1.銀色の薔薇
「わあ、綺麗ですわね……」
子爵令嬢マユンがそれに気付いたのは、確か10歳ぐらいの頃でした。
マユンは栗色の髪に榛色の目をしている顔自体も普通で特に目立つことなどない、大して取り柄のない令嬢でした。
でも勿論、子爵夫妻にとっては大切な娘だったのです。
「あの人の右の胸元に、銀色の薔薇が飾られていますわ……!」
銀色の薔薇は光に当たると美しく煌めき、メタリックな光沢を放っていました。無機質なその輝きは、マユンにとって何よりも素敵な宝物のように見えたのです。
「屋敷に帰ったらあの薔薇を絵に描いてみようかしら」
マユンは絵を描くのが好きでしたから、屋敷に戻るとすぐに銀色の薔薇の絵を描きました。
「まあ……!マユン様は絵がとてもお上手ですわね。形もそうですが、色使いもとても美しくお見事な出来栄えですわ……!」
「先生、ありがとうございます」
家庭教師に褒められたマユンは嬉しくてニコニコと笑いました。それに、その家庭教師は絵への造詣も深く、他の描き方やより立体的に魅せる手法まで、色々と教えてくれたのです。
(絵を描くのはとても楽しいですわね!美しいものであれば尚更……!先生も教えてくださったし、沢山描いて練習しましょう)
その日から、マユンには時々、街行く人の胸元に銀色の薔薇が見えました。そして、マユンはそれを思い出しながら何枚も薔薇の絵を描きました。勿論、薔薇の絵だけではなく他の絵も描きましたが、やはり薔薇の絵が多くなっていったのです。
(薔薇の大きさは様々ですわね……。あの方の薔薇は蕾の形をしていて素敵ですわ!あのような形の意匠もあるのですね。)
その銀色の薔薇の飾りは、とても清楚な雰囲気で艶やかな茶色の髪を肩下まで下ろしている、まだ20歳過ぎたばかりであろう華奢な女性が着けていたのです。
だから、マユンの銀色の薔薇への憧れは、尚更強くなりました。
(どの薔薇も綺麗ですもの……。私もいつかあの薔薇を胸に飾ってみたいわ……!あっ!価格によっては、沢山買って髪飾りにするのも良さそうですわね?あんなに美しいのですもの)
そんなある日、街の視察を兼ねた社会科見学的な教育の一環として、庶民に扮したマユンは、いつもの年配の家庭教師に連れられて街の市場を訪れました。
市場は活気に溢れており、賢い家庭教師はマユンに様々なことを教えてくれました。どのように物を買うのかや、市場で商売する者が入らなければならない労働組合の歴史についてなど、学びは多岐に渡りました。
あまりにも多すぎるので、きっとまた何日かは市場で学んだことの復習をしなければならないでしょう。
そんな時、マユンは、肉屋の主人が好んで着けそうにもない、銀色の薔薇を胸元に着けていることに気付きました。
肉屋の主人はいつもの薄汚れた作業エプロンを着ており、銀色の薔薇は少し浮いて見えます。
(あら……?このような仕事の時にも薔薇を着けられる方がいるのですね。この方も可愛らしい物が好きなのかしら?それとも、それほど流行っているということなのかしら?)
だから、マユンが肉屋の主人に、
「その薔薇は、どこで売っていらっしゃるのです?」
と聞いたのも、特段おかしなことではありませんでした。
でも、肉屋の主人は狐につままれたような顔をしました。
「お嬢ちゃん、何のことだい?」
「その胸につけていらっしゃる銀色の薔薇のことですわ」
マユンが答えても、肉屋の主人は不思議そうな顔をします。
家庭教師を振り返ると、彼女も不思議そうにマユンを見ていました。
その日から、度々似たようなことが起こりました。薔薇を着けている人物は大体が成人した男女でしたが、時々、成人しているかしていないかぐらいの若くて綺麗な女性が薔薇を着けていることもあります。
中には殆どマユンと変わらないか、少し上ぐらいの子もいました。
「その薔薇の飾りはどちらで購入されましたの?」
「何?あなたどこの誰なの?」
「私は子爵家の娘で……」
「えっ!お貴族様!?ですか?ごめんなさい!」
それでも、薔薇について聞いてみても、皆、一様に不思議そうにしたり、逃げたりするのでした。
それからしばらくして、両親はマユンに、
「外で薔薇の話をしてはいけませんよ」
と言いました。
いつだって両親には銀色の薔薇は見えませんでしたし、時々会話するだけの街の者はともかく、子爵家専属の家庭教師に、少し変わった言動がある子だと思われ始めたからです。
「マユン様は、時々、銀色の薔薇のお話をなさっておいでです。想像で描いているのだと思いましたが、人の胸元に見えることがあるそうなのです。ただ、マユン様がおっしゃった方をよく見ても、私にはそのようなものは見えず……。マユン様は他の言動はとても模範的で規律正しいご令嬢ですから、素直に様々な知識を吸収なさってくださいますが、どうしてもその点だけは少し分かりかねまして……」
「銀色の薔薇ですか……。私は流行には詳しくはありませんが、そのようなものが今は街で流行っているのでしょうか?ムーラ様、あなたは何か知っていますか?」
「子爵様、私も社交界でそのような話を聞いたことはありませんわ……。どういうことなのかしら……?」
「先生は視力がとてもよろしかったですよね?」
「はい。私は代々視力が良い家系でして、眼鏡などの類もかけたことがございません」
「つまり、先生に見えないとすると、よほど小さいか、あるいはそのような魔法がかかっているとか……?魔法であれば魔法使いにしか見えませんし……。マユンは魔法使いの素質があるのでしょうか?」
物憂げに考えるふりをしつつ、子爵は少しだけ心が弾んでいました。
(私の子がもし魔法使いであるとしたら……!)
自分の子が、あまり世界には存在しない魔法使いであればどんなに喜ばしいことでしょう。ただ、賢い子爵は、その期待をあまり表に出さないように慎重に言いました。
「もし魔法であれば、私たちに見えなくとも仕方のないことかもしれませんね……。私たちも改めて自身の目で確認してみましょう。先生、いつもありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。気ままな魔法使いたちは王家であっても殆ど伝手がないと聞いています。彼らは好きなところで好きなことをする生態のようですから……。以前、とある王国が1人の魔法使いを捕まえようとしたら、王国毎なくなってしまったとか……。何にせよ、マユン様が銀色の薔薇を見られる理由が分かればよろしいのですが……」
家庭教師の発言に、マユンの両親も腕組みをしたまま唸りました。
この世界では、魔法使い1人に無理強いをすると、何故かそれ以上の大損害を喰らうのが世の常でした。
実際、他の言動にはあまり問題がないにも関わらず、その薔薇の話をする時だけはマユンは明らかに変わっていましたから、魔法が関わっている可能性があるのであれば尚更、慎重には慎重を期す必要がありました。
その家庭教師は国内でも有数の貴族子女育成学院を卒業した有能な教師で、子爵家があらゆる伝手を使って交渉し、高額な費用でやっとこさ雇用した教師でしたから、マユンの両親はその教師を信頼していましたし、嘘だとは思えなかったのです。
それに、その賢い家庭教師以上の人物を見つけることも難しいため、子爵家としても解雇はしたくありません。
それから数日後、マユンは両親と街の商人夫婦やその娘のように変装して市場に向かいました。
「マユン、銀色の薔薇を着けた人を見たら、私の右袖を3回引いて、その人を見てください」
「はい、お父様」
マユンは素直に頷きました。
チョンチョンチョン
(あの人ですか……ただの飛脚に見えますが……?いえ、それよりも薔薇ですね。薔薇の花はどう見ても胸元どころかそれ以外の部分にも付着してはいなさそうですし、そのようなものを着ける人物には見えませんが……?)
チョンチョンチョン
(あの若くて上品な女性の方ですか。貴族ほどではありませんが、庶民にしてはなかなかお綺麗ですね。確かにやたら高価そうな装飾品を着けていらっしゃいますが、あれはどうも光沢が偽物のような……?薔薇の花は着けていませんね……)
そうして3人はそれから半刻後には、用意された馬車に戻っていました。
「マユン、マユンには銀色の薔薇が見えるのですね?」
「はい」
両親は顔を見合わせました。
(マユンは真剣なようですが、銀色の薔薇は見えません。嘘を言っているようでもないですし、誰にでも言うわけでも……。これは一体……?)
「マユン、やはり引き続き、外で薔薇の話はしないようにしてください」
父親は眉間に皺を寄せながらそう言いました。
「はい、お父様」
マユンは素直に頷きました。理由はよく分かりませんでしたが。
(銀色の薔薇の話はしてはいけないのですね。あんなにも綺麗ですのに……。どうしてかしら……?)
マユンは、薔薇の話をしなくなりました。それに、学園に銀色の薔薇を着けた友人はいませんでしたから、元々学園でその話をすることもなかったのです。
それでもやっぱり、マユンには銀色の薔薇が時々見えていたのですが。




