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第015話:「金の卵を産むガチョウ」は、実は狩人だった

 静まり返った謁見室で、呼吸すら許されない極限の対峙が続いていた。

 ベッカーは額から冷や汗を流し、護衛の私兵たちは硬直したまま、ギルベルトの指先一つに全神経を集中させている。


オルテシアは、ギルベルトのこの「狂おしいほどの忠誠と殺気」すらも、瞬時に自らの演技を完成させるための素材として利用した。


「ギ、ギル……おやめなさい。下がっていなさい、と、言ったでしょう……っ」


 オルテシアは、ベッカーの卑劣な言葉と、ギルベルトの放つ凄まじい殺気の「双方」に怯えるかのように、その華奢な肩を小さくすくめて声を震わせた。今にも泣き出しそうな、完璧な弱者のポーズ。

 だが、その伏せたまつ毛の奥で、冷たい灰色の双眸には(お見事な殺気ですわ、ギル。おかげでこの豚が、自分が完璧に優位に立ったと信じ込んだわ)という、極めて冷徹な満足感が静かに去来していた。


「ひ、っ……」


 ヴィオラもまた、オルテシアの意図を瞬時に察し、恐怖に顔を強張らせてさらに一歩後退する。

 ベッカーは、ギルベルトの殺気に一瞬死を覚悟したものの、当主であるオルテシアが完全に怯えきって従者を制止した姿を見て、己の「圧倒的な経済的優位」が勝ったのだと、急速に歪んだ優越感を取り戻した。


「ふ、ふん……。躾のなっていない従者がいるようですな。だが、オルテシア様が賢明な判断を下されるのであれば、私もこれ以上、無粋な提案はいたしませんよ」


 ベッカーは、懐から絹のハンカチを取り出して額の汗を拭いながら、もったいぶった動作で調印契約書をトントンと指で叩いた。

 ベッカーからは、その姿が「無知な田舎貴族が、現実の非情さに押し潰されている」ようにしか見えていなかった。


 だが、そのヴィオラの完璧な「お怯え演技」の裏で、オルテシアとヴィオラは、互いに背後で極小の視線を交わし、心の奥底で静かにほくそ笑んでいた。


(年利30%の暴利、担保は領有権。ええ、狙い通りに『大逆罪の要件』を完璧に満たす証拠(首輪)を、自ら差し出しに来てくれたわね)


 オルテシアは、涙ぐむようにして、震える声でベッカーへと語りかけた。


「……ベッカー様。私は、あなた様を信じ、その契約をお受けいたします。領民を、このクレイ家を救うためなら、私はどんな泥でも啜る覚悟です」


「おお、なんという健気で、賢明なご決断だ……!」


 ベッカーは歓喜に目を細め、卓の上に高級な羽ペンを差し出した。


「さあ、こちらに。サインと、クレイ家の印章を」


 オルテシアは、細い指先をこれ以上ないほどに震わせながら、契約書の末尾へと署名を書き込み、レジナルドから剥ぎ取った印章指輪を真っ赤な封蝋へと深々と押し当てた。


 カチャリ、と。


 調印が完了した瞬間、ベッカーは、懐から一枚の、眩いばかりに精緻な模様が印刷された、王都の一流商会が発行する『金貨一万クラウンの為替手形(L/C)』を、もったいぶった、芝居がかった恭しさで差し出した。


「おめでとうございます、オルテシア様。いや、このベッカー、おいたわしいオルテシア様の窮地をこうしてお救いすることが出来て、これ以上の光栄はございません。お美しくも悲しいお嬢様を泥の中から救い出すことこそ、我ら商人の義務でございますからな。ふふ……」


 ベッカーは、下卑た満面の笑みを浮かべ、胸元に手を当てて深くお辞儀をしてみせた。

 その心の内では、(ふはは! これで王国で最も丸々と太った、極上の『ガチョウ』が私の檻に入ったわけだ! 一生、私とマルシェ公爵のために、金の卵を産み続けさせるとしよう!)と、狂喜の笑みを抑えきれずにいたが、表向きは恩着せがましい救済者のポーズを崩さない。


「毎年の金利、遅れずにお支払いくださいね」


「ええ、もちろん。感謝いたしますわ、ベッカー様……」


 手形を受け取るオルテシアの瞳には、哀れな没落令嬢としての「救済の涙」が浮かんでいた。


***


 ローレンツ・ベッカー一行の豪奢な馬車が、満足げな音を立ててクレイ城を去っていった。


 静まり返った謁見室。


 オルテシアは、先ほどまでの「心細げなお嬢様」の仮面を、一瞬にして冷酷に脱ぎ捨てた。


 その冷たい灰色の双眸には、一切の光を反射しない、底知れない理知の光が宿っている。


 彼女は、手元にある「一万クラウン」の為替手形を、その細い指先でそっと、しかし愛おしそうになぞった。


「一万クラウン……。泥と火を黄金に変え、我が野心を爆速で駆動させるための『血液』が、これで一シリングの無駄もなく、完璧に揃いましたわ」


 傍らに立つギルベルトが、いつもの涼しげな、しかしその実、主君のあまりにも悪魔的な名演技への心酔に濡れた双眸で深く一礼した。


「お見事な手際でした、我が主。ベッカーは今頃、ご融資金が、ショア湊の大浚渫やライブラの知識を用いた反射炉の建設費用として使われるなど、夢にも思っていないでしょう」


「ええ。あの強欲な吸血鬼には、まずは一シリングの遅れもなく、完璧に、毎年三千クラウンの利子を支払って、ほくほく顔にさせて差し上げますわ」


 オルテシアは、唇の端を非対称に、ごくわずかに吊り上げて不敵に微笑んだ。


「ベッカーも、後ろ盾たるマルシェ公爵も、私を最高の『金の卵を産むガチョウ』だと信じ込んで、骨の髄まで油断しきることね。……その牙が、自らの首筋に届く、その最期の瞬間まで」


 手に入れた莫大な資金(一万C)、ショアの砂泥、シルトの粘土、魔獣の筋肉、そしてヴィオラの卓越した知恵。

 辺境の「困窮」そのものを噛み合わせて盤面を塗り替えるための、すべてのピースが、今、完璧な円環をなして回り始めた。


 泥と火が紡ぐ、最初の黄金の普請が、今、不敵にその幕を開けようとしていた。



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