児童館おばさん
児童館みたいな匂いがする、おばさんがいた。
子供の頃に嗅いだけど、なにと類似していて、どこから発生しているのかも分からない、あの匂いだ。
おばさん曰く、おばさんは「児童館そのもの」なのだという。
俺は返事をしなかった。
すると、おばさんは垂れ目を細めながら、茶色のブラウスのボタンを開け、自分の胸元をパッと広げてみせた。
俺は咄嗟に目を背けようとしたが、否が応にも視界に入ったそこには、なんとブラジャーどころか、乳房すら存在しなかった。
完全な、肌色の平面。
代わりと言っていいか分からないが、本来彼女の胸や腹があるはずの空間には、ひとつの扉が嵌っていた。
銀の取っ手がついた、クリーム色の扉だ。
おばさんの鎖骨の下辺りから、大体臍の上ぐらいまでの範囲に、両開きの扉が埋まっている。
俺は呆気にとられて固まった。
よれた質感の肌の上に、扉が当たり前のような顔をしてくっついているのを、ただポカンと見つめていた。
そんな俺を尻目に、おばさんは自ら取っ手に手をかけると、微笑みを浮かべたまま、その扉をゆっくりと解放していった。
少しずつ開き始めた扉からは、淡い光が漏れていて、その向こう側からは、なにやら甲高い声が聞こえてくる。
ああ、子供だ。
扉が完全に開き切った時、やはりそこは数多くの子供で溢れていて、めいめいそこら中を走り回っていた。
おばさんの体内は、児童館だった。
野球のバットを振り回している男の子がいて、一輪車に乗っている女の子や、縄跳びをしている子がいる。
つやつやした木目の床に、たくさんの足跡が残っては、一瞬で別のものに上書きされていく。
滑り台やボールや、机なんかがごちゃごちゃに置かれている広場の奥には、ずらりと本棚が並んでいて、中にはぎっしりと漫画が詰まっていた。
何人もの子供が何年もかけて読んだらしく、どの漫画もページはよれて、ところどころ黄色っぽいシミがついている。
俺は、まさしく夢の中に迷い込んだような気分になった。
ここでの俺はアリスで、おばさんは時計を持った白ウサギであり、同時に不思議の国に通じる穴でもあった。
彼女は取っ手を掴んで、自分の体内を開陳したまま、目尻にぎゅっと皺を寄せて笑っている。
児童館の中は、眩しかった。
俺は、失っていたはずの、いま味わうはずのなかった郷愁を胸の内に感じると、思わず涙が出そうになった。
将来や不安という概念のない、純真であることを自覚していなかった純真なあの頃に、無理だと分かっていても、立ち返りたい気分だった。
ああ。
距離という概念の適用できない、記憶や、体験や、美化された想像が、いま目の前にある。
目を見開いて、おばさんの体内を凝視していた俺は、気づけば、そこに向かって右腕を伸ばしていた。
幼さという過去の楽園の中では、自分という存在が異分子だと知っていても、どうしてもそこに近づきたかった。
扉から漏れ出す、柔らかな光の淵に、ほんの先っぽだけ指が触れる。
すると、頭がぐわんと揺れたかと思うと、身体が急速に引っ張られるような感覚がして。
するん。
あっという間に、俺は児童館に吸い込まれてしまった。
ストローを昇るタピオカのように、排水溝に消える髪の毛のように、ほんの一瞬の合間に、綺麗さっぱり消えてしまった。
俺が完全に吸い込まれたことを確認すると、おばさんはうんうん、と頷いて、再び扉の取っ手に力を加えた。
緩慢な動きで、クリーム色の扉が閉まっていく。
淡い光は消え、鼠のような子供たちの声も消えた。
おばさんからは、相変わらず児童館の匂いがした。




