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番外編:秘薬がもたらす下剋上

 夜の帳が下りた、静かな執務室での出来事でした。

 レインハルト様は、先日摘発した密輸組織から押収したという、怪しげな魔法薬の数々を机に広げて検分しておられました。


 わたしは温かい紅茶を淹れ、お疲れ気味の愛しい夫の労をねぎらおうと部屋を訪れたのです。

 「シャルロット、危ないからあまり近づかないように」と注意されたにもかかわらず、手元が狂ってしまったのは全くの偶然でした。


 ティーカップを置こうとした際、わたしのドレスの袖口が机の上の小さな小瓶に引っかかってしまったのです。

 パリンという甲高い音と共に、床に落ちたガラス瓶が砕け散りました。


 中から立ち昇ったのは、ひどく甘く、むせ返るような濃密な薔薇の香りがするピンク色の煙です。


「いけない!吸い込まないで!」

「あっ、えっ……!?」


 レインハルト様の切羽詰まった声も虚しく、わたしはその煙を思い切り吸い込んでしまいました。


 その瞬間、頭の芯がカッと熱くなり、全身の血が沸騰するような強烈な熱波が駆け巡りました。

 視界がチカチカと点滅し、立っていられずにその場にへたり込みそうになります。


「シャル!大丈夫か、すぐに解毒薬を……」


 血相を変えて駆け寄り、わたしを抱き起こそうとする夫の大きな手が肩に触れました。

 いつもならその温もりと力強さに心から安堵し、身を委ねて甘えてしまうはずなのですが。


 しかし、その時のわたしは全く別の、恐ろしいほどの衝動に支配されていました。


(ああ……この余裕に満ちた端正な顔を、ぐちゃぐちゃに歪ませてみたい)


 胸の奥底から湧き上がってきたのは、黒く、ねっとりとした暴力的なまでの支配欲でした。

 わたしはゆっくりと顔を上げ、心配そうにこちらを覗き込む金色の瞳を、真っ直ぐに射抜きました。


「……レインハルト様」

「シャル?気分が悪いのかい?顔がひどく赤いが……」

「黙って、そこに座りなさい」


 自分の口から出たとは思えないほど、低く、冷たく、そして絶対的な命令を含んだ声でした。

 当代公爵として誰かに命令されることなどない彼が、一瞬だけ目を丸くして固まりました。


「シャルロット……?君、その薬のせいで……」

「聞こえませんでしたの?椅子に座りなさいと申し上げたのです」


 わたしは彼の胸ぐらを乱暴に掴み、そのまま強引に執務用の大きな革張りの椅子へと押し倒しました。

 屈強な彼がたおやかなわたしに押し倒されるなど、本来ならあり得ないことです。

 しかし、あまりの予想外な出来事に虚を突かれたことと、わたしに怪我をさせまいとする彼の無意識の配慮が働き、彼はあっさりと椅子に深く腰を下ろす形になりました。


 わたしはレインハルト様の上に跨るようにして乗り、両手で彼の広い肩を押さえつけました。


「……なるほど。押収品の中に混ざっていた『女王の媚薬』か。使用者の支配欲を暴走させ、相手を服従させたくなるという……」

「べらべらと喋らないでくださいませ。今はわたしが主人の時間ですわ」


 わたしは彼の言葉を遮るように、その薄い唇を塞ぎました。

 いつも彼から与えられるばかりの、甘く優しい口付けではありません。


 その強引で熱っぽい口付けに、彼の喉の奥から普段決して聞くことのできない艶っぽい声が漏れました。

 その声を聞いた瞬間、わたしの中の支配欲が完全に目覚め、歓喜に打ち震えました。


「ふふっ……いい声。いつもわたしに聞かせているように、もっと乱れた声を聞かせてくださいな」

「シャル、君は今、薬に酔っているだけだ。明日の朝になって後悔するぞ……」

「生意気なお口ですわね。お仕置きが必要ですわ」


 わたしは彼の襟元を乱し、その整った執務姿を崩していきました。

 現れた逞しい胸元と、昨夜の名残を思わせる淡い痕。

 いつもなら愛おしげに触れるそこを、今夜のわたしは容赦なく爪を立てました。


「くっ……!シャル、痛い……が、悪くない……」

「大人しくしていなさい。わたしが許可するまで、決してわたしに触れてはなりませんよ」

「……それは、あまりにも酷な命令だな」


 レインハルト様は苦笑しながらも、椅子の肘掛けを強く握りしめ、言われた通りに抵抗を諦めました。

 彼の中に密かに潜む被虐的な部分が刺激されたのか、あるいは狂気に染まった妻の新たな一面に、彼自身の欲望が火をつけられたのかはわかりません。

 その金色の瞳は、普段の冷静さを完全に失い、熱っぽく潤んでわたしを見上げていました。


「さあ、わたしを褒め称えなさい!そして、触れてほしいと惨めに懇願するのです!」

「……ああ、僕の気高き女王。君は誰よりも美しい。お願いだ、どうか僕を好きに壊してくれ。君の足蹴にされるなら本望だ……!」


 大国の要であり、外向きには冷徹な公爵閣下が、わたしの腕の中で顔を赤く染め、次の命令を待っているのです。

 その絶対的な下克上の状況に、わたしの脳髄は痺れるような悦びで満たされました。


「よろしい。では、わたしの肩を揉みなさい!」

「……えっ?」

「えっ、ではありませんわ!女王の肩が凝っているのです、全力でほぐしなさい!」

「は、はい……喜んで……っ」


 その夜の執務室は完全にわたしの独壇場でした。

 彼が熱っぽい声を上げるたび、わたしは「次は足の裏を踏みなさい!」「わたしの美しさを即興の詩で百文字以上で褒めなさい!」と、ただの理不尽な命令を下し続けました。


 「もう許して、頼むからキスをしてくれ」と泣き言を漏らす夫の姿が可哀想で、そしてたまらなく可愛くて、その夜のわたしは彼を散々振り回してしまったのです。





 ……そして、翌朝。

 小鳥のさえずりで目を覚ましたわたしは、太陽の光と共に完全に薬の効果が切れていることに気がつきました。

 頭の中に鮮明に蘇ってくるのは、昨夜自分がやらかした、あまりにも恥知らずで理不尽な所業の数々です。


「ひっ……!」


 息を呑んで隣を見ると、そこにはシャツがズタズタになり、なぜか自分のネクタイで両手を緩く縛られ、顔中私の口紅だらけにされた夫が、満足そうに微笑んで横たわっていました。

 わたしは顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、大きなソファーから這い出して逃げ出そうとしました。


 しかし、ガシッと強靭な腕がわたしの腰を捕らえ、そのままクッションの上へと乱暴に引きずり戻されてしまいます。

 いつの間に解いたのか、ネクタイはすでに彼の腕から外れ、床に落ちていました。


「おはよう、僕の気高き女王陛下」

「レ、レインハルト様!ち、違うのです!あれは薬のせいで、わ、わたしは決してあのようなはしたない真似を……!」

「言い訳は聞かないよ。君は一晩中、僕を散々弄んでくれたからね」


レインハルト様の瞳が、普段の昏い独占欲を孕んだ光を取り戻し、獲物を狙う肉食獣のように細められました。

 昨夜わたしに泣かされていた可憐な夫の姿は、そこにはもう欠片もありません。


「本当に素晴らしい夜だった。君のあんな激しい一面を見られたのだからね。僕の新しい扉がいくつも開いてしまったよ。……さて、シャルロット」

「ひゃっ……」

「昨夜の分、今度は僕がたっぷりとお返しをさせてもらうよ。今日は一日、君が恥ずかしくて顔を上げられなくなるくらい、たくさん愛してあげる」


 逃げ場など最初からどこにもありませんでした。


 秘薬がもたらした一夜の天下は儚く散り、わたしは再び愛する夫の重すぎる愛情に包まれながら、顔を真っ赤にしてその報復を受ける羽目になったのです。









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