第006話:血まみれの紙切れが、すべてを”正当”にした
木桶の水中で、ジュリアンの四肢の小刻みな震えが、ふっと消えた。革紐で縛られた背の硬直が緩み、力なく水底へと沈んでいく。
「書く! 書くから、その子を離しなさい……!」
エレノアが喉を掻き切るような金切り声を上げ、額を冷たい石畳に強く打ち付けた。
私が無言のまま、伏せていたまぶたをゆっくりと持ち上げると、背後にいたギルベルトが即座に動いた。
彼はジュリアンの金髪を鷲掴みにし、力任せに水面から引き揚げる。
ドシャッ、と重い音を立ててジュリアンの体が絨毯へと放り出された。ジュリアンは喉元を激しく上下に収縮させ、何度も肺を破らんばかりに激しく咳き込む。その唇からは、白濁した泡と胃液の混じった冷水が、床へと無様に吐き散らされた。
「ジュリアン……、ああ, ジュリアン……」
エレノアは縛られた体を這わせ、濡れそぼった顔を床に擦りつけながら息子へと近づこうとする。彼女の目蓋は赤く腫れ上がり、見開かれた瞳の奥には網の目のように赤い血走が浮き上がっていた。
私は机に置いていた羊皮紙の譲渡証書を、足元で震えるエレノアの目の前へと、静かに落とした。
「それでは、どうぞ」
ギルベルトが、ジュリアンの拘束紐を解くことなく、右腕だけを無理やり引きずり出す。そして、その手に無理やり羽ペンを握らせた。
「……っ、う……、ぁ……」
ジュリアンは焦点の定まらない両目を彷徨わせ、指の関節を痙攣させながら、何度も羽ペンを床に落としかける。その度にギルベルトの強靭な指が、彼の爪が剥がれんばかりの力で握り直させた。
ジュリアンが震える筆跡で、歪んだ自署を羊皮紙の末尾に書き終える。
ギルベルトは間を置かず、その腰から細身のダガーを抜いた。
閃光。
刃の先端が、ジュリアンの右親指の腹を浅く切り裂く。
「ひ、あうっ!」
ジュリアンが短い悲鳴を上げる。切り口から湧き出た赤黒い血の球が、ジュリアンの指頭を急速に覆っていく。ギルベルトはその親指を掴み、羊皮紙の末尾、あらかじめレジナルドの印章が押された真っ赤な封蝋のすぐ横へ、力任せに押し当てた。
羊皮紙の上に、ぬめりとした血の跡が、歪な円を描いて刻印される。
「次は、叔母様。あなたですわ」
私、一切の光を反射しない固定された灰色の瞳で、エレノアを見下ろした。私の左右の口角は完璧な対称を保ったまま、微動だにしない。
エレノアは唇を血が出るほどに噛み締め、激しく肩を揺らしながら、息子の自署の隣に自らの名を書き殴った。続けて、ギルベルトによって引き裂かれた彼女の指先からも、真っ赤な鮮血が吸い込まれるように羊皮紙へと押し付けられる。
本家クレイ家のすべての家督、土地、および財産を、分家令嬢オルテシア・クレイへと完全に譲渡する。
血まみれの署名が並ぶ、完璧な公的文書がここに完成した。
*
ギルベルトは机の上に、本家の執務室の隠し金庫から強奪したばかりの重い革袋を、音を立てて並べた。
紐を解くと、中から眩いばかりに磨かれた金貨と、怪しい光を放つ青色の魔石が、ジャラジャラと机の上に溢れ出る。本家が長年、分家を徹底的に搾取して溜め込んできた富の残骸だった。
そして私の手元には、もう一つの革袋がある。
中に入っているのは、本家事務官が命がけで運んできた『搾取の裏帳簿』だ。
私はその帳簿の角を細い指先でつまみ、パラパラと頁をめくる。そこには、クレイ家が過去に行ってきた違法な搾取の証拠、隠し資産の預け先が、レジナルドの文字で克明に記録されていた。
「主。そちらは――」
ギルベルトが、静かに私に問いかける。
「過去の汚らわしい記録など、新生クレイ家には不要ですわ。――これより、この家を統べるのは私だけですもの」
私は、その帳簿を、背後でパチパチと音を立てて燃え盛る暖炉の炎の中へと、躊躇なく投げ入れた。
赤黒い炎が、羊皮紙の束を一瞬で包み込む。
熱に煽られた頁が黒く縮み、火花を散らしながら、一文字、また一文字と、過去の罪を灰へと変えていく。
私は、暖炉の橙色の炎が不規則に揺らめき、不気味に反射する自らの瞳を、じっと燃え盛る帳簿に向け続けていた。
私の左の口角だけが、ごくわずかに非対称に引き上がり、ほんの数ミリだけ白い歯が覗く。
本家が分家を縛るための『首輪』はすでに私の手の中にあり、そして本家を社会的に抹殺するための『弱み』は、今、ただの灰へと姿を変えた。これによって、私が本家を強奪したという証拠もまた、完全にこの世から消滅したのだ。
私は暖炉に背を向け、床の上で寄り添って震える親子を見据えた。
「ギル、お掃除を」
私はドレスの裾を揺らし、一寸の無駄もない滑らかな歩調で、執務室の廊下へと歩みを進めた。私の目蓋は優雅に伏せられたまま、一歩一歩の足取りにミリの躊躇もない。
「オルテシア! 待ちなさい! 私たちは――」
背後でエレノアが叫ぶ声を、重い木製の扉が静かに遮断する。
直後、部屋の奥から、ギルベルトがダガーを抜く金属音が、豪雨の音に紛れて短く響いた。
続いて、肉を深く裂く湿った音と、短い息詰まりの音。
廊下に佇む私の耳に届いたのは、それだけだった。数秒の後、ギルベルトが扉を開けて廊下へと現れ、血の付着していないダガーを音もなく鞘へと収めた。その無表情な顔には、一滴の返り血すら付いていない。
「すべて、主の仰せの通りに。前当主一族は、深夜の嵐による落雷、および火災、あるいは急病による不幸な事故として……処理いたします」
「お見事ですわ、ギル」
私は、完璧に弛緩した無表情のまま、暗い廊下の先にある、本家の最奥へと歩き続けた。
*
嵐は去った。
雲の切れ間から、低く重い灰色の朝光が、クレイ城の広大な謁見の間に差し込んでいた。
広間の石畳の上には、深夜のうちに兵舎に閉じ込められ、夜明けとともに武装を解除された本家の私兵や、血の気の引いた事務官たち、総勢三十名以上が、一糸乱れぬ様子で整列させられていた。
彼らの周囲を、ギルベルトが掌握した十五名の猟兵たちが、矢を番えた強弓を持って静かに包囲している。
兵舎を外から閂で封鎖され、戦う手段すら奪われたまま夜を明かした私兵たちの肩は、極限の疲労と恐怖で小刻みに震えていた。
そのひりつく静寂の奥から、私がゆっくりと姿を現す。
私は、本家当主のみが座ることを許された、重厚な黒石の玉座へと、優雅な所作で腰を下ろした。
私の両手は、玉座の肘掛けに静かに置かれ、指の関節は完全に弛緩している。眉は一切動かず、左右に対称に保たれたまま、跪く人々を冷たく、ただ静かに見下ろしていた。
ギルベルトが、彼らの目の前で、血まみれの署名と血判が鮮明に刻まれた「家督譲渡証書」を掲げて見せる。
「クレイ本家当主レジナルド, およびその妻子は、深夜の落雷による火災に巻き込まれ、非業の死を遂げた。しかし、レジナルド様は死の間際、己の不徳を恥じ、正当な血統たるオルテシア様へ、すべての家督と財産を禅譲するとの血判状を残された」
広間に、ざわめきすら起こらない。
あまりにも完璧に用意された譲渡証書。そして、前当主一族の「不審死」という、逆らう者に待ち受ける冷酷な現実。何より、目の前で静かに微笑む、一滴の返り血すら浴びていない少女が放つ、得体の知れない覇気。
私兵の隊長が、じっと私の無表情な灰色の瞳を見つめた後、深く息を吐き出して、カラン、と自らの手甲を床へと落とした。
それを合図に、三十名以上の本家の私兵、事務官、召使いたちが、次々と冷たい石畳に膝を突き、額を強く擦りつけて平伏していく。
「――オルテシア・クレイ様。我が剣と命を、新生クレイ家に捧げます」
広間に、ひれ伏す人々の波が広がっていく。
朝光を浴びながら、私は完璧に静止した瞳で、その光景を見下ろしていた。彼らの目には、この静寂こそが、底知れない統治者の器に見えているに違いない。
ここに、クレイ家のすべての経済、武力、および土地の完全強奪が完了した。
血で購われた支配の印は、今、完璧な正当性を持って私の掌へと握られたのだ。――だが、これはまだ、盤上の最初の一手を動かしたに過ぎない。




