2.父親と医師
(あら……?お父様が銀色の薔薇を着けていらっしゃるわ)
ある日の朝食のことです。
マユンは、子爵が胸元に銀色の薔薇を着けていることに気付きました。小さな蕾のような薔薇の意匠です。
(ここは外ではなく屋敷の中ですから、きっと薔薇の話をしても大丈夫でしょう)
マユンはそう思いました。マユンは父親の言いつけをきちんと覚えていましたから。
「ねえお父様。お父様も銀色の薔薇を買ったのですね!?その薔薇はどこに売っておりましたの?」
子爵は怪訝な顔をして、しばらく考え、ハッとした顔をしました。
「マユン、あとで私の書斎に来てください」
いつにも増して真剣な顔です。それに、いつもよりずっと話しかけにくいような雰囲気を醸し出しています。
(なんだか少しピリピリしていらっしゃるような……?)
朝食が終わり、マユンが子爵の書斎に行くと、彼は困った顔で聞きました。
「マユン、銀色の薔薇が見えるようになったのはいつからですか?」
「ハッキリとは覚えておりませんの……。おそらく1年ほど前からだと思いますけれど」
「その薔薇の話は、私が許可した時以外にはしないようにしてください。思い過ごしだといいのですが……。そうでなければ、もしかしたら、見える条件が少し分かったかもしれません。でも、その条件は周囲に気付かれてしまうと問題になってしまうかもしれませんから……。知り合いの医師に聞いてみましょう」
「はい、お父様」
(条件?何が原因で見えているのかお父様はお分かりになられたのかしら……。問題になってしまうような条件?何かしら……?)
マユンは素直に頷きました。
(もしかしたら、あの銀色の薔薇は本当に私にしか見えていないのかもしれませんわね……)
その数日後、マユンは子爵に伴われ、彼の知り合いの医師がいるという治療院へ向かいました。彼は、タイトと名乗りました。
マユンは一目で彼を気に入りました。
(まあ!髪の色が薄い青色で素敵ですわね!目の色はまるで海のような深い青。上級貴族の方でしょうか?お顔もとても美しくていらっしゃるし、背だってお父様より高いですわ……!)
タイトはマユンの父親と同じ学園を卒業した同学年の学友同士だったのですが、そんな年齢には見えないほど若々しく、見た目だけであればただの美しい青年でした。
「いいですか、マユン様。これから私は患者を診察します。しかし、私たちには守秘義務というものがあるのです。ですから、ここで知り得た他人の病気や、ここで会ったり聞いたりした人の名前や話を、外でも決して話してはいけませんよ」
マユンは頷きました。
「本来ならばここに資格を持った方以外を同席させることはありません。でも、あなたの状況を知るために、今日は少し離れたところから患者を見ていていただきます。魔道具の障壁によって、話はおそらくほとんど聞こえないと思いますし……」
タイトは高価そうな魔道具を診察室の一部に設置しているようでした。その魔道具は、どうやら固定型で、まるで魔灯のスイッチのオンオフのように、透明な障壁を設置でき、音を聞こえにくくすることができたのです。
「胸元に銀色の薔薇が見える人がいたら、この紙に特徴や絵を書いて、後で私に渡してください。あなたは絵が上手だと聞いていますからね」
(あら。確かに絵は褒めていただけることが多いですわね……!お父様がお話しになったのかしら?)
マユンは少し笑顔になりました。タイトは続けました。
「そして、薔薇を着けている人を見たら、私がその方を診察している間中、右足のつま先を出来る限り外側に向けてください。それを私たちの合図としましょう。いいですか?」
マユンは頷きました。タイトはそれを見てにっこりと笑いました。
家庭教師に座るときの姿勢は教わっていましたから、マユンはいつもその通りきちんと座っていましたが、合図であれば仕方ありません。
(タイト様にお行儀が悪い子だと思われてしまうと恥ずかしいですけれど……でも、合図ですものね)
よく分かりませんが、少し恥ずかしいだけで、足の角度を変えるぐらいであれば簡単です。それに、マユンは文章を書くのはあまり得意ではありませんでしたが、絵は得意でしたから、(タイト様にも褒めていただけるよう、出来るだけ上手に描きましょう)と気合いが入りました。
そして、その日一日中治療院で不思議な観察絵日記を描いた後、マユンは屋敷へ帰りました。
数日後、マユンと子爵は再び治療院に向かいました。
タイトは言いました。
「前回のはなかなか参考になりました。しかし、まだ少し不明な点がありまして、今日も1日、確認させてください。お願いできますか?」
マユンは頷きました。それに、絵を描くのは好きなのです。その日も1日観察を楽しんだマユンは、やはり優しいタイトに美味しいお菓子を貰って家に帰りました。
それから10日後のことです。朝食に出たマユンは、子爵の胸元の薔薇が消えていることに気付きました。
(あら……?銀色の薔薇は外すこともできたのかしら?それとも、私には見えなくなっただけかしら?)
でも、子爵の顔を見て約束を思い出したマユンは、きちんと黙っていました。それでも気になって、時々子爵をちらちらと見てしまいます。
「マユン、そんなに落ち着きがないとお行儀が悪いですわよ。一体どうしましたの?」
母親のムーラがそう聞いたので、マユンはとても喋りたくなりましたが、口をムッと閉じ、ぐっと我慢していました。
子爵は何故か小さくため息をつきました。
「マユン、今日この後書斎に来てください」
何故なのかは分かりませんが、少し肩を落としているようです。
書斎に行くと、子爵は言いました。
「私の胸元に薔薇は見えますか?」
マユンは首を振りました。
「やはり……」
子爵は言いました。
「タイト様は治療院を経営されていますが、時々王宮にも呼ばれて行くことがある王宮医でもあるのですよ。彼はマユンの研究報告書を王家の方々に提出したいそうです。勿論、あなたが拒否すればその報告は行わないとのこと。どうされますか?」
少し困ったような、それでも言わずにはいられないような、そんな顔で子爵は言いました。
「マユンは未成年ですからね。研究報告の提出許可には、あなたの同意と、保護者である私の同意が必要となります。私は……いえ、それはあなたが決めた方が良いでしょう」
マユンは悩みました。
(私に銀色の薔薇が見えることが、タイト様のような方のお仕事に役立つということかしら……?よく分からないですけれど、それならば勿論協力して差し上げた方がよろしいですわよね)
「……研究していただきたいと思いますわ」
「マユンの身体に影響はないと思いますが、研究ですから、観察報告を積み上げられてしまいます。個人情報に大きく関わってきますから、もし他所に漏れてしまってはマユンの将来に響きかねません。ですから勿論、報告の際、王家以外の方々にはマユンの名前や出自が分からないような形で情報提供していただくことを確約していただいています」
マユンは難しい話に段々と疲れてきました。学園の教師の話より難しい気がします。
「はい」
(……とりあえず、お父様にお任せしていれば良いということかしら?)
マユンは窓の外の天気が良いのをチラリと見ました。今は春ですから、新緑が目に優しく、爽やかな気分になります。
「お父様の言うことに間違いありませんもの。よろしくお願いいたします」
子爵はホッとしたような、困ったような微妙な顔をしていました。あまり外の景色には興味がないようです。
「マユンにはまだ難しい話でしょう。でも、これはあなたの将来に関わる大事な話です。今回は私がいましたから手続きに関してあなたが不利にならないよう細心の注意を払いますが、もしあなたが成人してこのような話を持ちかけられた場合、知識がない者は騙されて不利な契約を結ばされることもあるのですよ」
マユンと同じ栗色の髪をした子爵は、今日は少し頭頂部の右側の毛が跳ねかけているようで少し浮き上がっています。
(私の髪もお父様に似て癖っ毛ですから、時々跳ねてしまうのですよね……侍女たちが直してくれますけれど、やはり時々跳ねてしまいますもの)
マユンはほとんど別のことを考えていました。
「勿論、そのような被害者が出ないよう、理不尽な契約は破棄できるようにこの国の法律では定められていますが、不利な契約で失った金銭や傷ついた人間関係、失った職などを取り戻すことはできません」
マユンは目を丸くしました。疲れてきてはいましたが、念のため、耳だけは真面目に聞いていたのです。
難しくて話半分ではありましたが……。
(お金は分かりますが、人間関係まで傷つくことがあるんですの……!?それに、そのような悪事に巻き込まれただけで仕事も失うことがあるなんて知りませんでしたわ……!)
騙す方も、騙される方も、大抵は何故かその悪事の被害を小さく見積もっています。
相手を少し騙したぐらいで人が死ぬようなことはないと、本気で思っているのかもしれません。
仕事を失えば大抵は生きていけないような気もしますが、もしかしたら犯罪者たちは、金の成る木を密かに所持しているのかもしれませんでした。
そう考えると、騙した側はその責任として、その後の被害者の生活費全般を負担すべきなのかもしれません。それなのに、この王国では、法的に責任を認められても、賠償金すらきちんと支払わない犯罪者も多くいました。
何故なのでしょう。それは分かりません。
それに犯罪には、再犯率がかなり高いような種類までありました。どうしたら彼らを更生させられるのでしょう。それとも、性格は死ぬまで矯正できないのでしょうか。
「明日、タイト様の治療院を再度訪問して、2人で契約書に記入しましょう。勿論、この契約はマユンが望めばいつでも破棄できますからね」
子爵はやはり少し困った顔でしたが、少し口の端を上げました。マユンを安心させようと、一応形だけでも笑顔を作ったようでした。
……かなり下手な笑顔でしたが。
翌日、2人はタイトの治療院を訪問して契約をしました。
「では、これで契約となりますね。個人情報の取り扱いについては細心の注意を払います。ご安心ください」
「タイト様、よろしくお願いいたします」
「いえいえ、こちらこそ。しっかり色々と頑張らせていただきます」
タイトは人の良さそうな笑顔で2人を見ました。そして、タイトとマユンの父親は固い握手を交わしました。ついでにマユンもちょこっとだけ軽い握手をしました。
「タイト様、この間の件はありがとうございました」
「いえいえ、感謝されるほどのことはありませんよ。偶然、知り合いに治療薬の研究に特化した者がおりましてね。まあ、いつどこにいるかは分からないのが難点ですが……。最近は何やら珍しく近くに来ていたようでちょうど私の家へやって来たのですよ。あれから気分の悪さなどはありませんか?」
「ええ、全く……。それより、タイト様以上に治療に特化した方がいらっしゃるのですか?王宮にも呼ばれるほどでいらっしゃるのに」
「私など、診察が少しばかり他の人より長けているだけですよ。診察で疑問に思ったものは、それぞれの分野に特化した研究専門の方に回しておりますしね。残念ながら、実は診察以外の分野ではからっきしなのです」
その後、子爵とタイトはヒソヒソと不思議な会話をしていましたが。
その後もマユンはやはり時々呼ばれ、様々な観察を積み重ねられながらも絵を描きました。
時間が経つにつれて薔薇の大きさや形などの詳細まで具体的な絵の描写を求められるようになったため、マユンの作画力も同時に伸びていったのです。
そうして契約から3年後の、マユンが14歳になった時でした。
マユンは再び子爵に書斎に呼ばれました。
「タイト様から報告があり、マユンの薔薇がどうして見えるのか理由がある程度分かったそうです。どうして急に見えるようになったかはやはり分からないそうですが……。でも、学問の中には科学的解明ではなく、経験の積み重ねによって発展したり実践的に使われてきたものも多くありますから、そういうものだと思うしかないのかもしれません」
あれから少し年齢を重ね、それなのに何故か少し痩せた子爵は、続けて言いました。
「でも、そのおかげで、王家の方々がマユンを気に入ってくださったようで、王子や王女たちの学友として、あなたも選ばれることとなりました。普通は5歳から7歳の頃に選ばれますから、14歳で追加選抜されるのは異例ではありますが、過去に全く例がなかったわけではありませんから……。ですから、今後は時々王宮に行きましょうね」
マユンは少し喜びました。王宮は外からしか見たことがなかったのですが、何もかもがキラキラとしていて、色々と絵に描いてみたかったからです。




