第007話:値踏みする瞳、悲しみに変わる夜
大聖堂の空気は、底冷えのする石の冷気と、立ち上る蜜蝋蝋燭の煤けた煙で満ちていた。
空気の重さを引きずるように漂うのは、濃厚な薔薇水の香り。死臭を覆い隠すための、いささか過剰なほどの芳香が、かえって堂内に満ちる死の気配を際立たせている。
聖堂の中央には、意匠を凝らした豪華な黒漆塗りの棺が三つ、厳かに並べられていた。
レジナルド・クレイ。エレノア・クレイ。そして、ジュリアン・クレイ。
不慮の「落雷と火災」、および「急病」によって、わずか数日の間に全滅したとされる、旧クレイ男爵家本家の一族。その棺を見つめる弔問客たちの表情には、形式的な哀悼の裏で、隠しきれない困惑と値踏みの色が不気味に蠢いている。
「――諸侯の皆様の記帳、およびお席へのご案内、すべて滞りなく完了しております。おじょ……いえ、我が主」
背後から、低く、しかし驚くほど澄んだ声がかけられた。
振り返ると、そこにいたのは四十代半ばの、酷く痩せた男だった。仕立ての古い文官服の胸元を神経質そうにさすりながら、手にした羊皮紙を驚異的な手際で整理している。男の名はハンス・ウェーバー。旧クレイ本家で、亡き当主レジナルドの度重なる贅沢と無計画な搾取の帳尻を合わせるため、胃に穴をあけるような思いで帳簿を叩き続けてきた筆頭書記であった。
突如として降って湧いた「本家一族全員の合同大葬儀」という、並の文官ならパニックに陥るほどの大事業を、彼はたった数日の徹夜で、完璧に、かつ一シリングの無駄もなく手配してみせたのだ。
純黒のシルクベールを深く被ったオルテシアは、ベールの奥の灰色の瞳をわずかに細め、彼の立ち居振る舞いを静かに観察した。
(……よく回る数字の頭だわ。あのレジナルドの放漫経営の裏で、よくこの男爵領を破産させずに維持していたものね。殺すにはあまりに惜しい、一級の実務家だわ)
オルテシアは、悲しみに喉を詰まらせたような、完璧にか細い令嬢の声で囁いた。
「ありがとう、ハンス。このような時ですのに、あなたの無駄のない差配、本当に心強いですわ……」
「滅相もございません、オルテシア様。旧クレイ家の一介の書記として、当然の義務を果たしているに過ぎません」
ハンスは深く頭を下げた。その際、彼のこめかみを冷や汗が伝うのを、オルテシアは見逃さなかった。彼は怯えている。何が起きて本家が全滅したのか、その「真実」を本能的に察しているのだ。だが、同時に彼は知っている。生き残るためには、この新当主となった若き令嬢に、己の有能さを示すしかないということを。
「それでは、私は弔問客の皆様の対応へ戻ります」
ハンスが静かに下がっていくのを見送り、オルテシアは聖堂の席へと視線を戻した。
純黒のベールの奥から、彼女の「獲物」たちの姿がはっきりと見えた。
弔問席の最前列に陣取る、四人の男女。彼らこそが、クレイ領を包囲するように領地を構える、辺境の弱小諸侯たちであった。
一人目は、ガレス・ラストン子爵。
魔境からの魔獣を押しとどめる「最果ての防波堤」として命を削ってきた、傷だらけの厳格な老騎士。
彼は、重い黒甲冑を軋ませながら、細くか弱いオルテシアの肩を一瞥した。その錆びついた兜の奥にある瞳には、深い落胆が宿っている。彼にとって、辺境防衛の一角を担うはずのクレイ家が、このような「温室の甘ちゃん」に代替されたことは、いつ魔境の防波堤が決壊してもおかしくないという落胆でしかなかった。「防波堤が一枚、完全に腐り落ちたな」と言いたげに、老騎士は深く眉根を寄せ、棺から冷たく目をそらした。
二人目は、アルド・ショア男爵。
日に焼けた強靭な体躯を持つ、実直でタフな三十代半ばの現役船乗り。ショア領の「死に湊」の当主。
堆積する土砂によって港としての機能を失い、飢えに喘ぐ領民を抱える彼は、硬く木製の杖を握りしめ、冷ややかな視線をオルテシアに向けていた。「本家が死に、残されたのは泥湿地と小娘だけか。我が湊と同様、泥に沈むのを待つばかりの哀れな一族だ」と、その分厚い唇の端に自嘲の笑みが張り付いている。
三人目は、トマス・シルト男爵。
作物の育たない泥湿地を抱え、強欲な商人に怯え続ける、気弱で心優しい中年。
彼は青ざめた顔で絶えず自らの胃のあたりをさすり、小刻みに震えていた。商人に「借金が払えなければ、五人の幼い子供たちを奴隷として連れていく」と脅されている彼の視線は、恐怖で彷徨っている。「本家が滅び、次は我が家が食い殺される番だ……」と、その小さな肩を竦めていた。
四人目は、ヴィオラ・ライブラ女男爵。
本と古い石碑のアーカイブだけが無駄に詰まった、財産ゼロの極貧領地を治める、頑固でプライドの高い学術少女。
擦り切れた黒い喪服のポケットから、計算用の羊皮紙の端を覗かせた彼女は、その理知的な瞳で、大聖堂の豪華な装飾と三つの棺を冷ややかに値踏みしていた。「身の丈に合わない大葬儀で、なけなしの金を浪費する。非合理的で、極めて愚かしい儀式ね」と、その冷徹な視線はオルテシアの頭上を通り抜けていた。
四者四様の、侮蔑、落胆、恐怖、そして冷笑。
それらを、オルテシアはベールの奥で、驚異的な静けさをもって全て脳裏に刻み込んでいった。
(……誰もが己の領地の困窮に首を絞められ、飢えと焦燥に喘いでいる。そして、このクレイを「泥にまみれて沈む」と油断しきっているわね。結構。その油断の隙に、あなた方を私の盤面へ『配置』するための情報を、まずは揃えさせていただきますわ)
葬儀が中休みに差し掛かった頃、オルテシアは静かに喪室(控室)へと下がった。
重い木扉が閉まった瞬間、彼女は首元を覆っていた純黒のベールを、迷いなく剥ぎ取った。
部屋の隅、影と同化するように控えていたギルベルトが、静かに一歩前に出る。その灰色の瞳には、忠誠の裏に、底知れない狂気的な熱が湛えられていた。
「彼ら四人の顔、見ましたわね。ギル」
「ええ、我が主。実に見苦しく、そして飢えきった顔ぶれでした」
ギルベルトは皮肉めいた笑みを浮かべ、オルテシアの前に跪いた。
「ただちに、あの四諸侯のさらに深いディテールをまとめなさい。家族構成、正確な財務状況、そして彼らが領地で直面している物理的な困窮の、真の『理由』よ。何が彼らの首を絞め、何に飢えているのか。それらの『急所』を、一分の隙もなく書類に叩き込みなさい」
「お望みのままに、我が主。夜明けまでには、すべてを完璧に整理した紙束をお手元に用意いたしましょう」
ギルベルトは愛おしそうに首を振り、影へと沈むように下がっていった。
葬儀の喧騒が完全に去り、深い夜が辺りを支配した頃。
空からは、しとしとと冷たい夜雨が降り注いでいた。
クレイ城の裏手。手入れのされていない茨の薔薇の木陰が、雨に濡れて黒々と広がっている。
オルテシアとギルベルトは、ランタンの灯りすら最小限に絞り、二人だけで、分家の屋敷――かつて凄惨な粛清の舞台となり、今は瓦礫と化したあの崩落した食堂の底から、極秘裏に運び出してきた「本物のオルテシア・クレイ」の亡骸を抱えていた。
ただ、冷たく硬直した少女の遺体の、胸元にぽっかりと開いた小さな、しかし深いスリット――かつてオルテシアがその細身の短剣で一突きにした、鋭利な刺し傷。
そして、偽装のために首に巻きつけられた、紫色に鬱血した無残な痕。
それらの物理的な事実だけが、雨に濡れるランタンの青白い光の中に、生々しく浮かび上がっていた。
ギルベルトが無言で、漆黒の湿った土をシャベルで掘り進めていく。
オルテシアは、自らの純白ドレスが泥水に汚れ、泥が肌にこびりつくのも構わず、その冷たい亡骸をそっと腕に抱き上げ、掘り起こされた土の底へと、壊れ物を扱うように静かに横たえた。
土が再び盛られ、雨の音だけが周囲を支配する中、その墓標の上に置かれたのは、彫刻も、名前も、日付すら一切刻まれていない、ただの無地の「白い石碑」であった。
オルテシアは、腰元からあの細身の短剣を抜いた。
かつて本物の令嬢の心臓を貫き、今や新当主オルテシアの護身用として握られている、鋼の牙。
その鋭い刃先を白い石の表面に押し当て、無言で、一輪の薔薇の輪郭を削り刻んでいく。
ガリガリと、濡れた石が削れる硬い音が、しめやかな雨の音に混じって響く。削り出された白い粉が、雨水に流され、泥に吸い込まれて消えていく。
やがて、歪ながらも美しい薔薇が石碑に刻まれた。
オルテシアは短剣を鞘に収め、濡れた指先で、薔薇の傷跡にそっと触れた。
「……おやすみなさい、オルテシア」
極小の囁きは、雨の冷気の中に溶け、誰の耳に届くこともなく消え去った。
一歩下がった影の中から、ギルベルトは泥に汚れたオルテシアの横顔を、暗く、吸い込まれるような執着の瞳で見つめ続けていた。彼女が背負った「原罪」の重さこそが、彼女を自分だけの檻に繋ぎ止める鎖であることを、彼は誰よりも深く理解していたからだ。




