第005話:冷たい水をお腹いっぱい、召し上がります?
叩きつける豪雨が防壁の石を穿ち、濡れた獣毛と錆びた鉄、そして雷鳴に震える大気の匂いが肌を刺す。
城門の銃眼から突き出された松明の炎が、不規則に爆ぜて赤黒い光を弾いていた。
「待て……。お前、その顔は――どこかで――」
壁の上から身を乗り出した見張りの長が、不審そうに目を細めた瞬間。
馬上のギルベルトは一寸の予備動作もなく、右肩から肘にかけての筋肉を鋭く駆動させた。
閃光。
豪雨を切り裂いて放たれた細身のダガーが、防壁の隙間を吸い込まれるようにすり抜け、見張りの長の喉笛へと寸分の狂いなく突き刺さる。
「が、――ッ!?」
言葉にならない湿った空気が喉から漏れ、松明が泥水の中へと落下してジュッと音を立てて消えた。
それを合図に、闇に沈んでいた木々の隙間から、五つの風切り音が同時に鳴り響く。
壁の上に並んでいた数名の歩哨たちは、声を上げる間もなく喉や額を射抜かれ、石畳の上へと崩れ落ちていった。
ギルベルトは即座に馬から飛び降りると、後続の猟兵二人の肩へと足をかけ、そびえ立つ石壁のわずかな凹凸に指先を引っ掛けて跳躍した。
野獣のような俊敏さで銃眼へと這い上がり、そのまま内側へと音もなく滑り込む。
数秒の後、ギ、ギギ……と、油の切れた重い摩擦音を立てて、巨大な城門の閂が内側から静かに引き抜かれた。
開かれた鉄の門の向こう側から、ギルベルトが暗闇に向かって無言で手を振る。
本家クレイ城の、あまりにも呆気ない陥落の瞬間だった。
侵入した十数名の混成部隊は、ギルベルトの合図とともに中庭の闇へと散った。
彼らが向かったのは、本家私兵たちが寝静まる石造りの兵舎だ。
木製の頑丈な両開き扉の外側、その受け金具に対し、あらかじめ用意していた太い閂が滑り込まされる。金属音が響かぬよう、慎重に、かつ深く。
扉の隙間からは、酒臭い吐息といびきが漏れ聞こえていた。閉じ込められたことすら、誰も気づいていない。
退路と反撃の芽を完全に断ったギルベルトは、無言で顎を引き、奥の居住棟へ進むよう猟兵たちに手で示した。
*
豪奢な天蓋付きのベッドから漂う、高価なラベンダーの香水と、温かい蜜蝋の匂い。
本家当主代行を気取る長男ジュリアンと、その母エレノアは、嵐の羽音に包まれて泥のような眠りに落ちていた。
その寝室の扉が、音もなく開く。
忍び寄った影は、二人が目を開けるよりも速く、その口を厚手の布で塞ぎ、手足を革紐で硬く縛り上げた。
ジュリアンが恐怖で目をむき、鼻を鳴らして暴れるが、ギルベルトに顎を強打されて一瞬で意識を失う。
二人は無様にシーツごと床へと引きずり下ろされ、引きずられるようにして本家の執務室へと連行された。
ドサッ、と湿った音が静寂を破る。
床に転がされた二人の頭上へ、猟兵たちが冷水をなみなみと湛えた大振りの木桶を運んできた。
境界の森の底から汲み上げられた、氷のように冷たい井戸水だ。
「――やれ」
ギルベルトが冷酷に命じる。
猟兵たちが、ジュリアンとエレノアの濡れた髪を力任せに掴み、木桶の冷水へとその顔面を容赦なく沈め込んだ。
「ぷはっ! ごほっ、ごほっ、う、うあああっ!?」
急激な窒息と凍えるような冷たさに、ジュリアンは急激に瞳孔を散開させ、鼻から大量の水と気泡を吹き出しながら激しくのたうち回った。
エレノアもまた、濡れ鼠のまま小刻みに唇を震わせ、引き攣った目尻を怒りに染めて絶叫する。
「な、何者だ! 私たちはクレイ本家の人間だぞ! この泥棒猫どもめ、ただで済むと思うな!」
喚き散らすエレノアの前に、一滴の雨粒すら浴びていない、純白のドレスを纏った私が悠然と歩み出た。
私は彼らには目を向けず、机の上に置かれた『分家の金庫の予備鍵』を指先でなぞる。
そして、袂から一枚の羊皮紙を取り出し、濡れた床の上に転がる二人の目の前へと、ゆっくりと滑らせた。
「お久しぶりですわ、エレノア叔母様、ジュリアン兄様。……ご機嫌麗しゅう」
私の唇は横一文字に結ばれたまま、眉の力は完全に抜かれ、まぶたは穏やかに伏せられている。
しかし、その薄い睫毛の奥にある灰色の瞳だけは、一切の光を反射せず、冷たく固定されていた。
「な……オルテシア……!? なぜお前がここに……!」
ジュリアンが、床に這いつくばったまま、驚愕で顎をがたがたと震わせる。
「叔母様たちの書いた計画書は、本当に素晴らしいものでしたわ。ただ、少々宛先が間違っておりましたの。ですから、私の方で少しだけ……手直しをさせていただきました」
床に滑り落ちた羊皮紙には、レジナルドの完璧な直筆と印章、そして『本家の家督と全財産を、正当な血統たる分家令嬢オルテシアへ禅譲する』という公式な譲渡証書が記述されている。
「お父様はどこだ!」
「レジナルドはどうしたの!」
取り乱した親子が、交互に悲鳴に似た叫びを上げる。特にエレノアは、濡れた薄い唇を激しく歪め、狂乱した眼差しで私を睨みつけていた。
「レジナルド様は、ご自分の罪の重さに耐えかね、分家の食堂にて瓦礫の下敷きになりお亡くなりになりましたわ。……ああ、お可哀想に」
「嘘を言うな! そんなはずが――」
ジュリアンが身を起こそうとしたその瞬間、私は首をほんの数ミリだけ横へと傾けた。
ただ、それだけの合図。
ギルベルトの強靭な手が、ジュリアンの後頭部を上から鷲掴みにした。
そして、何のためらいもなく、ふたたび冷水の張られた木桶の中へと、その顔面を力任せに押し戻した。
バシャバシャと、激しい水音が執務室に響き渡る。
顔面を沈められたジュリアンは、革紐で縛られたままの手足を床の上で狂ったように悶えさせ、のたうち回った。激しく跳ねる背や足が、木桶から溢れ出た冷水を四方へと飛び散らせ、高級な絨毯に黒い濡れ染みを急速に広げていく。
木桶の底から、ゴボゴボと巨大な気泡が湧き上がり、やがてその間隔が少しずつ、少しずつ長くなっていく。
「ジュリアン! やめて、離しなさいこの狂犬め! オルテシア、あなた正気なの!?」
エレノアが涙と泥にまみれた顔を歪め、絶叫する。
私は彼女の罵声を一切耳に入れないように、弛緩した無表情のまま、暖炉の前に佇んでいた。
暖炉の橙色の炎が、光のない私の瞳を白く照らし出す。
やがて、水中のジュリアンの動きが目に見えて弱まり、痙攣するように体が小刻みに震え始めた。
「署名と、そちらの血による捺印をいただけますかしら? ……それとも、このままこの桶の中で、冷たい水をお腹いっぱいに召し上がります?」
私は完璧に対称に引き上げられた口角で、冷徹な微笑を浮かべたまま、エレノアを見下ろした。




