はあ」と言いながら出かけた。
アイリスが台所で小麦粉と卵と蜂蜜を取り出した。何かを作るつもりらしかった。
シフォンが台所に入ってきて、匂いを嗅いだ。
「シフォンはあっち行ってて」とアイリスが言った。
「邪魔しないでね」
シフォンは邪魔するつもりはなかったが、追い出された。
吾輩はその様子を見ながら、アイリスが何を作っているか考えた。小麦粉、卵、蜂蜜——菓子だ。誕生日の菓子だ。
誕生日。
吾輩は、それを聞いた記憶を辿った。ガリスが三日前に村人と話していた。
「うちの娘の誕生日が今週だ」と言っていた。今日だ。
アイリスの誕生日。
吾輩はその事実を確認してから、予期しない感情が動くのを感じた。
何かを、してやりたい。
その感情が生まれた瞬間、吾輩は驚いた。
誰かの誕生日に何かをしてやりたいなどという感情を、吾輩はこれまで持ったことがなかった。魔王城でも、配下の誕生日など気にしたことはない。それ以前の——人間と魔族の境界にいた子供の頃も、誕生日を祝われた記憶がない。
つまり吾輩には、誕生日の贈り物を贈った経験がなかった。
しかし——したい、と思った。
問題は何を贈るかだ。
吾輩は真剣に考えた。
まず、影から作れるものを考えた。魔力を使えば、影から物質をある程度生成できる。ただし今の回復量では大きなものは無理だ。小さく、軽く、しかしアイリスが喜ぶもの。
花はどうか。野の花を集めて束にする——しかし影から腕を出して花を摘みに行くのは目立つ。それに花束なら、ガリスが買ってきた方がずっと自然だ。
食べ物はどうか。料理は多少できるようになった。しかし人間用の料理とシフォン用とは違う。味付けも分量も違う。失敗した場合のリスクが高い。食べ物で失敗するほど情けないことはない。
宝石や金属はどうか——これはそもそも影から生成できない。魔力で作れるのは有機物に近いものに限られる。
衣服や布はどうか——生成はできるが、今の吾輩の魔力では品質が粗くなる。アイリスに粗末なものを贈るくらいなら贈らない方がましだ。
吾輩は行き詰まった。
魔王である吾輩が十三歳の少女への贈り物を考えて行き詰まっている。
この事実は、できれば誰にも知られたくなかった。
しかし諦めるわけにもいかなかった。
なぜ諦めたくないのかは、考えないことにした。
昼近く、ルカが台所の方へ走っていった。
アイリスが菓子の匂いに釣られたルカを「ルカもダメ!」と追い返した。
シフォンは居間で日向を探して寝そべっていた。
吾輩は考え続けていた。
アイリスが喜ぶもの。アイリスの好きなもの。
吾輩はこの四ヶ月でアイリスのことを観察してきた。アイリスは歌が好きだ。よく鼻歌を歌いながら家事をする。花が好きだ。野原に出ると必ず一本は摘んでくる。それと——星が好きだ。夜、窓から星を眺めることがある。
星。
吾輩の頭の中で、何かが動いた。
魔力で、光を作ることはできる。小さな光の粒を、影から生み出すことが——今の回復量でも、できるかもしれない。
星のような光を、室内に浮かべる。
それは「贈り物」になるか。形がない。手に取れない。しかし——。
吾輩は試してみることにした。
夜になった。
ガリスが帰り、アイリスが作った菓子を三人で食べた。蜂蜜と木の実を練り込んだ素朴な菓子で、ガリスが「うまい」と言ったのを聞いてアイリスが嬉しそうにした。
ルカもシフォンも、菓子のかけらをひとつずつもらった。シフォンは食べたが、ルカは少し舐めて首を振った。甘いものは猫には向かないらしい。
夕食が終わり、ガリスが早めに寝室へ引き取った。
アイリスが一人、居間のテーブルに蝋燭を一本灯して、日記を書き始めた。
誕生日の夜の記録をしているのかもしれない。
シフォンがアイリスのそばに来て、テーブルの上に乗ろうとした。
「シフォン、テーブルはダメ」とアイリスがシフォンを下ろした。
シフォンが不満そうにアイリスの足元に座った。
吾輩は今だと思った。
静かな夜。アイリス一人。シフォンが静止している。
吾輩は魔力を集中させた。
影から、ごく細い糸のような魔力を引き出す。それを光に変換する——これは通常の闇の魔力の逆変換で、難しいが不可能ではない。吾輩はかつて、光の魔法陣を研究したことがあった。敵の魔法を解析するためだ。その知識が、今ここで役に立つとは思わなかった。
最初の一粒が、影の端から浮かび上がった。
小さな、青白い光の粒だ。豆粒ほどの大きさで、ほんのりと輝いている。
吾輩はそれを宙に固定した。消えないように、魔力の糸で繋ぎとめた。次の一粒を作った。また固定した。三粒、四粒——。
思ったより難しくなかった。いや、正確には消耗が大きいが、制御自体はうまくいっていた。
十粒、二十粒、三十粒——アイリスが気配に気づいて、顔を上げた。
部屋の中に、光の粒が浮かんでいた。
十粒。二十粒。三十粒——アイリスが目を丸くしている間も、吾輩は増やし続けた。
部屋の天井近くに、小さな星のような光が散らばった。揺れる蝋燭の灯りの中で、青白い光の粒が静かに浮かんでいた。
夜空の星を、部屋の中に持ち込んだような光景だった。
アイリスが、しばらく声を出せなかった。
テーブルの上の日記を閉じて、椅子ごと後ろに引いて、天井を見上げた。光の粒が、ゆっくりと揺れながら浮かんでいた。
「……なに、これ」
小さな声だった。
シフォンも上を見た。光の粒に気づいて、耳がぴんと立った。
「シフォン、あなたがやったの?」
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
アイリスがシフォンを見た。それから光を見た。
「誕生日に……?」
声が少し揺れていた。
泣いているのかと思ったが、違った。ただ、驚いていた。驚いて、どう言葉にすればいいかわからない顔をしていた。
「きれい」とアイリスが言った。
それだけだった。
しかしその一言が、吾輩の影の中に、静かに落ちた。
吾輩は光の粒を、もう少し増やした。五十粒。六十粒。部屋の天井が、小さな星空になった。
アイリスが椅子を引いて横になって、その光を見上げた。
「すごい……こんなのはじめて見た」
シフォンがアイリスのお腹の上に乗った。一緒に光を見上げた。
吾輩も見ていた。
自分が作った光を、誰かが「きれい」と言う場面を——吾輩はこれまで経験したことがなかった。
かつて吾輩が作るのは闇だった。恐怖だった。
支配だった。
それを見て誰かが「きれい」と言ったことは、一度もなかった。
今は——光を作った。
それをアイリスが見て、「きれい」と言った。
吾輩は、その違いを、静かに受け止めた。
光の粒は、一刻ほどで少しずつ薄くなった。
魔力を維持し続けるには消耗が大きかった。吾輩が限界に近づくにつれ、粒が一つ、また一つと消えていった。
アイリスはそれを見ていた。消えていくのを、黙って見ていた。
最後の一粒が消えた時、部屋は蝋燭一本の灯りだけになった。
「消えちゃった」とアイリスが言った。
「でも——」
少し間があった。
「ありがとう、シフォン」
シフォンが「ミャア」と答えた。
アイリスがシフォンを抱き上げて、頬に顔を埋めた。
「ほんとに、ありがとう」
吾輩は何も言えなかった。影だから。
しかし——その「ありがとう」が、少しだけ吾輩に向けられている気がした。
証拠はない。アイリスはシフォンに言ったのだから。
しかし、そう感じた。
その夜遅く、シフォンが寝静まってから、吾輩は今夜のことを振り返った。
闇の魔力を、光に変換する。それは吾輩には反することのように思えた。吾輩は闇だ。光は勇者ライオスの領分だ。吾輩が光を作るなど、本来おかしな話だ。
しかし今夜、吾輩は光を作った。
アイリスが「きれい」と言った。
「ありがとう」と言った。
それが——悪くなかった。
むしろ——吾輩の中で何かが満たされたような感覚があった。征服した城に立った時の高揚感とは全く違う。もっと静かで、もっと小さく、しかし確かに何かが満たされた。
吾輩は、その感情をうまく名付けられないまま、ただ確認した。
闇の魔力で光を作れること。
アイリスが星が好きなこと。
そして今夜——吾輩が誰かのために、初めて何かを作ったこと。
それは事実だった。
シフォンの喉の音が、静かに続いていた。
吾輩はその音を聞きながら、今夜はもう眠ることにした。意識を、静かに休めた。




