第001話:成り代わり、完了
生ぬるい風が、豪奢だが薄汚れた寝室のカーテンを揺らしていた。
ベッドの横に立ち、私はただ、見下ろしている。
少女の胸から、ドクドクと熱い深紅の鮮血が溢れ出し、純白のシーツを瞬く間に鮮やかな赤に染めていく。
少女は、驚愕と、そしてそれ以上に「これで全てから解放される」という諦絶の混じった目で、私の顔を見つめていた。
私は、心臓を貫いた短剣の柄を握ったまま、彼女の鼓動が、その「最後の一打ち」が完全に停止するその瞬間まで、厳かにその最期を看取った。
ドクン……トクン……。
やがて、肉の震えが止まり、世界が静寂に包まれる。
私は短剣を引き抜き、次第に冷たくなっていく彼女の骸を静かに横たえて、その震える指先で、そっと彼女の瞳を閉じた。
「あなたの無念、あなたの身体、そしてこの家の未来――すべて私が引き受けると誓いましょう」
それが、私と彼女との間に結ばれた、血の契約だった。
手についた返り血を乱暴に拭い、私は部屋の隅にある姿見の前に立つ。
鏡の向こうにいたのは、可憐で儚げ、しかしどこか女性をも狂わせるような冷徹な知性を瞳に宿した、美しい「令嬢」の姿。
「私が……私は……オルテシア・クレイ」
*
翌朝。
眩しい朝の光が差し込む食堂で、私は朝食のテーブルについていた。
(これは、見事に嫌われたこと)
背筋をこれ以上ないほど美しく伸ばし、極上のマナーでカトラリーを扱いながら、私は内心で呆れたようにため息をついていた。
周囲に控えるメイドや従者たちの視線が、面白いほどに冷たい。
彼らの瞳にあるのは、主君への敬意ではなく、あからさまな軽蔑と疑心暗鬼。「”お家没落の危機”という非常事態に何もできず、ただ寝台で震えていた無力なお嬢様」に対する底の浅い侮蔑だ。
だが、そんなことはどうでもいい。
問題は、私の前に恭しく差し出された、透き通ったアールグレイの紅茶だ。
差し出した給仕のメイド――確か名前はリンだったか。彼女の手元が、ほんのわずかに震えている。
私はカップを持ち上げ、優雅に香りを嗜むふりをして、その表面を観察した。
日光の加減で、お茶の表面に極めて薄く、虹色の不自然な油膜が浮いている。漂うベルガモットの香りの奥に、ほんのわずか、アーモンドに似た特有の甘い匂い――。
(砒素、あるいはその類の毒か。挨拶代わりにしては、いささか古典的ね)
本物のオルテシアなら、恐怖とストレスのあまり、気づかずに一気に飲み干していただろう。だが、私の目は誤魔化せない。
私はカップをソーサーに戻し、リンに向かって極上の、非の打ち所がない美しい微笑みを向けた。
「リン。少し、お茶の温度がぬるいようです。淹れ直していただけるかしら?」
「え、あ……は、はい! ただちに!」
リンの顔から一瞬で血の気が引く。
彼女は慌ててカップを回収しようとしたが、私はその細い手首を、そっと、しかし逃げられない力で掴んだ。
「おや、そんなに焦らなくてもよろしいのよ? ……次は、もう少し『私好みの味』にしてくださることを期待していますわ」
「ひ、っ……!」
完璧な丁寧語と、品格。しかし、掴んだ手首から伝わる圧倒的な冷気と、逃げ場を与えない眼光に、リンは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
この家は内側から完全に腐りきっている。この家の財産を狙う親族どもに内通している裏切り者が、屋敷のいたるところに潜んでいるのだ。
「うふふ、下がって結構ですわ」
手を離すと、メイドは腰を抜かさんばかりの勢いで、逃げるように食堂から去っていった。
私はそれを優雅に見送りながら、思考を巡らせる。
(タイムリミットは、あと数日。悪逆非道な親族どもが用意した『罠』を全てひっくり返し、この家を完全に掌握する。忙しくなりそうね)
*
その日の深夜。
私は、男爵家の書斎で一人、机の上に広げた領地の地図と帳簿を見つめていた。
月光だけが差し込む静まり返った部屋。
ガサリ、と。
風の音に混じり、極めて微小な、しかし確実に『人間の意志』を持った気配が背後に生じた。
次の瞬間。
私の美しい首元に、冷たく、吸い込まれるような鋭さを持った鋼の刃が突きつけられた。
「動くな」
耳元で響いたのは、低く、しかし驚くほどに澄んだ男の声。
不遇の騎士――”我が”クレイ男爵家において、その卓越した武力と知略を持ちながらも、傍系であるがゆえに冷遇され、腐りかけていた男。
男の刃は、一寸のブレもなく私の頚動脈を捉えている。
本物のオルテシアの「挙動の違和感」に、これほど早く気づくとは。やはり、この男はただの石ころではない。
首筋に押し当てられた刃の冷たさを感じながら、私は恐怖するどころか、体の内側から湧き上がる歓喜を抑えきれずにいた。
私はゆっくりと、首元の刃を無視するように、首を傾けて背後の男を見やる。
完璧なマナーと品格を湛えた令嬢の顔のまま、その口元に微笑みを携えて。
「あら、手荒いご挨拶ですわね」
「そんなに冷たいおもちゃを向けられては、お話もしづらいですわ。ギルベルト」
鏡の向こうの少女は、暗闇の中で、獲物を見つけた猛獣の目で笑っていた。
自らの名前を名乗った記憶が無い騎士の頬に、冷たい汗が一滴流れた。




