第013話:冷徹な瞳が、一瞬で”哀れな令嬢”に変わった
冷たい黒石の床に、ステンドグラスから差し込む淡い冬の光が不規則な幾何学模様を描いている。謁見室に漂うのは、長年蓄積された古い埃の匂いと、新しく焚かれた清涼なハーブ香だった。
上座の黒石の椅子の背に華奢な背をもたれ、オルテシアは卓の上に広げられた一枚の羊皮紙を、冷たい灰色の双眸でじっと見つめていた。
白く細い指先が、その羊皮紙に描かれた歪な境界線――特に、自領である最南端の「クレイ領」の、爪の先ほどしかない狭い輪郭を、静かになぞる。
そこに描かれているのは、歪な境界線で切り分けられた、ソルフェニア王国の地政学図であった。
中央北部に、まるで周囲の怪物たちから身を隠すように、細々と直轄領を抱えるソルフェニア王家。
お飾りの戴冠権(権威)だけを掲げる王室は、その周囲を包囲する「三大諸侯」の圧倒的な人口と軍事力の前で、常に青息吐息の絶妙なバランスでかろうじて存続しているに過ぎない。
東の別勢力として、帝国を睨み、王国最強の武力と厳格な規律を誇る「北の鉄壁」アイゼン侯爵。
クレイ領の北西に位置し、お家乗っ取りの黒幕としてオルテシアの背後を脅かす「蛇」ガルドナー伯爵。
そして、王国最大の穀倉地帯と主要な交易街道をすべて支配する「財の支配者」バルタザール・ド・マルシェ公爵。
これら三つの怪物のなかでも、マルシェ公爵は特に厄介な性質を持っていた。
彼は軍を動かさずとも、関税の引き上げと、ある「からくり」によって辺境の諸侯たちを合法的に、内側から従わせている。
その支配の網の末端として機能しているのが、王都で巨大な商業決済網を独占する「ローレンツ・ベッカー」のような高利貸し(金融商会)たちであった。
金貨の物理的な長距離輸送リスクをバイパスする「為替手形」の仕組みを独占し、マルシェ公爵という巨大な後ろ盾による強力な庇護を背景に、彼らは辺境の小貴族たちへと、意図的に返済不可能な「年利30%」という法外な融資を仕掛ける。
破産寸前の領主が涙ながらにその契約書に署名した瞬間、彼らの土地、港、形成されるすべての利権、そして最後にはその人身までもが、ベッカーの、ひいてはマルシェ公爵の「合法的な財産」として静かに、確実に吸い上げられていくのだ。
ベッカーと対峙することは、すなわち、王国最大の富を支配するマルシェ公爵の巨大な網へ、自ら首を突っ込むことを意味していた。
オルテシアの薄い唇の端が、皮肉げに、しかし艶やかにごくわずかと吊り上がる。
(ふふ。強欲な公爵様らしい、反吐が出るほど効率的なお金集めの仕掛け。……だけど、完璧に効率的であるということは、外からの衝撃に対して脆い綻び――いえ、脆い『隙』があるということでもあるわ)
パチ、と。
卓の上のろうそくの芯が小さく爆ぜ、静寂を破った。オルテシアは目を細め、静かに、深く息を吐き出した。
「おじょ……いえ、我が主」
背後に佇むギルベルトが、音もなく一歩前に進み、低く澄んだ声で告げた。
呼びかけに応じるように、オルテシアはゆっくりと顔を上げる。その際に、流れるような淡い紫の髪が華奢な肩から滑り落ち、細い指先でそれをそっと耳の後ろへと払った。
「ベッカー金融商会の一行が、まもなくクレイ城の正面玄関に到着いたします」
「ええ、分かっていますわ、ギル」
オルテシアはゆっくりと地政学図を片付け、卓の上に両肘を置いて、指を組んだ。
そして、ほんの一瞬だけ睫毛を伏せる。
次にまぶたを持ち上げた瞬間、その冷たい灰色の双眸は、瑞々しい不安と心細げな光を湛えた「哀れな没落令嬢」のものへと、完全に塗り替えられていた。自らの息遣いまでも、どこか頼りなく、か細いものへと意図的にコントロールする。完璧な仮面の貼り付け。
オルテシアは、不安げに両手を胸元で小さく握り合わせながら、上目遣いに傍らのヴィオラを見つめた。
「ヴィオラ、準備はよろしいかしら?」
まるで頼れる者に助けを求めるような、か細く震える声。
その完璧な仕草に、謁見室の卓の傍らに控えていたヴィオラ・ライブラは、畏敬と知的興奮に胸を高鳴らせながら、眼鏡の奥の理知的な目を伏せ、静かに頭を垂れた。
「はい、オルテシア様。ライブラ家の総力を挙げ、一文字の不備もなく、彼らの持ってくるであろう書類への『備え』は整えてございます」
「お見事ですわ。……さあ、強欲な吸血鬼を、温かくお迎えいたしましょう」
オルテシアは再び心細げにドレスの裾を握りしめ、冷たい城のオークの扉の向こうから響く、重々しい足音へと耳を澄ませた。




