第002話:喉元の刃より、私の舌の方が鋭い
木彫りの重厚な本棚が整然と立ち並ぶ、深夜の書斎。青白い月光が、空気中に静かに舞う埃を冷たく照らし出している。
古いインクと乾燥した羊皮紙の匂い、そして、首元に押し当てられた鋼の冷え切った匂いが、喉の奥をかすかに刺激した。
私の頚動脈を捉える鋼の刃は、皮膚の産毛をかすめるほどの鋭さを持っていた。
押し当てられた切っ先から、氷を直接押し付けられたような、鋭利な冷たさが首筋へと伝わってくる。
「あら、手荒いご挨拶ですわね」
私は指先ひとつ動かさず、ただ背筋を伸ばしたまま、優雅に言葉を紡いだ。
「そんなに冷たいおもちゃを向けられては、お話もしづらいですわ。ギルベルト」
背後に佇む男の、わずかに張り詰めた呼吸を感じ取る。
ギルベルト。
クレイ男爵家に仕える、若き騎士。
傍系の生まれであるがゆえに、私腹を肥やす親族どもから都合のいい猟犬として冷遇され、牙を隠して燻っていた。
だが、その冷徹なまでの事務処理能力と、剣の冴えは本物だ。
私が最も欲していた、適材適所の「右腕」に据えるべき極上の人材。
「とぼけるな。お前は誰だ」
耳元で、硬く冷え切った低い声が響いた。
刃の圧力は微塵も揺るがない。
ほんのわずかでも私が不審な動きを見せれば、その瞬間に首筋を断ち切るという、絶対の意志が宿っている。
「お嬢様は、他人の魂を瞬時に凍りつかせるような、そんな圧倒的な冷気を放ち、蛇のように人を射すくめる眼光など持ち合わせていない」
ギルベルトは静かに、しかし獲物の急所を睨み据える狼のような眼光を私に浴びせていた。
「昨晩まで怯えて死を待つだけだった少女が、たった一日で他者を精神的に完全支配するような立ち振る舞いができるはずがない。――お嬢様をどこへやった」
喉がかすかに鳴り、彼が渇いた唾を飲み込む気配が伝わる。
今朝の食堂で、メイドのリンを沈黙させた私の「冷気と眼光」。
その僅か一日での決定的な変貌から、この男は目の前にいる少女が『偽物』であると確信し、ここに立っている。
私は、首筋を刃に押し当てたまま、ゆっくりと、しかし一切の怯えなくギルベルトの方へ首を傾けた。
銀の刃先が、白磁の皮膚にわずかに食い込む。
じわりと、熱い一滴が鎖骨を這い、ドレスの襟元を赤く染めていく。
だが、私の呼吸は平原の凪のように、どこまでも静かだった。
「今すぐその冷たい鋼で私の首を切り裂くのが望みなの?ギルベルト?」
私は、彼の端正な顔を見つめ返し、唇の端をかすかに吊り上げてみせた。
「そして、クレイ家への忠義を果たしたと、満足げに微笑むの?」
「……何が言いたい」
「私が死ねば、数日後には本家がこの分家を処刑台へ送り、全財産を没収しますわ。当然、その手先として使われていたあなたも、ただの罪人の手下として、無様に首を括るだけ」
私は、首筋を滑らせるように、彼の剣のフラットな鋼の腹を、指先でそっと押し戻した。
彼の指先が、目に見えないほど微かに震える。
しかし、押し留めるだけの力はそこにはなかった。
「私の言っていることに、何か間違いがあって?」
「……いいや」
「なら、答えは一つしかありませんわね」
私は一歩、彼との距離を詰め、その鋭い灰色の瞳をまっすぐに見上げた。
「あなたほどの逸材が、こんな泥溜めのような男爵家で無様に朽ち果てるのは、非効率極まりない無駄だわ、ギル」
私は彼の耳元に、死神の、あるいは甘い魔性の囁きを吹きかけた。
「私と共にこの泥を啜り、この分家を丸ごと強奪し――やがて、この世界を食い荒らす共犯者になりなさい」
その瞬間、ギルベルトの背筋を、強烈な電流のような衝撃が突き抜けた。
彼がずっと探し求めていたもの。
傍系として見下され、錆びついた古い身分の壁に阻まれ、無駄に腐り果てるのを待つだけだった彼が、心の底から渇望していた「真の主君」。
偽物か、本物か。
そんなことは、もはやどうでもよかった。
自分を完璧に理解し、支配し、最も輝く場所へ配置しようとするこの底知れない知性と器。
この御方の下でなら、自分の牙を、そのすべてを解放して戦うことができる。
「……承知いたしました、我が主」
ギルベルトは静かに剣を引き、それを滑らかに鞘へと収めた。
金属の冷たい擦過音が消えると同時に、彼はその場に音もなく膝を突き、深々と頭を垂れた。
その所作には、一切の迷いも、ブレもない。
「クレイ家の一騎士、ギルベルト。これより我が命、我が剣、我が知謀のすべてを、あなたに捧げます」
立ち上がったギルベルトの瞳には、先ほどの殺気は消え失せ、底知れない、しかしどこか執念深い熱を帯びた光が静かに宿っていた。
だが、その絶対の忠誠の裏に、主君をじっと観察し、その一挙手一投足を視線で縛り付けるような暗い独占欲が、極細の糸のように絡みついている。
私は彼の黒髪をそっと、慈愛に満ちた仕草で撫でた。
「ふふ、よくできました。――と、言いたいところですが」
カチャ、と。
深夜の静寂を破り、屋敷の裏手から、夜闇に紛れようとする微小な金属の擦過音が響いた。
ギルベルトは即座に音の方向に鋭い目を向け、剣の柄に手をかける。
「主。本家が放った私兵です。数日後の処刑を待たず、今夜のうちに『絶望した分家令嬢の首吊り自殺』に見せかけて、あなたを処理する気でしょう」
しかし、私は驚くどころか、傷ついた首筋をそっと指で拭い、赤く染まった指先を見つめながら、優雅に微笑んだ。
「知っていますわ。今朝、毒を盛ってきたメイドをあえて泳がせたのは、本家への報告を送らせるためですもの」
「……報告、ですか」
「ええ。あいつらは傲慢だわ。メイドの『蛇のような眼光に脅された』という真実の怯えを、失敗の言い訳だと勝手に解釈し、絶好の好機だと食いついてきた」
本家は、この分家がただ怯えて死を待つだけの羊だと思っている。
だが、仕掛けられた罠は、すでに私の手によって満ちている。
「ずいぶんと、舐められたものね」
私は指先の朱を唇に塗り、ギルベルトに向かって最初の命令を下す。
「ギルベルト。――罠にかかったネズミたちを、逆強襲で一匹残らず片付けにいきますわよ」
「……御意、我が主。素晴らしい盤面をありがとうございます」
ギルベルトが、暗闇の中でもわかるほどの歓喜の笑みを浮かべて剣を抜き放ち、私の前に立つ。
世界を喰らいつくす最強の主従が、今ここにその第一歩を踏み出した。




