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第012話:泣いて縋られながら、領地をまるごと頂いた

 クレイ領(クレイヴィル)に帰還してから二日後。

粗末ながらも隅々まで完璧に清掃されたクレイ城の謁見室に、三人の地方領主が招集されていた。


 一人は、胃のあたりをさすりながら、小刻みに震えているトマス・シルト男爵。

 もう一人は、クレイ領の西隣に位置する、浅瀬化した寂れた湊を持つショア男爵領の領主、アルド・ショア男爵。

 そして三人目は、本に埋もれた極貧領地ライブラ家を率いる若き女男爵、ヴィオラ・ライブラ。


 アルドは、日に焼けた強靭な体躯を持つ、実直でタフな現役の壮年船乗りである。長年、湊の浅瀬化によって領民を飢えさせているという暗い敗北感を宿しながらも、没落貴族としての最低限の体面を保つため、鋭い眼差しで上座のオルテシアを見つめていた。

 ヴィオラは、粗末な仕立てながらも清潔な服を纏い、眼鏡の奥の聡明な瞳を鋭く輝かせ、この奇妙な招集の意図を探るように背筋を伸ばしていた。


「急なお呼び立てに応えていただき、感謝いたしますわ、トマス様、アルド様、ヴィオラ様」

 上座に腰掛けたオルテシアは、純白の優美なドレスを纏い、まるで一切の汚れを知らない聖母のような、か細く慈愛に満ちた微笑みを三人へと向けた。

 左のドレスの袖口から僅かに覗く白い包帯が、魔境での激闘を無言で物語っている。

 傍らには、端整だが、どこか刃物を思わせる冷徹な佇まいの騎士、ギルベルトが、影のように控えていた。


「オ、オルテシア様……! あ、あの、魔境から魔獣の群れを従えて帰還されたというのは、本当なのですか……っ? 隣領のラストン家も、ご一行の通行を拒めず、門を開けたと……」

 トマスが、ガチガチと歯の根を合わさずに尋ねた。


「ふふ、大袈裟な噂ですわ。私はただ、隣人の義務として魔境を少し偵察し、森の気高き住人たちと、ささやかな同盟を結んだだけに過ぎませんわ」

 オルテシアはお上品に微笑む。だが、その「同盟」という表現が含む圧倒的な武力差に、トマスはひぃ、と小さな悲鳴を上げて首をすくめた。


 一方、ショア男爵アルドは、じっとオルテシアを見つめた後、重々しく口を開いた。

「クレイの若き女当主様よ。……我らのような飢えに喘ぐ弱小の領主に、一体何の用です。まさか、その背後に従えた魔獣の牙を脅しに使って、我々の領地を召し上げにきたわけではあるまいな?」


「あら、ご冗談を。私がそのような野蛮な力技を好むとお思い?」

 オルテシアは、悲しげにまつ毛を伏せ、本当に傷ついたかのように胸元を押さえた。

「アルド様。私はただ、同じように辺境に追いやられ、中央の大貴族たちに見捨てられたお隣同士、手を取り合いたいと願っただけですわ。……トマス様」


 オルテシアは、スッとトマスの方へと、優しく滑るような視線を向けた。

「先日、お宅に宿泊させていただいた際、お聞きいたしました。トマス様の大切な五人のお子様たちが、強欲な高利貸しベッカーによって、奴隷として連れ去られようとしていると」


「うっ……うう,そうです、オルテシア様……! 次の期限までに一シリングでも足りなければ、あの子たちは……っ!」

 トマスが、顔を覆ってボロボロと涙を流し始めた。


「おいたわしや、トマス様。どうかもう、その細い胃を痛めないでくださいませ。……私たちが、あなたとご家族を必ず、この暗闇から救い出して差し上げますわ。強欲な高利貸しが、尊いお子様方に触れることなど、この私が、クレイ家の名において絶対に許しません」

 オルテシアの透き通るような美しい声が、謁見室に厳かに響き渡った。

 トマスは、目の前に現れた「本物の天使」を見るような、狂信的な救済の涙を流して、オルテシアの足元へひれ伏さんばかりに頭を下げた。


「オ、オルテシア様……! なんと慈悲深き、生きた聖女様だ……! あなた様のためなら、このトマス、何でもいたします……っ!」


「……だが、トマスの借金を肩代わりするだけの金が、あんたのところにあるのか?」

 アルド・ショアは、男爵としての警戒を崩さず、問いかけた。

「それに、我がショア領の港は、上流から流出する泥砂で完全に浅瀬化し、漁船すら座礁する『死に湊』だ。誰もが呪われたと見捨てた。これをどうにかできるとでも?」


「ええ、もちろんできますわ、アルド様」

 オルテシアは立ち上がり、アルドの正面へとゆっくり歩み寄った。彼女の冷たい灰色の双眸には、一切の迷いのない、絶対の確信が宿っていた。


「海の男から、命であるはずの湊を奪うなど、あってはならないことですわ。……アルド様。私は近いうちに、我が領の新しい家族(ブランカたち)の圧倒的な馬力を投入し、あなたのショア湊を完全に大浚渫いたします。大型のガレオン船が何隻も同時に接岸可能な、世界一美しい『深海港』へと大改良して差し上げますわ。海の民に、もう一度、青い誇りと豊かさを取り戻すのです。……そして、この壮大なインフラ計画を法的に支え、私たちの同盟の頭脳となっていただくために、ヴィオラ様、あなたを、いえ、ライブラ家を丸ごと我がクレイ家に召し抱えたいのです」


 急に話を振られたヴィオラ・ライブラは、ハッとして眼鏡の奥の目を鋭く見開いた。

「ライブラ家を……丸ごと、ですか? 我が家は本ばかりが詰まった極貧の領地。オルテシア様が望まれるような武力も資金もございません」


「ええ、知っていますわ、ヴィオラ様」

 オルテシアは優美なドレスを揺らしながら、ヴィオラへと微笑みかけた。

「ですが、私の拙い設計図の草案から、たった一晩でこれほど一文字の隙もない完璧な公式文書を仕立て上げてみせたライブラ家のその卓越した実務能力を、私は何よりも高く評価しておりますの。あなた方が代々培ってきた、このソルフェニア王国の古法典への理解、実務、そして比類なき計算能力の価値――どれほど優れた筋肉や鋼があろうとも、それを正しく管理する『知恵(頭脳)』がなければ、領地は回りません。ライブラ家の持つ膨大なアーカイブと、その卓越した知性を、クレイ家の『知恵の牙』として丸ごと迎え入れ、この同盟の法的な盾となっていただきたいのです」


「我がライブラ家を、クレイの『知恵の牙』に……」

 ヴィオラの喉が小さく鳴った。本ばかりを読み、周囲の脳筋貴族から見下され、「本ばかり読んで腹が膨れるか」と見下され、ただ飢え死にを待つだけだった自分たちの知識に、これほどまでの価値を見出し、最大の敬意を持って丸ごと救い上げようという少女。

 ヴィオラの心の中に、生まれて初めて、強烈な忠誠と知的興奮の炎が灯った。

「……そこまでの信頼を、私たちのような一族に。……分かりました。ライブラ家のすべてと、この私の頭脳、すべてオルテシア様のために捧げましょう」


***


 トマスとアルド、そしてヴィオラが、それぞれの形でオルテシアへの深い心酔を露わにしている謁見室。

 背後に控えるギルベルトは、いつも通りの涼しげな佇まいを崩さぬまま、主君の美しき「布石」を眺めていた。


 オルテシアは、彼らの様子に満足しながら、完璧に上品な微笑みを浮かべたまま、ギルベルトへと目配せをした。

 ギルベルトは音もなく前へ出ると、机の上に、オルテシアが密かに書き留めていた緻密な産業設計図の草案を元に、ライブラ家の総力を挙げて一晩で完璧な公式文書へと仕立て上げた、非常に難解な専門用語が散りばめられた三通の羊皮紙――『クレイ・ショア・シルト・ライブラ相互防衛および物資融通協定』を優雅に広げた。


「素晴らしい同盟の門出に、ささやかな『協定の署名』を交わしましょう、トマス様、アルド様、ヴィオラ様」

 オルテシアは、歌うようにささやいた。

「お互いの領地を侵入者から守るための共同防衛と、困った時の物資の融通。これこそが、私たちの絆の証ですわ」


「は、はい……っ! 喜んで署名いたします、聖女様……!」

「海の女神様のためなら、このショアの命、いつでも差し上げましょう!」

「この協定の法的な正当性は、私が一文字の隙もなく完全に保障いたしますわ、オルテシア様」


 三人の領主は、差し出されたペンを手に取り、嬉々として自らの署名と印章を捺した。


 だが、その協定書の「相互防衛・物資融通」という美辞麗句の下には、極悪なまでの契約条項が完璧に敷き詰められていた。


 すなわち、

・【シルト領内の泥湿地および、特産である高品質な珪石粘土の『クレイ家による無償採掘・無制限利用権』の永久供与】

・【ショア湊の大浚渫によって生じる全ての『泥砂』の、クレイ領への引き取り権利(セメント製造の主原料)】

・【将来、浚渫によって完成するショア深海港における『クレイ家による独占貿易・港湾管理・関税徴収権』の永久割譲】


 彼らは、自分たちの領地にある厄介な「ゴミ(泥砂)」や「不毛な泥(粘土)」を、オルテシアが親切に、かつ無償で引き取って救ってくれるのだと、完璧に思い込まされていた。

まさかそれらが、ショア湊の大浚渫で出る泥砂と、シルトの粘土を合体させることで「近代セメント」や「耐火レンガ」という、これから莫大な富を産み出す黄金の原材料そのものであることなど、夢にも思っていないのだ。


オルテシアは、喜びの涙を拭う二人を抱き起こし、ヴィオラの調印を見届けながら、心の奥底で、冷徹な満足感を静かに、深く噛み締めていた。


泥と、砂と、粘土、そして魔獣の筋肉。かつて見放された辺境のすべてを噛み合わせ、盤面を自らの都合の良いように書き換えるための最初の歯車が、今、完璧な形でその手元に揃った。


(これで原材料の無償供給ラインと、ロジスティクスのエンジンとなる魔獣は完璧に揃ったわ。……あとは、この巨大な歯車を爆速で駆動させるための『資金』を、いかにしてあの男(ベッカー)から引き出すか。……罠を仕掛ける時間は、十分に整いつつあるわね)


 泥と筋肉、そして手に入れた優秀な知恵を足がかりにして、少女は、まだ見ぬ高利貸しの吸血鬼、そしてその背後に佇む「財の支配者」マルシェ公爵の首筋へ向けて、静かに、そして極めて冷徹に、最初の牙を研ぎ澄ませていた。



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