第009話:雷撃は、一本の棒に導かれて消えた
人外の領域。
陽光を一切遮絶する巨木の天蓋の下、最果ての魔境――通称『魔獣支配領域』は、凍てつく静寂に支配されていた。
張り詰めた冷気に白く染まる吐息。足元を覆う湿った雪は、一歩踏み込むごとに冷酷な重みで猟兵たちの革ブーツを濡らしていく。
「――陣形、維持!」
重装猟兵隊長バド・バルザーの、嗄れた野太い声が、不気味なほど白い霧に閉ざされた森に響いた。
十数名からなるクレイ家の猟兵小隊は、一糸乱れぬ動きで半円形の強固な盾の陣を組み、鉄盾を隙間なく噛み合わせている。彼らの背負った荷車には、数日間の野営に備えた大型の多角形テント――パビリオンの一式が重々しく揺れていた。
その鉄壁の陣形の中心。
黒皮鎧にアジサイの胸当てを纏ったオルテシア・クレイは、冷たい灰色の双眸を、前方の霧の深淵へと静かに据えていた。
傍らには、すでに左手で細身の長剣を抜き、音もなく牙を剥く準備を整えたギルベルト。
「……来る」
オルテシアが小さく呟いた瞬間、凍てつく木々が激しく軋み、白い闇の奥から『それ』が姿を現した。
音もなく霧を裂いて現れたのは、体高二メートルを超える、圧倒的な巨躯を誇る嵐魔狼――その群れの頂点に君臨する、白銀の長であった。
その背後には、同じく殺気を孕んだ獰猛な狼たちが十数頭、暗い双眸を飢えに光らせて、猟兵たちの盾の円陣を取り囲んでいる。
グルルルル……。
地鳴りのような低周波の咆哮が、雪原を微震させた。
白銀の長は、明らかに他の個体とは一線を画す高い知性を宿した双眸で、侵入者のリーダーであるオルテシアを真っ直ぐに見据える。その長い顎の隙間から、青白い稲光が、バチバチと凄まじい放電音を立てて滾り始めた。
大気中の魔力を急速に収束させ、全てを消し炭にする天を裂くような放電魔法を放とうとしているのだ。
「我が主、下がってください! あれは――!」
ギルベルトが鋭い警告の声を上げ、前に出ようとした。
だが、オルテシアの頭脳は極めて冷徹に、目の前の物理現象を読み解いていた。
(あの凄まじい電圧が放電されれば、周囲の大気ごと物理現象として私の肉体は消し炭になる。避ける手段は一つ)
オルテシアは、驚異的な反応速度で背後の荷車へと身を翻した。荷車の覆いをロープごとダガーで力任せに切り裂き、積まれていたパビリオン(多角形テント)の資材から、一本の頑強な支柱を引き抜く。
芯材は強靭なアッシュの木製だが、辺境の暴風雪に耐えるために極太の鉄帯が幾重にも巻かれ、先端には尖った飾り金具、根元には凍土に深く突き立てるための重い鉄製の石突が嵌められた主柱であった。
オルテシアは、全身の筋肉をバネのように駆動させ、その重い主柱を全身の力で目の前の湿った雪原へと深く突き立てた!
ポールを突き刺した刹那、彼女は即座に手を離し、頭を抱えて滑り込むように雪原へとダイブし、全速力で横方向へと極限まで身を低くして退避した。
キィィィィィン――!
鼓膜を破壊せんばかりの高周波の音が、張り詰めた魔境の空気を切り裂いた。
次の瞬間、白銀の長の顎から放たれた数万ボルトの超高電圧放電――『落雷』が、猛烈な轟音とともに、周囲で最も電気抵抗が低く、湿った雪で濡れた木面と鉄帯で「簡易導電路」を形成していたポールの先端へと、物理法則に従って一滴残らず吸い込まれていった。
バリバリバリィィィィン!!
凄まじい電撃がポールを直撃し、主柱は猛烈な熱膨張によって中央から爆裂、木片と鉄帯の破片が四方へと激しく飛散した。
アース(地中放電)された電流の大部分は鉄スパイクを通じて雪原の奥底へと消え去ったが、その爆風と側撃雷の衝撃波が、オルテシアが先ほどまで立っていた空間を容赦なく薙ぎ払う。
だが、オルテシアはすでに極限まで身を低くし、ダイブ&カバーの姿勢をとっていた。木片が黒皮鎧とアジサイの鉄胸当てに当たって硬い音を立てるが、肉体には一切のダメージはない。
煙と、舞い上がる白い雪、そして焦げた木の匂いが周囲を満たす。
その混沌のなかから、オルテシアはアジサイの胸当てを泥と雪に少しだけ汚しながら、スッと何事もなかったかのように優雅に立ち上がった。
乱れた淡い紫の髪を細い指先で払い、不敵な笑みを浮かべる。
「……物理の法則は、神の奇跡(魔法)よりも絶対ですわ」
自身の絶対の電撃が、ただの「濡れた木製の支柱」に100%誘導されて無力化されたという理解不能な物理現象を前に、白銀の長は、野生の卓越した知性ゆえに強烈な混乱に陥り、その場に動きを止めた。
ギルベルトが驚愕に双眸を見開きながらも、すぐさま剣を構え、長の首を跳ねるべく一歩を踏み出す。
「我が主を守れ! 狼どもを――!」
「下がっていなさい、ギル」
オルテシアは、いつもの冷静な、しかし絶対の拒絶を孕んだ静かなトーンで右手を挙げ、ギルベルトを制した。
「我が主……?」
「下がっていなさい。手を出す必要はありませんわ、バド、猟兵たちもそこに止まりなさい。これは――」
オルテシアは、半壊したパビリオンの残骸を踏み越え、ゆっくりと丸腰のまま一歩前に出た。
「この群れの長と、私の、一対一の勝負ですわ」
背後の騎士や精強な一個小隊の兵たちを完全に下がらせ、丸腰で自分と対峙する、底知れない覇気を湛えた人間の少女。
白銀の長は、戸惑いから覚めるようにその紅い双眸を細めた。
戦士としての誇りと野生のプライドが、その少女の「覚悟」に呼応する。
グルルル……と、長は低く吠えた。それは周囲でいつでも飛びかかろうと喉を鳴らしていた他の嵐魔狼たちに対し、手出し無用と命じる絶対の首領の命令であった。
狼たちは、不承不承ながらも牙を収め、じりじりと後退して円陣を広げた。
こうして、クレイ家の精鋭猟兵たちと、魔境の狼の群れが取り囲む円形闘技場のような雪原の中心で、完璧な一対一の空間が構築された。




