第011話:「羊」と呼ばれた少女が、狼の王になっていた
人外の領域である最果ての魔境を発った一個小隊の帰路は、途上の領地を震え上がらせる「無言のデモンストレーション」と化していた。
まず辿り着いたのは、ラストン領の重厚な石造りの関所――ラスト・フォートである。
関門の前で待ち構えていたのは、あの気性の激しい女騎士、ヘレナ・ラストンであった。彼女は、傷だらけの姿で戻ってきたオルテシアを見て、勝ち誇ったような冷笑を浮かべた。
「ずいぶんと無様なお姿ね、クレイの当主様。やはり魔境の深淵は、泥に沈む温室の羊が遊び半分で入る場所ではなかったようね。その綺麗な鉄胸当てを血と泥で汚して、泣きべそでもかきながら戻ってきたのかしら?」
ヘレナは、オルテシアの抉られた左腕を巻く白い包帯を指差し、嘲笑を浴びせようとした。
だが、オルテシアは眉一つ動かさず、完璧に上品な淑女の笑みをその白い頬に浮かべ、少しだけ小首を傾げた。
「おいたわしや、ヘレナ様。ですが、どうぞご安心くださいませ。冷酷な魔獣たちの牙から王国の秩序を守るラストンの皆様が、変わらず強固な『盾』として健在であるからこそ、私はこうして心置きなく魔境の奥へ入り、一兵の損失もなく、これほど素晴らしい『成果』を持ち帰ることができましたのよ」
「……は?」
ヘレナが不審げに眉を寄せた、その瞬間であった。
オルテシアの背後の濃い霧が割れ、檻も、首輪も、頑丈な鉄の鎖もない状態で、体高二メートルを超える白銀の巨狼――嵐魔狼の長『ブランカ』が、音もなく姿を現した。
さらに、その後ろには、殺気を孕んだ獰猛な魔狼たちが綺麗に二列の縦隊を組み、軍隊のように整然と歩行して続いてくる。
「な……っ!? う、嘘でしょ……っ!?」
ヘレナの美しい顔から、一瞬にして血の気が引いた。周囲のラストン警備隊の兵たちも、腰を抜かさんばかりに驚愕し、槍を取り落とす者さえいた。
魔境の覇者であるはずの嵐魔狼の群れが、人間を襲うどころか、まるでお行儀の良い近衛兵のように、オルテシアの歩調に合わせて静かに従っている。その常識外の光景は、戦士である彼らの理解の範疇を完全に超えていた。
オルテシアは、そんな彼らの驚愕を、最も優雅で気品に満ちたポーカーフェイスで受け流した。
彼女の胸元、アジサイの鉄胸当ての上には、すっかりそこが定位置となった白銀のフワフワな子狼『シュネー』が、丸い瞳をくりくりと輝かせながら、ちょこんと収まっている。
表面上は完璧な気品を保ちつつも、オルテシアの脳内は、歩くたびに胸元で「きゅぅ」と頼りなく甘える白い毛玉の、破壊的なフワフワ感ともちもち感に対する、狂おしいほどの歓喜で満たされていた。左腕を深く抉られた爪傷の激痛など、今やこの無上の癒やしの前には、一シリングの価値もない雑音にすぎない。もちろん、そんな不器用な溺愛を、周囲に微塵も悟らせるような愚は犯さなかったが。
「ごきげんよう、ヘレナ様。言ったでしょう? 錆びた盾しか持たぬ隣人の背中を、ただ眺めているほど私は薄情ではございません、と。……良いお返事を、楽しみにお待ちしておりますわ」
オルテシアは、驚愕で硬直したままのヘレナの横を、優雅にすり抜けた。
遠ざかっていくその華奢な後ろ姿を、ヘレナは悔しげに奥歯を噛み締め、拳が白くなるほど強く握りしめながら見送っていた。
魔境を制し、牙すら持たぬはずの小娘が、鎖もなしに死をもたらす獣どもを完璧に律している。その圧倒的な現実の前に、ヘレナの戦士としてのプライドは完膚なきまでに粉砕され、ただ無力感と屈辱に、くやしげに唇を噛むしかなかった。
続いて一行は、不毛の泥湿地帯――シルト領へと入った。
街道を凱旋する魔獣の群れを見た領民や、当主のトマス・シルト男爵は、恐怖のあまり腰を抜かして震え上がった。
だが、オルテシアは怯えるトマスに対し、この上なく優しく慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「お騒がせして申し訳ございません、トマス様。ですが、どうかご安心を。彼らは私の大切なお友達ですから、あなた方に牙を剥くことなど絶対にございませんわ」
その言葉と完璧な聖女スマイルに、トマスは恐怖を抱きつつも、どこか「この常識外の少女なら、自分たちを窮地から救い出してくれるかもしれない」という、強烈な畏敬と直感を心の奥深くに刻み込まれることになった。




