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番外編:公務中の無自覚色気 リオネルside

 王国の心臓部とも言える魔法省の廊下を歩きながら、オレは深大なため息を吐き出した。

 王国騎士団部隊長という肩書きを持つオレ、リオネル・ヴァレンティーヌが、わざわざ管轄外であるこの魔法省まで足を運んだのには理由がある。


 来月行われる建国祭における、王都の合同警備配置図の最終確認。

 本来なら文官同士でやり取りさせれば済む話なのだが、今回の警備は魔法省と騎士団の連携が不可欠であり、魔法省側の責任者が「彼」である以上、直接オレが出向くしかなかったのだ。


 魔法省副長官、レインハルト・イル・ヴァルテンベルク公爵。

 誰もが認める若き才物であり、頭脳明晰かつ冷徹な貴公子。

 オレは王立学園時代の三つ下の後輩にあたり、彼とはそれなりに付き合いが長いが、つい先日、公爵邸を訪れた際の出来事を思い出すだけで頭が痛くなる。


 オレは伯爵家出身で一般の普通科、対してレインハルト様は公爵家の嫡男でエリート集団の魔法専科。

 学生時代から明確な身分と才能の格差があり、正直なところ今でも彼を前にすると少しビビってしまうのだ。

 旧知の仲として、そして建前上は職務上の挨拶としてシャルロットに一目会おうとしただけなのに、彼は「必要ない」の一点張りで、オレを別館の入り口にすら近づけなかったのだ。


 自分の妻を他の男の目に触れさせることすら嫌がる、あの独占欲の塊。

 そんな彼がトップに君臨する執務室へ向かうのだから、足取りが重くなるのも無理はない。





 重厚な両開きの扉の前に立ち、短くノックをしてから執務室へと足を踏み入れた。

 瞬間、部屋の中に充満している異様な空気に、オレは思わず顔をしかめそうになった。


 広い執務室の中には、レインハルト様の他に数名の官吏たちが詰め、山積みになった書類の束と格闘している。

 一見すれば、国の根幹を支える魔法省の中枢にふさわしい、緊張感のある執務風景だ。

 だが、その空間のどこかから、息が詰まるような、ねっとりと甘く、それでいてひどく危険な空気が漏れ出しているのだ。

 その発生源は言うまでもない。


 部屋の最奥、副長官のデスクに座り、優雅にペンを走らせているレインハルト様本人である。

 相変わらず隙のない完璧な軍服姿で、漆黒の夜空のような髪を僅かに揺らしながら書類に目を通す姿は、一枚の絵画のように美しい。

 だが、オレのような武を極めようとし、他人の気配に敏感な者であれば一瞬で気づく。


 今の彼から漏れ出ているのは、ただの威圧感ではない。

 強烈な「色気」とでも呼ぶべき、ひどく生々しい情動の欠片だった。


「……したがって、西区画の魔導具の配置に関しましては、例年通りの規模で……あ、あの……」


 静まり返った室内で、一人の若い女性官吏が彼のデスクの前で報告を行っていた。

 彼女は新人のようで、ただでさえ美しく冷徹で近寄りがたいと恐れられる副長官を前に、ひどく緊張しているのが見て取れた。

 手にした書類は微かに震え、上ずった声で懸命に説明を続けていたが、ついにプレッシャーに耐えきれなくなったのか、盛大に言葉を噛んでしまった。


「そ、その、魔導具の、しゅ、出力調整の件でしゅがっ……!」


 やらかした、という絶望の色が女性官吏の顔に浮かぶ。

 すぐ背後にいた文官たちも憐れむような視線を彼女に向け、次の瞬間に降ってくるであろう冷たい叱責を予想して身をすくませていた。

 しかし。


「落ち着いて。君の報告はよくまとまっている。順番に話せばいい」


 静かな執務室に響いたのは怒声でも冷笑でもない。

 ひどく低く、落ち着いた、鼓膜を優しく震わせるような甘いバリトンボイスだった。


 レインハルト様は手にしていたペンを静かに置くと、怯える女性官吏の顔を真っ直ぐに見つめた。

 ただそれだけの、ごく当たり前の業務的な言葉だった。


 だが、その声のトーンと、一切の否定を含まない肯定の言葉。

 何より、あの冷徹なはずの金色の瞳が、信じられないほど穏やかな光を湛えて彼女を見つめているのだ。

 この男は女性官吏が緊張のあまり手の中でぐしゃりと握り潰しかけていた書類をそっと受け取ると、長い指で綺麗に端を整え、再び彼女の手へと優しく返し入れた。


「深呼吸をして。続きを聞こう」


 その瞬間、女性官吏の顔が文字通りボフッという音が聞こえそうなほどの勢いで真っ赤に染め上がった。


 無理もない。

 王都でも指折りの美貌を持つ、理知的で有能で近寄りがたい雲の上の上司。


 その彼が自分のミスを責めず、真っ直ぐに目を見つめ、低い声で優しく労わり、あまつさえ指先が触れ合うほどの距離で書類を整えて渡してくれたのだ。

 強烈なギャップと、無自覚に振りまかれる極上の色気に若い女性があてられないはずがない。

 彼女は完全に目を潤ませ、熱に浮かされたように「は、はいっ……!」と頷き、報告を再開した。


 だが。

 部屋の隅からその光景を眺めていたオレは、女性官吏とは全く別の意味で鳥肌が立っていた。

 周囲にいる男性魔導師たちを見てみると彼らもまた、顔を真っ青にして滝のような冷や汗を流している。

 彼らは理解しているのだ。

 本能で察知しているのだ。

 あれは決して、部下の女性に対する優しさでも、大人の男としての余裕でもないということを。


(早く帰りたい……早く帰ってシャルを抱きたい。今すぐあの柔らかい肌に触れたい、泣いてすがるまできつく抱きしめたい……)


 オレにはレインハルト様の瞳の奥で渦巻いているその狂った本音の文字が、はっきりと読み取れていた。


 そうなのだ。

 この男は今、頭の先からつま先まで愛する妻への果てしない欲情で満たされている。

 溜まりに溜まったその重く昏い欲望を公務中という理性で必死に押さえ込んでいる結果、それが抑えきれない色気や熱となって周囲にダダ漏れになっているだけなのだ。


 彼が女性官吏を怒らなかったのも「優しい」からではない。

 ここで怒ったり叱責したりすれば余計に時間がかかり、愛する妻の待つ家に帰るのが遅くなるからだ。

 真っ直ぐに見つめた瞳が穏やかだったのは相手の顔など全く見ておらず、脳内でシャルロットの泣き顔でも妄想していたからに違いない。


 周囲の男たちはその「発情した肉食獣」が撒き散らす危険なフェロモンと、いつ理性が決壊して理不尽な被害を被るか分からない恐怖に怯え、うわぁ……と顔を引きつらせているのだ。

 そんなこととは露知らず、勘違いしたまま頬を染めて乙女の顔になっている女性官吏が、不憫でならない。

 本当に、手のつけられない男だ。


 報告を終え、夢見心地のままフラフラと去っていく女性官吏を見送った後、オレはようやくレインハルト様のデスクへと歩み寄った。


「……お疲れ様です、相変わらずお忙しそうですね、副長官殿」

「……リオネルか。何の用かな」


 オレの顔を見た瞬間、彼の顔から先ほどの「優しげな上司」の仮面が剥がれ落ち、無機質な微笑へと戻った。

 脳内の甘い妄想を邪魔された不愉快さが、その低い声にありありと滲み出ている。

 オレは内心でやれやれと肩をすくめながら、持参した分厚い書類の束をデスクの上にそっと置いた。


「建国祭の警備配置図です。魔法省の最終承認をいただきに参りました」

「すぐ確認しよう」


 彼は書類を素早く引き寄せると、信じられないほどの速さで目を通し始めた。

 少しでも早く仕事を片付けて帰宅したいという執念が、そのペン捌きを常人の三倍ほどの速度に引き上げている。


(学生時代となんも変わってねぇな、このお方は……)


 オレは無駄に美しい横顔で恐ろしい速度で書類を処理していく三つ上の先輩を見下ろしながら、心の中で深くため息をついた。


(もしシャルロットがこの場にいれば、間違いなく嫉妬していただろうな)


 純粋な彼女はレインハルト様の腹の底で渦巻いているど黒い情欲など露ほども気づかない。

 ただ表面上の事実として、「自分の夫が他の女性を真っ直ぐ見つめ、優しく語りかけ、相手が頬を赤らめている」という光景だけを受け取り、胸を痛めてしまうに違いないのだ。


 夫の頭の中が自分への執着と欲望だけで埋め尽くされているなどと知らずに、勘違いでハラハラしてしまう彼女の姿が目に浮かぶ。

 この男の重すぎる愛情も考えものだが、ある意味で平和な別館の中にいる方が、彼女の精神衛生上は良いのかもしれない。


「終わった。修正点は朱筆で入れてある、持って帰りなさい」

「……相変わらずお早いですね。助かります」


 オレは修正済みの書類を引きつった笑顔で受け取ると、早々に踵を返した。

 これ以上、この狂犬の発情期のような空間に長居したくはない。


「では、失礼いたします。奥様にもよろしくお伝えください」


 去り際に少しだけ意趣返しのようにそう告げると、背後から「妻に興味を持つな」という氷のように冷たく、そして鋭い殺気が飛んできた。

 オレは背中でそれにビクッと震えながらも、足早に魔法省の執務室を逃げるように後にした。


「はあ……」


 外の空気が、やけに澄んで美味しく感じられた。






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