第004話:雨夜の騙し討ち
瓦礫の隙間から立ち上る白い石灰の粉塵と、じっとりと湿った黒土の混ざり合う匂い。
夜明けの空は分厚い灰色の雲に覆われ、容赦のない冷たい雨が、崩壊した食堂の無残な姿を濡らし続けていた。
「……お、お許しください、お嬢様……! 私たちはただ、本家の命令に従っただけで……!」
生き残った分家のメイドや従者たちが、ぬかるんだ地面に膝を突き、歯をガタガタと鳴らしながら平伏している。
私は彼らには一瞥もくれず、白磁の肌に一滴の汚れもないドレスの裾を揺らし、瓦礫の山へと歩み寄った。
崩れ落ちた巨大な支え梁の下に、押し潰された男の残骸がある。
本家当主、レジナルド・クレイ。
ほんの数時間前まで、クレイ家のすべてを奪い取ったと確信し、醜悪な笑みを浮かべていた男の末路だった。
私はレジナルドの潰れた右手を冷徹に見下ろし、泥と脂にまみれたその薬指から、鈍い輝きを放つ「印章指輪」を容赦なく引き抜いた。
指輪の溝にこびりついた赤黒い血を、シルクのハンカチで上品に拭い取る。
「これで、本家を動かす『大義』は、すべて私の手元に揃いましたわ」
背後に音もなく佇んでいたギルベルトが、静かに頭を垂れる。
「主。夜のうちに、領地で燻っていた領兵や、森の猟番、荒くれ者たちを掌握いたしました。計十五名。いずれも本家の搾取に牙を研いでいた、動かせる手駒です」
「お見事ですわ、ギル。――さあ、休む暇はありませんわよ。本家が主人の死を察知する前に、クレイのすべてを強奪するといたしましょう」
*
薄暗い書斎に、羽ペンの鋭い擦過音だけが規則正しく響いていた。
私は、レジナルドの生前の直筆の書状を横に置き、彼の筆跡を完璧にトレースしながら、羊皮紙へ文字を紡いでいく。
焦りから生まれる特徴的な文字の乱れ、筆圧の癖。
現代の文書鑑定技術すら騙し通せるほどの完璧な「偽筆」が、またたく間に仕上がっていく。
『計画通り、分家令嬢オルテシアは自殺した。ただちに全財産の接収作業に移る。本家執務室にある「裏帳簿」と、分家の金庫を開けるための「予備鍵」をすべて持ち、大至急、信頼できる事務官と最小限の護衛で分家へ持参せよ』
手紙の末尾に、先ほど剥ぎ取ったレジナルドの印章を、真っ赤な封蝋へと深々と押し当てた。
私は、昨日捕らえた本家の私兵のうち、泥に額を擦りつけて命乞いをする男の顔を覗き込み、眉の力を抜いて、左右の口角を完璧な対称を描くように引き上げた。細められた目尻は穏やかに下がり、ほんのわずかに開いた唇の隙間から白い歯が覗く。だが、その細められた瞼の奥にある灰色の瞳だけは、一切の光を反射せず、冷たく据え置かれていた。
「本家の残党――エレノア叔母様と、従兄のジュリアンに、この手紙を届けなさい。もし一文字でも余計なことを口にすれば……あなたの家族がどうなるか、言わなくても理解できますわね?」
男は顔面を蒼白にし、何度も頭を地面に叩きつけて、偽の手紙を抱え本家へと馬を走らせていった。
チェスの最初の一手は、すでに放たれた。
*
鬱蒼とした黒い木々が立ち並ぶ、分家と本家を隔てる「境界の森」。
昼なお暗いこの森に、激しい雨音がドラムのように鳴り響き、視界を著しく奪っている。
ぬかるんだ泥道を、五名の重装騎兵に護衛された一隊が、急ぎ足で駆け抜けようとしていた。
中央に挟まれるようにして必死に馬を走らせているのは、本家の筆頭事務官。
まんまと偽の命令書に踊らされ、本家が分家を縛るための首輪であった『予備鍵』と、本家の致命的な弱みである『裏帳簿』を抱えてノコノコと這い出てきた、哀れなネズミだ。
「おい、もっと馬を急がせろ! レジナルド様がお待ちかねなのだ!」
事務官が手綱を握る手を震わせ、苛立たしげに叫んだ、その瞬間。
シュッ――。
雨音に紛れ、鋭い風切り音が響く。
先頭を走っていた騎兵の喉笛を、冷徹な銀の矢尻が狂いなく貫いた。
男は言葉を失い、喉から真っ赤な飛沫を上げて落馬し、泥の中へと転がり落ちる。
「敵襲――!? どこからだ!」
護衛たちが即座に武器を抜くが、彼らの目は激しい雨と暗闇に遮られ、周囲の木々を捉えることができない。
シュッ、シュッ。
さらに二本の矢が虚空から飛来し、それぞれ別の護衛の眉間と胸を容赦なく射抜いた。
悲鳴すら上げられず、泥の中に沈む肉体。
見えない狙撃手。その圧倒的な恐怖に、生き残った護衛たちの足が完全に凍りついた。
どこを向いても、次に死ぬのは自分かもしれないという恐怖が、彼らの反撃の意志を根こそぎ奪い去る。
「ひ、ひいいっ!」
恐怖の極限に達した護衛が、武器を捨てて逃げ出そうとした、まさにその影から。
濡れた黒髪を揺らし、ギルベルトが滑り込むように現れた。
その左手には、細身のダガー。
彼は馬から滑り落ちて逃げ惑う護衛の背後に回り込み、一言の叫びも許さず、喉元を深く掻き切った。
続けて、恐怖で落馬し、泥まみれで震える事務官の胸へと、ためらいなく刃を深く突き刺す。
「レ、レジナルド様……なぜ……」
事務官は血の泡を吐きながら絶命した。
ギルベルトは、事務官の胸ポケットから「分家の金庫の予備鍵」と、革袋に厳重に包まれた「長年の搾取の裏帳簿」を、手際よく回収する。
「主の仰せの通り。……これで、本家の牙はすべて抜けました」
ギルベルトは、同行させていた猟兵たちに鋭い視線を向けた。
「死体から鎧と衣服をすべて剥ぎ取れ。我らが『本家の護衛』に成り代わる」
*
深夜。
クレイ本家の本拠地であり、分家から吸い上げた富で築かれた、そびえ立つ石造りの要塞――「クレイ城」。
激しい雷鳴が轟き、荒れ狂う雨風が巨大な鉄製の城門を叩きつけていた。
門の見張り台には、雨を避けるようにして数名の本家衛兵が、怠惰に佇んでいる。
立派な要塞の鉄門があるがゆえの油断。有事の際には奥の兵舎から増援が駆けつける算段なのだろうが、深夜のこの豪雨の中では、彼らの警戒も極めて緩いものだった。
その闇の奥から、数騎の馬影が近づいてきた。
いずれも本家私兵の鎧を身に纏い、深く兜を被った者たちだった。
「止まれ!こんな大雨の深夜に、何者だ!」
見張りの長が、壁の上から松明を突き出し、不審そうに叫び声をあげる。
馬上の先頭に立つ男――兜の隙間から濡れた黒髪を覗かせたギルベルトが、冷徹な声で答えた。
「レジナルド様の使いだ! 分家令嬢の遺体を無事に回収した! 至急、屋敷の引き渡し手続きを行うため、残存兵を連れて戻った。門を開けろ!」
ギルベルトは、レジナルドの印章が刻まれた指輪を、松明の光にかざして見せる。
見張りの長は、その指輪を確認し、一度は頷きかけた。
しかし、彼はギルベルトの馬の足元、そしてその背後に控える「護衛」たちの不自然な佇まいに、怪訝そうに目を細めた。
本家の私兵にしては、泥の汚れ方が尋常ではない。
何より、漂う「凄み」が違いすぎる。
見張りの長は、ゆっくりと腰の剣の柄へと手をかけ、松明をさらに身を乗り出してギルベルトの顔へと近づけた。
「待て……。お前、その顔は――どこかで――」
雷光が、ギルベルトの鋭い灰色の瞳を白く照らし出す。
ギルベルトの手が、鎧の隙間に隠したダガーへと、音もなく伸びていく。
心臓の鼓動と、激しい豪雨の音だけが、深夜の要塞に響き渡っていた。




