第16話:魔族の残党②
ゾグとリルが村に来て、二日目の朝だった。
二人は宿屋に泊まり、村人には「遠方からの巡礼者」として通っていた。ベルンが「聖獣様を訪ねて遠くから来られた方だ」と説明してくれたおかげで、不審がる者は少なくなっていた。外套を深く被れば、肌の色や耳の形は隠せる。
朝食を終えたシフォンが、例によって散歩に出た。
村の広場を横切り、宿屋の前に差し掛かった時——扉が開いて、ゾグが出てきた。
二人は正面から鉢合わせた。
「魔王様」とゾグが小声で言いながら素早く周囲を確認し、人気のない方向へ歩き出した。
「少しよろしいですか」
シフォンは特に断る理由もなく、ゾグの後をついて歩いた。
吾輩も引きずられた。
村外れの、人通りのない石壁の陰でゾグが立ち止まった。リルもいつの間にか合流していた。
「魔王様」とゾグが言った。改まった声だった。
「昨日はご無礼を申しました。突然押しかけて」
吾輩は意思を送った。
「構わん。それで、用件は」
「はい」ゾグが背を正した。
「単刀直入に申し上げます。魔王様、共に世界を征服しましょう」
言った。
言ってしまった。
吾輩は一瞬、返事に詰まった。
世界を征服する。それは吾輩の目標だ。ゾグの言葉は正しい。正しいはずだ。
「現在、大陸各地に残党が潜伏しています」とゾグが続けた。
「ゆっくりと力を蓄えております。魔王様が号令をかけてくだされば、すぐにでも——」
シフォンが欠伸をした。
大きな欠伸で、口の中まで見えた。
ゾグの言葉が途切れた。
「……聖獣様?」
シフォンは欠伸を終えて、あたりを見回した。
石壁の向こう、日当たりのいい場所に、枯れ草が積み重なって暖かそうな一角があった。
シフォンがそちらへ歩き出した。
吾輩は引きずられた。
枯れ草の上にシフォンが到着した。くるりと一回転して、丸まった。
寝た。
ゾグとリルが、ぽかんとした顔でシフォンを見ていた。
吾輩は何も言えなかった。
「……魔王様」とゾグがおそるおそる声をかけた。
シフォンはすでに寝息を立て始めていた。
「魔王様、あの、世界征服のお話が」
シフォンは寝ていた。
「号令を、かけていただければ、残党が——」
シフォンは深く、安らかに眠っていた。
ゾグとリルが顔を見合わせた。
「……寝てしまわれた」
「そのようだ」
「世界征服の話の最中に」
「そのようだ」
二人の間に、しんとした沈黙が流れた。
リルが小声で言った。
「あの……もしかして、魔王様はまだ本調子ではないのでしょうか。魂が影にあって、力を蓄えている最中で、お疲れが」
「そうかもしれない」とゾグが言った。しかし目は確信なさそうだった。
吾輩は影の中で、どう説明すればいいかを考えていた。
説明のしようがなかった。シフォンは気持ちいい場所を見つけて寝ただけだ。世界征服と日向の枯れ草を天秤にかけたわけでもない。ただ、眠かっただけだ。
しかし——吾輩も、返事をしなかった。
シフォンが欠伸をした瞬間、吾輩は返答を止めた。止めさせられた、とも言える。しかし止めた後で、吾輩は改めて考えていた。
世界を征服する。そのために今ここで号令をかけるべきか。
魔力は二割五分まで回復した。残党が各地に潜伏している。今動けば再起動の足がかりになる。
しかし——勇者ライオスが近くにいる。
そして——アイリスの家がある。シフォンの帰る場所がある。吾輩が帰ると感じる場所が、ある。
今動けば、それが——。
吾輩はその思考の先を、強制的に切り上げた。
「魔王様」とリルが小声で言った。
「何かお考えがあるのですか」
吾輩は意思を送った。
「今は動けない。ライオスが近い。もう少し待て」
「……はい」とゾグが深く頷いた。
「わかりました。いつまでも、魔王様のご指示をお待ちします」
いつまでも。その言葉にゾグの声が少し揺れた。半年間待ち続けた者の言葉だった。
二人が頭を下げた。
シフォンは枯れ草の上で、丸まったまま穏やかに寝ていた。
吾輩は「もう少し待て」という言葉の意味を、自分でも確認していた。
それは本当に、ライオスへの警戒だけが理由なのか。
答えは、出なかった。
その日の昼過ぎ、村にまた動きがあった。
街道から馬の蹄の音がして、一人の騎馬が村の入り口に現れた。
村人が集まった。吾輩も気配を探った。
人間だ。成人男性。魔力は持っていないが、体の鍛え方が常人ではない。武器を携帯している。旅装束だが、その下に軽鎧を着ている。
村人の誰かが声を上げた。
「あれ……もしかして、勇者様じゃないか?」
吾輩はぴくりとした。
騎馬の男が馬から降りた。金髪。傷の残る顔。澄んだ目。
ライオスだった。
予定より早い来訪だった。
シフォンはまだ、枯れ草の上で寝ていた。
ゾグとリルが、石壁の陰から事態を察知した。二人の気配が、一瞬で緊張した。
吾輩は素早く二人に意思を送った。
「動くな。今すぐ宿屋に戻れ。外に出るな」
二人が音もなく後退した。よく訓練された動きだった。
シフォンが——目を覚ました。
何かの気配を感じたのかもしれない。ライオスの持つ「光の力」は、魔力とは質が違うが、強大な力であることに変わりない。シフォンの感覚がそれを捉えたのだろう。
シフォンが立ち上がり、枯れ草の一角から出て、広場の方を見た。
ライオスが広場に入ってきた。
村人に囲まれながら、しかし視線はゆっくりと村全体を見回していた。探っている目だ。
「何か」を探している。
その目が——シフォンの方を向いた。
シフォンとライオスの目が合った。
吾輩は、影の気配を限界まで薄くした。魔力の遮断。形の固定。ただの猫の影として、完全に溶け込む。
ライオスが、シフォンの方へ歩いてきた。
一歩、二歩。
シフォンは逃げなかった。ただ、金色の目でライオスを見上げた。
ライオスがシフォンの前に立った。
しゃがんだ。目線をシフォンに合わせた。
それから——シフォンの影を、見た。
吾輩は息を呑んだ。影に息はないが、概念として。
ライオスの目が、影の上で止まった。
一秒。二秒。三秒。
ライオスが視線を上げ、シフォンの顔を見た。
シフォンが「ミャア」と鳴いた。
ライオスが、少し笑った。
「……かわいいな」
それだけ言って、立ち上がった。
村人に向き直り「ベルン神父はどこですか」と尋ねた。
吾輩はその場で、長い息をついた。
今は気づかれなかった。しかしライオスの目が影で止まったあの三秒間——あれは偶然ではない気がした。ライオスは鋭い。かつての戦いを思い出す。あの直感と観察眼は本物だ。完璧に偽装したつもりでも、何かを感じ取っている可能性がある。
油断は禁物だ。
シフォンが「ミャア」とまた鳴いた。
ライオスの背中を見ながら。
吾輩には何を言っているかわからなかった。
その夜、ゾグとリルが宿屋を発った。
目立たないうちに村を離れる判断だ。吾輩が促したわけではなく、二人が自分で動いた。さすが元精鋭部隊の生き残りだと思った。
発つ前に、ゾグが村外れで吾輩に意思を送ってきた。
「魔王様。また連絡の手段を考えます。ご無事で」
吾輩は返した。
「お前たちもな」
短い別れだった。
二人が夜の街道に消えていく気配を、吾輩は薄くなるまで追っていた。
かつての配下が、また散り散りになっていく。
吾輩はその感覚を、どう呼べばいいかわからなかった。寂しい、という言葉は吾輩には似合わない。しかし何かはあった。確かに、何かが。
シフォンが鳴いた。台所の方から。食べ物の要求だ。
吾輩は影から腕を出して、干し魚をほぐし、バターをほんの少しだけ塗って、魔力で加熱した。
シフォンが食べた。
吾輩はその音を聞きながら今夜のことを整理した。ライオスが来た。気づかれなかった。ゾグとリルは去った。明日からまた、静かな日常が始まる。
それで、いい。今は、それで、いい。
シフォンが食べ終わって、吾輩の影の上にどさりと座った。ごろごろと喉を鳴らした。
吾輩はその音を聞きながら、しばらく何も考えなかった。




