第014話:本物の殺気が、芝居を完璧にした
重厚なオーク材の扉が左右に開かれ、部屋に足を踏み入れたのは、全身から「金」の匂いを漂わせた肥満体の男であった。
王都の大商人、ローレンツ・ベッカー。
仕立ての良い高級な狐皮の外套を羽織り、その短い指には、歩くたびにカチャカチャと下品な音を立てる複数の宝石指輪がはめられている。
その後ろには、武装した屈強な私兵数名と、精緻な帳簿を抱えた若い書記が付き従っていた。
「おやおや、これは、おいたわしや……! まさかこれほど最果ての、冷たい風の吹き付けるお城で、オルテシア様が一人お寂しい日々を送られていようとは」
ベッカーは、両手を広げて大袈裟な哀悼のポーズをとってみせた。
だが、その小さく濁った瞳は、オルテシアの華奢な肩、あるいは謁見室の質素な調度品を、値踏みするように素早く這いまわっている。
本家一族が全員事故で亡くなり、借金まみれの広大な泥湿地を押し付けられた、うら若き分家の令嬢。
ベッカーにとって、目の前のオルテシアは、自らの後ろ盾であるマルシェ公爵の野望――クレイ領を借金で差し押さえてショア湊の港湾開拓を「永久封印」し、最果ての魔境の資源を独占し、さらにはラストン子爵領を背後から干し殺すための、極上の「カモ」に他ならなかった。
「ベッカー様。急なお願いに応えていただき、感謝いたしますわ」
オルテシアは、ドレスの裾を小さく震わせ、か細く、今にも泣き出しそうな声で囁いた。
その冷たい灰色の双眸は、完璧な「不安と焦燥」の色に染め上げられている。
「旧本家が遺した借簿を見ましたわ。……我がクレイ家の金庫は完全に空っぽ。このままでは、冬を越す前に領民も、私を支えてくれる兵たちも飢えてしまいます。藁にもすがる思いで、あなた様をお呼びいたしましたの」
「ふふ、よく分かっておりますとも、お嬢様」
ベッカーは下卑た笑みを外套の袖で隠すようにして、オルテシアの正面の椅子へと不躾に腰掛けた。
「我がベッカー商会は、困窮する伝統ある貴族の皆様を救うのがモットーでございます。……オルテシア様が望まれるのであれば、私は喜んで、このクレイ領の財政を丸ごと支えるだけの巨額をご用意いたしましょう」
ベッカーは、後ろに控える書記に鋭い目配せをした。
書記が卓の上に、あらかじめ王都で完璧に仕上げられていた、一枚の分厚い羊皮紙の融資契約書を広げる。
「ご融資金は、金貨一万クラウン(10,000C)」
ベッカーは,宝石の指輪をはめた指で契約書の金額をトントンと叩いた。
「これだけの巨額があれば、飢えをしのぐどころか、クレイ領のすべての財務は一瞬で片付きましょう。……ただし、これほどの天文学的な資金を、何の保証もない没落寸前の男爵家へお貸しするのです。我々としても、相応の『条件』をつけざるを得ません」
「条件……、とおっしゃいますと?」
オルテシアは、おびえるようにまつ毛を震わせた。
「極めてシンプルな契約です。年利は三十パーセント。そして担保には、この不毛なクレイ男爵領の領有権(土地・すべての権益)そのものを設定させていただきます。……金貨一万クラウンの、年利3,000クラウン。もし一シリングでも、あるいは一日の遅れでも返済が滞れば、クレイ男爵領のすべての統治権は、我が商会のものとなります」
年利30%の、10,000C。
それは、この作物が一粒も育たないクレイ領の人口4,500人の規模からすれば、絶対に、物理的に返済不可能な地獄の「ローン・トラップ」であった。
ベッカーが、不敵な優越感をその脂ぎった顔に浮かべた、その時。
オルテシアの傍らにいたヴィオラが、わざとらしく怯えるように一歩前に進み、小刻みに震えながら叫んだ。
「お、オルテシア様……! これはいけません! 年利三十パーセントなど、王国の常識的な金利を遥かに超えた暴利です! このような不当な契約に署名しては、我がクレイ家は、最初から首を括るようなものですわ!」
「おやおや、お黙りなさい、ライブラ家の小娘さん」
ベッカーは、不愉快そうにヴィオラを鼻で笑い飛ばした。
「そちらが署名をしたくなければ、今すぐ私はこの為替手形を抱えて王都へ戻るだけです。……ですが、そうなれば、クレイ家は明日にも破産し、オルテシア様は王都の債務者監獄へ送られることになる」
そこまで言うと、ベッカーは小さく下卑た笑みを浮かべ、その脂ぎった視線を、オルテシアの華奢な躯体へと上下くまなく這わせた。値踏みするような、そしておぞましい執着を含んだその双眸が、ドレスの上から彼女の輪郭をなぞる。
「あ~、しかし……。オルテシア様のその類い稀なる美貌をもってすれば、何も監獄に落ちるばかりが道ではございません。王都には、相応の美しさを高く買い取ってくださる高貴なお方も大勢おられますし……私個人としても、別の『返済方法』をご用意出来なくもございませんよ? ふふ、お身体一つで支払うというのも、また粋な取引だと思いませんか?」
オルテシアは、おびえるように肩をすくめ、ヴィオラへと悲痛な声をかけた。
「ヴィオラ、おやめなさい。……ベッカー様の言う通り、我が家には他に選択肢などございませんわ」
「……っ!」
その瞬間、謁見室の空気が、凍てつく刃と化して張り詰めた。
オルテシアの背後に控えていたギルベルトの灰色の瞳が、極限まで冷たく細められ、その右手が音もなく、腰の剣の柄へと滑り落ちる。
たとえこれが完璧な「お芝居」であり、ベッカーを奈落へハメ殺すための布石だと百も承知であっても。主君の神聖なる躯体を、薄汚い豚のような商人がその下卑た目で辱め、奴隷落ちを匂わせることなど、ギルベルトという男の魂が、一分一秒たりとも許すはずがなかった。
部屋全体を圧殺するほどの凄まじい、そして冷徹極まりない「本物の殺気」がギルベルトから放たれる。
そのあまりに濃密な死の気配に、ベッカーを護衛していた屈強な私兵たちが、恐怖に目を見開いて反射的に剣の柄に手を伸ばした。ベッカー自身も、首筋に本物の刃を突きつけられたかのような悪寒に襲われ、額からどっと冷や汗を流して言葉を失い、恐怖に強張った喉を鳴らして、生唾をごくりと飲み込んだ。




