第008話:彼らが抱える”ゴミ”と”飢え”こそ、私たちの資本ですわ
翌朝。当主の執務室は、昨夜の雨が嘘のように、冷たく澄んだ朝光に満たされていた。
石造りの窓枠から差し込む光条が、微細な塵を白く浮かび上がらせ、机の上の二つの異なる紙束を照らし出している。
一つは、新財務官ハンスが、血の気の引いた青ざめた顔で差し出してきた、破産寸前のクレイ男爵領の帳簿。
もう一つは、ギルベルトが夜を徹して完璧にまとめ上げた、辺境四諸侯の困窮と地政学的な状況を記した調査報告書であった。
「……なるほど、そういうことですわね」
オルテシアは、ギルベルトが夜を徹して書き上げた報告書を指先でなぞりながら、灰色の瞳を鋭く細めた。
上流から流出する泥砂の堆積によって完全に浅瀬化し、貿易路としての機能を失って飢えに喘ぐショア男爵領の入江。
作物がまともに育たず、小刻みに怯える当主が強欲な商人に子供を奴隷として連れて行かれそうになっている、不毛の泥湿地帯のシルト男爵領。
貴重な古文書や石碑のアーカイブだけが無駄に詰まり、実務的な高い知性を持ちながら内職で食い繋ぐライブラ男爵領。
そして、魔境からの魔獣を食い止める防波堤でありながら、防衛補給金が途絶え、甲冑も剣も錆びついて崩壊寸前のラストン子爵領。
「砂泥の堆積に、粘土の不毛。飢えた知識に、錆びついた剣。……実に見事なパズルだわ。
彼ら自身は気づいてすらいないでしょうけれど、これらはすべて、お互いを補い合って黄金を生み出す完璧な『歯車』ですわね」
傍らに佇むギルベルトが、いつもの冷静な、しかしどこか試すような声音で尋ねた。
「お言葉ですが我が主、それがどのように噛み合うというのです? 我が領の金庫は、ハンスが悲鳴を上げるほどに空っぽです。他領の困窮を救い上げる余裕など、一シリングとてございません」
「余裕など、作る必要はありませんわ、ギル。彼らが抱える『ゴミ』と『飢え』こそが、私たちの最大の資本なのですから」
オルテシアは薄い唇の端を持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「まず、ショア領の入江を大浚渫した際に出る、厄介な『泥砂』を、お隣のシルト領へと運び込みます。
シルト領の『粘土』とショアの泥砂が合わされば、それだけで、これまでにない強度を誇る近代的なセメントと、超高温に耐える耐火レンガの原材料が、タダ同然のコストで手に入りますわ」
「セメントと、耐火レンガ……」
「ええ。その耐火レンガを使い、ライブラ領に眠る熱効率工学の知識を用いて、魔石を一切消費しない超高温の製鉄窯――『反射炉』を極秘裏に築くのです。
燃料は魔境から切り出す石炭。そして送風機を回す動力には、魔境の魔獣たちの野生の強靭な筋肉を用いますわ。
そうして生み出された高品質の鋼で、私たちは王国の常識を遥かに凌駕する超低コストの『鋼の武具』を大量生産いたします」
「送風を魔獣の筋肉で……」
ギルベルトは顎に手を当て、深く眉根を寄せた。
「しかし我が主。いかにして魔獣を捕らえ、この領地まで連れ帰るおつもりですか? 魔境の獣どもは極めて獰猛です。
罠にかけて生け捕るだけでも我が領の少ない兵では多大な犠牲が出ますし、檻に入れ、鎖で縛り上げてクレイ領まで護送するなど、あまりに非効率。途中で暴れられれば、運ぶことすら困難を極めましょう」
その至極真っ当な懸念に、オルテシアは声を立てて小さく笑った。
「ふふ、ギル。あなたは、私がそんな泥臭くて非効率な力技を好むとお思い? 檻や鎖、それを護送する兵車など、一シリングも使う必要はありませんわ」
「……と、おっしゃいますと?」
「魔獣というものは、極めて明確な階級社会に生きておりますの。特に、最果ての魔境を支配しているという、獰猛な狼の群れはね。
……彼らは、己よりも強い『長』に絶対の服従を誓う。ならば、私たちがやるべきことは一つしかありませんわ」
オルテシアは指先で、テーブルの上に置かれた黒いチェスの『キング』の駒をカチリと倒した。
「群れの頂点に君臨する長を引きずり下ろし、この手で完全に屈服させ、魂の主従契約を結ぶのです。
……長が私の配下になれば、その影に潜む何十もの強靭な牙は、檻で運ぶまでもなく、自らの足で整列して、大人しく我が領地へと歩いてまいりますわ。これほど安上がりで確実な運送手段が、他にあって?」
ギルベルトは言葉を失い、それから、その想像を絶する合理主義と不敵さに、震えるような笑みを堪えながら深く一礼した。
「……なるほど。長を直接支配し、牙を自ら歩かせる。実に、我が主にふさわしい合理的な手際です」
オルテシアは、脳内に描いた完璧な経済インフラの設計図を、楽しげに指先でなぞる。
「そうして出来上がった極上の武器を、補給の途絶えたラストン警備隊へ『共同防衛の補給物資』として無償提供して差し上げるのです。
……想像してごらんなさい。錆びついた武具で飢えに怯えていた老騎士たちが、最高品質の鋼の剣を無償で施されたとき、誰を『救世主』と仰ぐかを。
ラストンの精強な軍勢は、血を流さずとも、自ら進んで私たちのために命を投げ出す『私兵』へと変わる。私たちは、この男爵領を、泥と筋肉だけで、盤上の勝者へと塗り替えて差し上げるのですわ」
「……!」
ギルベルトは息を呑んだ。魔導の仕組みや魔石の利権に依存せず、見捨てられた辺境の「困窮」そのものを噛み合わせて巨大な軍事・生産ラインを構築するという、あまりに冷徹で美しすぎる合理。
この令嬢の皮を被った怪物の「器」に、騎士はひそかに身震いするほどの法悦を感じ、深く頭を垂れた。
「ですが我が主、その最初のドミノを倒すには、ショア湊を浚渫するための圧倒的な『魔獣の馬力』が必要になります。
それらを獲得するには、ラストン領の向こうにある最果ての魔境へ踏み込まねばなりません。彼らは我々を『泥に沈む温室の羊』と見下しています。下手にこちらから接近すれば、首を噛み切られかねません」
「結構。油断していただいて結構ですわ」
オルテシアは、立ち上がり、自らの細い指先を見つめた。
「牙を持たぬと侮る相手から、これ以上ないほど法的に正当な『防衛協力』を持ちかけられたら、老騎士は一体どのような顔をしますかしらね。
近隣領主の義務を盾に、彼らが拒めない【境界魔境の共同調査・偵察協力】を申し込みますわよ。堂々とラストン領を通過し、魔境の『無名の牙』を私たちの盤面に引きずり込みに行きますわ」
数日後。クレイ家から送られた隙のない公式文書に、ラストン子爵家は法的な大義名分を覆すことができず、不承不承ながらも「魔境への偵察協力」の捺印を返さざるを得なかった。
出発の朝、オルテシアはいつものひらひらとした淑女のドレスを着ていなかった。
鏡の前に立つ彼女が纏っているのは、しなやかで動きやすい漆黒の黒皮鎧。
そしてその胸元を強固に守るように重ねられているのは、クレイ家の家紋である『アジサイの文様』が精緻に刻まれた、鈍く光る美しい鉄製の胸当てであった。
淡い紫の髪をすっきりと一つに結い、腰元にはあの本物のオルテシアの最期を看取った細身のダガーを帯びている。
儚げな可憐さを残しながらも、その佇まいはどこか冷徹な戦士の美しさを漂わせていた。
「よくお似合いです、我が主。猟兵たちも準備を整えております」
傍らで旅装を整えたギルベルトが、静かに微笑みながら、窓外の広い中庭を指し示した。
そこには、隊長バド・バルザー率いる、新生クレイ家の『重装猟兵隊』から選抜された一個小隊――十数名の精鋭たちが、一糸乱れぬ規律で整列していた。
彼らは頑強な黒皮鎧に鉄の盾を装備し、その後方には、過酷な魔境での数日間の野営に備え、大型の円形多角形テント――『パビリオン』一式や物資を載せた頑丈な荷車が控えている。
かつてはただの荒くれ者の猟番や私兵に過ぎなかった男たちが、オルテシアの課した合理的な近代訓練と十分な食事によって、見事なプロの兵士へと変貌を遂げていた。
「ええ。流石にあの深い魔境に、実戦の準備もせず、丸腰で入るほど私は無謀ではありませんもの。……さあ、まいりましょう。私たちの兵の初陣であり、錆びついた盾の様子を見に」
クレイ領から北上する、一個小隊の静かな進軍。
先頭を歩くのは、黒皮鎧にアジサイの胸当てを纏ったオルテシアと、その右腕ギルベルト。
そして、一糸乱れぬ足音を響かせて追従する重装猟兵たち。その整然とした姿は、道行く領民たちに、没落しかけていたクレイ家が「生まれ変わった」ことを無言で、そして強烈に知らしめていた。
やがて、一行はクレイ領の北に広がる、不毛の泥湿地帯――シルト男爵領へと足を踏み入れていた。
見渡す限りの赤茶けた泥土、作物を拒絶する冷たい湿地の風。足元はぬかるみ、一歩進むごとに重い粘土質の泥が靴底にこびりつく。
普通の歩兵ならすぐに不平を漏らす悪路であったが、クレイの重装猟兵たちは、一言の愚痴もこぼさずに整然とした進軍を続けていた。
オルテシアの課した過酷な規律と、腹一杯の食料という対価が、彼らの足腰を確かに支えているのだ。
その日の夕暮れ、一行はシルト領の中心に佇む小さな領主の城下町――シルト・キルンへと到着し、一晩の宿泊を求めた。
にわか作りの粗末な本陣として開放されたシルト家の居城で、当主のトマス・シルト男爵は、青ざめた顔で絶えず自らの胃のあたりをさすり、小刻みに震えながらオルテシアたちを迎えた。
「オ、オルテシア様……! ようこそ、我がシルト領へおいでくださいました。な、なにもおもてなしできず、申し訳ございません。
これ、この薄いスープと、塩漬けの肉が、今の我が家で差し上げられる限界で……」
トマスはそこまで言うと、あまりの精神的な疲弊からか、ついに目元を歪めてシクシクと泣き崩れてしまった。
同じく「借金まみれの弱小男爵領」を急に引き継ぐことになったうら若き令嬢オルテシアの姿に、勝手に同病相憐れむような感情を抱いたのだろう。
胃をさすりながら、みっともなくも堰を切ったように弱音を吐き出していく。
「あ、ああ、私はなんと情けない父親、そして領主なのでしょう……!
ベッカー金融商会の、あのローレンツ・ベッカーという強欲な高利貸しに、次の返済期限までに一シリングでも足りなければ、私の五人の幼い子供たちを奴隷として連れて行くと脅されているのです。
もう、どうしていいか、夜も眠れず……っ」
その必死の吐露と、怯えきったトマスの絶望を、オルテシアは静かに見つめた。
「お気になさらないで、トマス様。私たちは魔境警備隊への偵察協力という義務の途中。こうして温かい火と、雨露をしのぐ天井を貸していただけるだけで、これ以上の贅沢はございませんわ」
オルテシアは、悲しみに寄り添うような、この上なく優美でか細い微笑みをトマスへ向けた。
(……なるほど、そういうこと。ギルの報告書にあった、中央のマルシェ公爵と繋がる『ベッカー金融商会』。あの強欲な吸血鬼が、お隣のシルト家をそこまで食い物にして追い詰めているのね。
まあ、いいでしょう。トマスを縛り付けているその債権(鎖)も、時期が来ればすべて私がベッカーから美味しく、合法的に強奪(買い取り)して差し上げますわ。
お隣のシルト家には、大人しく、そして一生、私たちのためにその不毛な泥湿地から近代セメントの原材料(粘土)をタダ同然で吐き出し続けてもらわなければ、ドミノが回りませんものね)
オルテシアは薄いスープを、まるで極上の紅茶であるかのように完璧なマナーで口に運び、不敵で美しすぎる淑女の微笑みを浮かべる。
そんな主君の、冷徹なまでの搾取計画の微笑みを傍らで見つめながら、ギルベルトはひそかに狂おしいほどの心酔の吐息を漏らし、影のように付き従っていた。
翌朝。霧の立ち込めるシルト・キルンを発った一行は、さらに北へと泥を蹴って進む。
やがて辿り着いたのは、ラストン領の最果て。険しい岩山をくり抜くようにして築かれた、重厚な石造りの関所――ラスト・フォート。
吹き下ろす冷たい風が、関所に掲げられたラストン家の家紋旗を激しくはためかせている。
その関門の前で、一行の行く手を阻むように立ち塞がったのは、傷だらけの無骨な鋼の甲冑を纏った勝気な少女であった。
ヘレナ・ラストン。亡き兄に代わって「ラストン魔境警備隊・副隊長」を任されている、若き女騎士。
ヘレナは、ドレスこそ脱ぎ捨てているものの、傷一つない美しい鉄胸当てを纏ったオルテシアと、その背後に控える規律正しい一個小隊の重装猟兵たちを、一度驚愕の視線で射抜いた。
それからすぐに冷笑を浮かべると、オルテシアの正面へと歩み寄る。
「ずいぶんとまあ、見事なお飾りを胸に貼り付けているのね、クレイの当主様」
ヘレナはオルテシアの正面に立ち、その鈍く光る胸当てを、甲冑の手甲の指先で不躾に弾いた。
「そんな傷一つないアジサイの鉄板、うちの隊の兵たちに見せてみなさいよ。……彼らが何ヶ月、乾いたパンだけで飢えを凌いでいるか、あんたには想像もつかないでしょうけれど」
オルテシアは眉一つ動かさず、完璧に上品な淑女の笑みをその白い頬に浮かべ、少しだけ小首を傾げた。
「あら、おいたわしや。ですがヘレナ様、兵の皆様の胃袋が満たされないのは、我が家の鉄胸当てのせいではなく、ラストン子爵領の『お財布』が空っぽだからではございません?」
「なっ……!」
ヘレナの端整な顔が、怒りで一瞬にして朱に染まる。
「それに、そちらの剣」
オルテシアは、ヘレナの腰に帯びられた長剣へと、憐れむような視線を滑らせた。
「随分と赤茶けた錆が浮いておいでですわ。そのような鈍い刃で、魔境の魔獣の皮が裂けますの? まるで、ラストン領の哀れな財務状況そのものを映したような、悲しい輝きですわね」
「……口の減らない女」
ヘレナは歯を剥き、ギリ、と音を立てて腰の剣の柄に手をかけた。周囲のラストン兵たちにも緊張が走り、槍を構える。
その瞬間、オルテシアの背後に控えていたギルベルトが、一歩前へ。その灰色の双眸から、音もなく、刺すような鋭い殺気が放たれ、関所の空気が一瞬にして凍りついた。
「おやめなさい、ギル」
オルテシアは静かなトーンで右手を挙げ、ギルベルトを制した。
それから、怒りに震えるヘレナを、底知れない灰色の瞳で見つめ返す。
「お試しになります? ヘレナ様。――お互いに無駄な血は流したくありませんでしょう。
だからこそ、近隣領主の義務として、私たちが『偵察』を肩代わりして差し上げにまいりましたの。錆びた盾しか持たぬ隣人の背中を、ただ眺めているほど、私は薄情ではございませんから」
ヘレナは拳を血が滲むほどに強く握りしめ、言葉を失ってオルテシアを睨みつけた。
しかし、クレイ家から提出された通行申請は、王国の法に則った完璧に正当なものだ。
一介の副隊長がこれを感情で拒否すれば、クレイ家から領主ガレスへ向けて「正当な防衛義務の拒絶」として法的な抗議が入り、ただでさえ限界のラストン領はさらなる窮地に立たされる。
「……いいわ。通しなさい!」
ヘレナは、悔しさに顔を歪めながら、自らよりも遥かに統率の取れたクレイ家の兵たちから目を背けるように、背後の兵たちに怒鳴るように命じた。
重々しい音を立てて、最果ての魔境へと続く巨大な鉄の格子門がゆっくりと持ち上がっていく。
その向こうには、陽光を一切拒絶するような、不気味で濃密な白い霧に閉ざされた森が広がっていた。
「行って、その綺麗な胸当てを泥に染めて、犬死にしてみせなさい!」
ヘレナの激しい吐き捨てを背に受けながら、オルテシアは最も優雅で気品に満ちた一礼を返した。
「ごきげんよう、ヘレナ様。……良いお返事をお待ちしておりますわ」
少女は不敵な笑みをベールの代わりに浮かべ、ギルベルトと一個小隊の猟兵たちを伴って、冷たく凍てつく最果ての魔境の闇へと、堂々とその足を踏み入れていった。




