第一章 苦り虫
ここは真言坊。戸板神社の宿坊である。
「苦り虫が入り込んだね。」
蒼が顔を近づけてそっとつぶやく。
「ああ、久しぶりの獲物だね。まあ、大した金にはならないが。」
紅が首を鳴らしながら答えた。
その日の晩丑三つ時、フロントの鐘がゴーンゴーンと鳴るのを待っていたかのように
客室から壁伝いに黒い影が伸びてきた。
影は伸び縮みをしながら、壁を這っていく。
向かった先は調理場だ。
黒い影が調理場に入ったとたん、暗闇の中に4つの目が光った。
途端に黒い影が逃げようと廊下に引き下がった瞬間、5センチはあろう黄色く変色した鋭い爪が影を壁に突き刺した。影は逃れようと伸び縮みしてもがいていたが、そのうちには力尽き、大人しくなった。
電気がパチンとついた。
蒼が爪の先に黒いスライムのようなものをぶら下げている。
「小物だったな。」
紅が物差しで大きさを計り、
「10センチか。こりゃあ五千円てところか。」
と残念そうに言った。
黒いスライムのようなものは蒼の爪先からペットボトルにスルっと入れられ、しっかりと
蓋が閉められた。
翌朝の食事時。
「おはようございます。佐々木様のお席はこちらになります。」
軽く会釈をしながら紅が誘導する。
ここ真言坊は部屋数2部屋のこじんまりとした宿だ。食事処も部屋ごとに一部屋ずつ用意されている。客同士が顔を合わせることが少なくプライバシーが守られ、静かで落ち着くと好評だ。
食事の席には既におおかたの料理が用意されている。
そこへ紅がみそ汁と飲み物を運んできた。
「お待たせいたしました。こちらがきのこの具沢山みそ汁とイチジクと桃が入ったスムージーでございます。」
そう言って、客の膳に並べた。
「お茶とご飯はこちらになりますので、お好きなだけお召し上がりください。」
「まあ、どれも美味しそうだこと。ねえ、お父さん。」
奥さんが嬉しそうにつぶやくと、
「そうだな、鮎の甘露煮もある。これ、好きなんだよ。」
と、夫も弾んだ声で言った。
昨日この夫婦が宿に来た時、夫の眉間にはしわが寄っていた。紅と蒼は気難しいそうな客が来たなと思っていた。ところが今朝の夫は眉間のしわが取れ、穏やかそうな顔になっている。
「お前の好きなだし巻き卵もあるな。」
夫がそう言うと、奥さんは顔を少しゆがませ、あわてておしぼりを目にあてた。
紅は消えるようにその場を後にした。
おおかたの想像はつく。昨夜捕まえた“苦り虫”だ。
苦り虫は人間の負の部分を好む。憑かれたものは不安やいら立ちが増し、暗くなったり、周囲に当たり散らしたすようになる。
この夫も苦り虫のせいで奥さんに八つ当たりでもしていたか、いつも不機嫌だったか、そんなところだろう。昨夜“苦り虫”が出て行ったので、元の夫に戻り奥さんはうれし涙を流した、というところだ。
紅が調理場に戻ってくると、
「どうだった。」
蒼が様子を聞いてきた。
「思った通りだよ。奥さん、泣いてた。」
「そうか。元に戻って良かったな。」
手で鼻をこすりながら、蒼は少し嬉しそうだ。
食事後、佐々木夫妻はゆっくりと朝風呂に入り夫婦水入らずの時間を過ごした。
「チェックアウトをお願いします。」
フロントに立つ奥さんは、ここに来た時よりもハツラツとしている。
「夕食時に飲み物のご注文をいただきましたので、合算いたしましてお会計は54,000円になります。」
「お料理も手の込んだもので、何よりとても静かに過ごさせてもらって、本当に良かったわ。お世話になってありがとうございました。」
奥さんはしみじみとお礼を言い頭を下げた。夫も後ろで一礼した。
「何よりのお言葉ありがとうございます。お料理も気に入っていただけたようで良かったです。料理人にも伝えます。」
紅と蒼も笑みを浮かべて一礼した。
佐々木夫妻は車に乗り込むと、窓を開け、軽く会釈をして帰っていった。
「良いお客様だったな。」
蒼は口角を上げながらそう言った。
「少しはお役にたてたかな。」
紅は昨夜の苦り虫のことを思い出していた。
この二人、実は人間ではない。
御年約1400才になる赤鬼と青鬼なのだ。
戸板神社が創建された当時、神社の影、陰の存在として二人はこの地に降り立った。
それ以来、戸板神社の影となり戸板神社を守ってきたのである。
真言坊が建てられたのは、今から約千年前。戸板神社の奥に部屋数二つの小さな宿坊が造られた。そこは神職が神域に入る前に身を清めるための場所であり、宮司や禰宜専用の宿坊だったが、近年になって一般客を受け入れるようになった。
紅が女将、蒼が中居としてここで働きながら、戸板神社の安寧を護持している。
これからこの二人の働きぶりを、御覧いただこう。




