第003話:「文句は、ありませんわね?」――親族、全滅
湿った黒土と、ひんやりとした古い石壁の匂い。深夜の勝手口には、凍てつくような夜風が微かに吹き込んでいた。
静寂を裂くように、十数人分の、忍び寄る革靴の擦過音が響く。
彼らは本家が放った私兵――暗闇に紛れて、無力な分家令嬢を「首吊り自殺」に仕立て上げるために送り込まれた猟犬どもだ。
「――行け。泣いて震える小娘を吊るすだけだ。容易い仕事だわ」
先頭の男が囁き、狭く急な石造りの通用階段へと足を踏み入れた、その瞬間。
前衛の数人が、まるで氷の上を走ったかのように、不自然に宙を舞った。
「なっ――うわああかっ!?」
彼らが踏み抜いたのは、オルテシアが今朝のうちに撒かせておいた、滑り止めの効かない濃厚な「獣脂」の地。
摩擦を失った足が虚空を蹴り、鎧の重みで重なり合うように転がり落ちていく。
だが、それは地獄の入り口に過ぎない。
崩れた彼らの足元が、あらかじめ仕組まれていた細い引き糸を引っ掛けた。
ゴトッ、と。
頭上から、冷酷な物理の駆動音が響く。
固定を失った巨大な木製の梁と、重量のある鉄の閂が、重力に従って石段の狭い空間へと容赦なく自由落下した。
ベキベキと、骨が圧し折れる生々しい破砕音が狭い通路に反響する。
不意の蹂躙に、後続の私兵たちがパニックを起こし、蜘蛛の子を散らすように退路を探してのけぞった。
その、完全に足の止まったキルゾーンへ。
シュッ――。
暗闇を裂き、一本の矢が風を切って飛来した。
悲鳴を上げようとした男の喉笛を、銀の矢尻が狂いなく貫き、言葉ごと壁に縫い留める。
シュッ、シュッ。
どこから放たれたのかも分からない、音のない死。
見えないスナイパーの存在を認識した瞬間、生き残った野盗たちの全身に凄まじい戦慄が走った。
足が一歩も動かない。どこを向いても、次に貫かれるのは自分の眉間かもしれないという、底知れない恐怖。
「怯むな! 応射しろ! どこから撃って――」
指示を飛ばそうとした副首領の額の真ん中に、冷徹な三本目の矢が突き刺さる。
恐怖が極限に達し、武器を投げ出して逃げようとした者たちを、闇から滑り出たギルベルトが左手の剣で機械的に刈り取っていった。
*
深夜の書斎。
床には、辛うじて息のある野盗の首領が、血まみれで組み伏せられていた。
「……お、俺たちは、本家の、レジナルド様に頼まれただけだ……! お嬢様を絶望による首吊り自殺に見せかけて処理しろと……!」
私は、汚れ一つない純白のドレスの裾を優雅に揺らし、机の背後で完璧なレディの微笑みを湛えたまま、彼を見下ろした。
「ご協力、感謝いたしますわ。おいたわしいことに、本家は随分と強欲でいらっしゃるのね」
私はギルベルトに目配せをする。
彼は即座に、本家への「遺言書」――否、本家からの直接の暗殺命令があったことを細微に渡って告白する代筆の嘆願書を、完璧な文字で書き上げた。
「ここに、あなたの血を分けていただけますかしら?」
ギルベルトが首領の血まみれの指を掴み、力任せに嘆願書の末尾へと押し当てる。
べっとりと、赤い血の指印(血判)が押された。
この「夜襲の告白」を血で染めた嘆願書さえあれば、レジナルドたちを嵌め殺すための最後のピースは揃う。
「よくできましたわ。ギルベルト、お掃除を」
「御意」
ギルベルトは懐から小振りなダガーを抜き放つと、躊躇なく首領の喉元を深く掻き切り、さらにその刃を心臓の奥へと突き刺した。
びくりと痙攣した首領の身体から、やがて完全に力が抜ける。
懐事情の厳しいクレイ分家において、長年手入れを重ねた愛刀は騎士の命に等しい。こんな無駄な暗殺のために、骨まで断ち切って刃こぼれさせるなど愚行の極みだ。
何より、首と胴体が泣き別れになっては、後で死体を人目に触れず運び出す際に不便極まりない。
そんな騎士としての、あるいは極めて合理的な都合に基づいた、無駄のない死の処理。
私は眉一つ動かさず、ギルベルトに問いかける。
「ギル。我が分家において、あなた直属の、本当に信頼できる領兵は何人いまして?」
「……恥ずかしながら、わずか五人です、我が主」
五人。
本家が明日連れてくる私兵は、少なくとも三十人を超える。
まともに戦えば、非効率な犬死にだ。
「たった五人で立ち向かうのは、無駄以外の何物でもありませんわね。……ギルベルト、今夜のうちに分家の中で燻っている者をかき集めなさい。
本家に搾取され、復讐を誓う領兵、森の獣を狙撃できる猟番、腕の立つ荒くれ者。金でも、弱みでも、復讐心でも構いませんわ。適材適所に置けば、泥水だって極上の毒薬に変わるものですわ」
「……なるほど。畏まりました。必ずや、夜明けまでに必要な手駒を揃えてみせましょう」
ギルベルトは瞳の奥に狂信的な熱を宿し、夜闇へと消えていった。
*
翌朝、早朝。
黄金色の朝光が、食堂の重厚なオーク材の扉を照らしていた。
そこに現れたのは、分家の全財産没収を宣言しにやってきた、本家の強欲な親族たち。
三十名を超える重装備の私兵を率い、彼らは「勝者の笑み」を浮かべて扉を乱暴に押し開けた。
「おい、絶望に震える小娘はどこだ! ……ひっ!?」
本家当主、レジナルド・クレイが放った勝ち誇った声が、喉の奥で引き裂かれた。
食堂の中央。
天井の梁から太いロープが下がり、その先には――首を吊られ、完全に冷たくなった「本物のオルテシア・クレイ」の死体が、虚ろな瞳で彼らを見下ろしていた。
「おお……! やった、本当に自殺していやがる!」
「あの弱虫の小娘め、毒殺を免れても結局は絶望に耐えかねて首を吊ったか!」
本家の親族どもは、自分たちの計画通りに分家令嬢が死んでいるのを見て、狂喜乱舞した。
彼らは懐から「全財産譲渡の合意書」を取り出し、その死体に署名(指印)をさせるべく、食堂の中央へと一斉になだれ込む。
私兵たちもまた、主人の勝利に油断し、食堂の奥へと密集していった。
(――本当に、愚かで、都合の良いネズミたちだわ)
食堂の二階、飾り格子の隙間からそれを見つめながら、私は冷徹に、ロープを握るギルベルトへと合図を送った。
今朝のうちに、ギルベルトとかき集めた猟兵たちによって、食堂の天井の支持梁はギリギリまで削られ、細工を施されていた。
「落としなさい」
ギルベルトが固定用の太いロープを、容赦なく解き放つ。
ドゴォォォン!!!
凄まじい地鳴りのような重低音とともに、石造りの頑強な天井板と、巨大な支え梁が、一瞬で崩落した。
歓喜に沸いていた本家の親族、そして密集していた三十人以上の私兵たちは、逃げる間もなく、数トンの瓦礫の下へと無様に圧し潰された。
ゴホゴホと、舞い上がる白い埃の奥から、絶叫と血を吐く呻き声が響き渡る。
辛うじて這い出てこようとする生き残りの私兵たち。
だが、その頭上から、二階の通路や窓際に配置された「猟兵」たちの弓が一斉に鳴り響いた。
シュッ、シュッ、と。
傷つき、身動きの取れない敵兵を、ギルベルトがかき集めた猟番たちが、まるで行き倒れの獣を仕留めるように、冷徹に射貫いていく。
わずか十数人の混成部隊でありながら、地の利と完璧な配置(罠)により、三十人以上の重装兵が、一一片の反撃も叶わずに殲滅されていく。
やがて、絶叫が途絶え、食堂に静寂が戻る。
立ち込める埃と、瓦礫を赤く染める血の匂い。
その惨劇の真っ只中へ、私は白磁の肌に一滴の汚れもなく、優雅に歩み出た。
その背後には、狂気的なまでの忠誠を双眸に宿したギルベルトが控えている。
「皆様、ごきげんよう」
私は、怯え、震えながら扉の隙間から覗き見ていた、生き残りの分家メイドや従者たちに向かって、非の打ち所がない美しい微笑みを向けた。
「今日より、この私がクレイ家のすべてを統治いたします。……不服は、ありませんわね?」
本物のお嬢様の死体の前で、ギルベルトが音もなく跪き、主君の足元へと深く頭を垂れた。
それを見た領兵たち、そして震えるメイドたちが、目の前の「圧倒的な支配者」の力に魂を奪われたように、次々とその場に平伏していく。
こうして、弱小貴族「クレイ」は、私という支配者を得て、世界を飲み込む怪物へと変貌を始めたのだ。




