第010話:激闘の末に得たのは、忠誠ともふもふだった
刹那――銀の影が爆発的な速度で雪原を蹴った。
長の大木をも容易く両断するであろう、凄まじい風を纏った鋭い爪撃が、オルテシアの頭部を狙って襲いかかる。
オルテシアは現代の肉体格闘技術に基づき、最小限の頭部スウェーでその死線を紙一重で躱した。頬の皮膚を、爪が巻き起こした真空の刃がかすめ、一筋の細い鮮血が白磁の肌に走る。
すぐさま、鋭いアッパー気味のジャブを、長の長い鼻先へ放ち、硬い鼻骨に鈍い衝撃を叩き込む。
だが、長はひるむことなく、その巨躯に似合わぬ神速の身のこなしで、左の鋭い爪を振り抜いた。
バリィッ!
鋭い摩擦音とともに、オルテシアの左腕の黒皮鎧が引き裂かれ、その下の白い肉がざっくりと抉られた。
鮮血が、白い雪原へと赤々と飛び散る。
「我が主――っ!!」
ギルベルトの理性が、その赤い血を見た瞬間に完全に吹き飛んだ。鋭い殺気を放ち、剣を抜いてその一騎打ちへ力ずくで割って入ろうと、足を踏み出す。
「下がれと言いましたわ、ギルベルト!!」
オルテシアは、これまで聞いたこともないような、鼓膜を劈く張り詰めた大声で、鋭くギルベルトを一喝した。
その一喝に、さしものギルベルトも息を呑み、足元を凍りつかせたように動きを止めた。
オルテシアは、抉られた左腕から滴る鮮血を気にかける様子もなく、むしろ、その激痛をアドレナリンで捩じ伏せるように、獰猛で、そしてこの上なく艶やかな淑女の笑みを浮かべた。
「いい牙、いい爪ですわ。……その誇り、丸ごと私が買い取って差し上げます!」
血の匂いに野生の興奮を高めた長は、これを勝機と見た。
これまでの小刻みな高速戦闘から、一気に喉笛を噛み砕くべく、大きく顎を開いて肉薄する大振りな噛みつき攻撃へと転じる。
(――誘い、乗ってくれたわね)
オルテシアは、その巨大な牙が喉元をかすめる極限の瞬間まで微動だにせず、牙が触れる寸前、肉指のスパイクを泥と雪に食い込ませて上体を極限まで低く沈めた。
長の顎の下。その完全な死角(懐の内側)へと滑り込む。
全身のバネ、テコの原理、そして膝から腰、肩へと繋がる回転運動のエネルギーを、完璧に右拳へと収束させる。
「――シッ!!」
下から突き上げるような、渾身の『カウンター・ライトアッパー』が、剥き出しになった長の顎の先端へ、寸分の狂いもなく炸裂した。
ドゴォォォンッ!!
肉と骨が激突する鈍く重い衝撃音が、凍てつく森に響き渡る。
顎から脳を直接揺らされた体高二メートルの白銀の巨躯は、一瞬だけ宙に浮き、次の瞬間、盛大な雪煙を巻き上げながら、雪原へとダイレクトに沈み込んで沈黙した。
荒い息を吐きながら、オルテシアは右拳の泥を払い、抉られた左腕を押さえて、倒れた白銀の長を見下ろした。
周囲の狼たちは、絶対の長が一撃で沈んだという信じがたい光景に、もはや吠えることも忘れ、怯えきった様子でその場に座り込んでいた。
やがて、うめき声を上げて、白銀の長がゆっくりと首をもたげた。
その双眸は、戦いの紅から静かな黄金へと色を戻しつつあった。そこにはもはや敵意や混乱はなく、目の前に立つ、自身を暴力で叩き伏せた少女への、強烈な敬意と興味が宿っていた。
『……そなた、何者だ』
オルテシアの脳裏に、直接、ハスキーで気高い女性の「念話(心の声)」が響いた。
少女は内心で(――テレパシー!?)と驚愕に目を見張りつつも、それを表には微塵も出さず、完璧なポーカーフェイスのまま、心の声で問い返した。
(私?私は”オルテシア・クレイ”。あなた、お名前は?)
『我らは名など持たぬ。が、そなたは我を打ち倒した。強きものよ、そなたが名付けてくれ』
白銀の長は、そっとオルテシアの膝のあたりへ、その巨大な鼻先を擦り寄せるようにして、期待に満ちた眼差しを向けてくる。その大きな耳が、心なしかそわそわと揺れていた。
オルテシアは、泥に汚れたアジサイの鉄胸当てをそっとなぞり、少しだけ考えた。
「……ブランカ。あなたの名は、今日から”ブランカ”よ」
オルテシアが声に出してその名を告げると、ブランカは嬉しそうに喉を鳴らした。
(これから、私のクレイ領で、飽きるほど美味しい海の魚――ショア湊で水揚げされた極上の魚をご馳走して差し上げますわ)
『海の魚……!? あの、外海にしかおらぬという、伝説の極上肉か……!?』
その瞬間、気高かったはずの白銀の長は、未知の極上グルメへの欲望に一瞬で陥落した。
『よかろう! 今日から我はブランカだ! 海の魚を食わせる主に、この身と牙を捧げよう!』
ブランカは、千切れんばかりに猛烈に、雪原の雪を吹き飛ばすほどの勢いでブオンブオンと尻尾を振り回し始めた。そのあまりの喜び様に、周囲の狼たちも呆気に取られている。
(……ふふ、お安い御用ですわ。これでショアの大浚渫に使う、檻も鎖も不要な、最強の自走式『生体馬力』は手に入ったわね)
完璧な理詰めの勝利に、オルテシアは内心で上品にほくそ笑む。
だが、その時、ブランカの背後の影から、白銀のフワフワした、まるで転がる雪玉のような小さな毛玉が「きゅぅ」と頼りない声を上げて転がり出てきた。
小さな毛玉は、トコトコと愛らしい足取りで歩み寄ると、オルテシアの黒皮鎧の裾を小さな爪でよじ登り、そのまま、胸元のアジサイの鉄胸当ての上へと、当たり前のような顔をしてすっぽりと収まってしまった。
「きゅぅ……?」
上目遣いで、オルテシアの顔を見上げる、ブランカの幼い子供。
(ひ、ひゃあーーーーー!? 可愛すぎる! フワフワでもちもちだわ……! 腕の傷の痛みなんて、今この一瞬で全部吹き飛んだわ……!
なにこの極上の生き物、もふもふさせて、一生もふもふさせて……!)
オルテシアは、脳内で絶叫を上げながらも、淑女としての優美な微笑みをミリ単位で崩さず、その小さな白い毛玉を優しく抱き上げ、細い指先で喉元を撫でた。
「……この子は、まるで真っ白な雪のようですわね。あなたのお名前は、『シュネー』。今日からシュネーよ」
「きゅぅう!」
シュネーは嬉しそうに鳴き、オルテシアの首筋に甘えるようにそのフワフワの顔を擦り寄せた。
「我が主! ただちにその腕の手当てを――!」
ギルベルトが、焦燥と、そしてオルテシアの胸元を独占するもふもふの毛玉への抑えきれない冷たい『執着』の眼差しを宿し、手当てのために彼女の体へと触れようと近づいた。
その瞬間。
ガルルルル……と、ブランカが牙を剥き、恐るべき低音の念話を響かせてギルベルトを遮った。
『下がれ、雄。我が主を手元に閉じ込めようなどとするな。その淀んだ目を我は見逃さぬぞ』
さらに、アジサイの胸当ての上から、小さなシュネーまでもが、短い前足を突っ張り、
「しゃーーっっ!!」
と、最高に愛らしく(しかし精一杯の敵意を込めて)ギルベルトを威嚇し、その前に立ち塞がった。
「くっ……」
ブランカの迫力に気圧され、一歩後退するギルベルト。
オルテシアは、手当を求めて焦るギルベルトを前に、抉られた左腕の痛みなど微塵も感じさせない、気品に満ちた、そしてこの上なく上品で不敵な微笑みをその唇に乗せた。
「これで、最初の一手が完璧に揃いましたわ。……さあ、領地へと戻りましょう。私たちの、新しい家族を連れて」
泥と鮮血に塗れながらも、世界を塗り替える最初の『歯車』を手に入れた少女の瞳は、深く、不気味なほど冷徹に、そして美しく輝いていた。




