第016話:完璧なポーカーフェイスの下で、絶叫していた
王都の一流商会が発行した精緻な『金貨一万クラウンの為替手形』が、クレイ領の寂れた財務執務室の卓上で、冷厳な輝きを放つ純金貨の山へとその姿を変えていた。
山積みにされたクラウン金貨は、冬の薄光を浴びて、執務室の埃っぽい空気を黄金色に染め上げている。
一万クラウン。日本円にして約六億円に相当する天文学的な巨額が、いま、辺境の没落男爵家の手元に現実の重みとして存在していた。
「……信じられません。これほどの資金、我がライブラ家が代々集めた古書をすべて売り払っても、その百分の一すら届かなかったでしょう」
ヴィオラ・ライブラは眼鏡を指先で押し上げ、眩しそうに金貨の山を見つめていた。その知的で端整な横顔には、かつて極貧にあえいでいた頃の悲壮感はなく、これから始まる壮大な経済パズルへの、抑えきれない興奮が滲んでいる。
「ふふ、これこそが、大商人の吸血鬼から毟り取った最高の『血液』ですわ、ヴィオラ」
上座の黒石の椅子に深く背をもたれ、オルテシアは冷たい灰色の双眸を細め、金貨の一枚を爪先でチリンと弾いた。
「金というものは、金庫の中でただ眠らせているだけでは、ただの冷たい粘土と変わりません。血液は体内を爆速で循環してこそ、肉体を駆動させるエンジンとなるのです。……さあ、この金をすべて、私たちのインフラという名の『大竈』にくべて、黄金の歯車を回し始めましょう」
オルテシアは不敵に微笑み、ヴィオラが用意した数枚の緻密な図面へと視線を落とした。
そこには、ライブラ家が代々培ってきた熱効率工学の知識と、オルテシアが与えた「独自の草案」を元に、ヴィオラが完璧な数式と幾何学で仕立て上げた、王国の誰も見たことのない巨大な構造物の設計図が描かれていた。
「ヴィオラ。あなたに設計を頼んでいた、あの炉の準備は?」
「完璧です、オルテシア様」
ヴィオラは、自信に満ちた声で図面をトントンと指し示した。
「燃焼室で発生させた熱とガスを、ドーム状の天井で反射させ、原料である鉄鉱石に直接、熱線を叩きつける構造――『反射炉』。これまでの王国の職人たちが使っていた伝統的な高炉とは比較になりません。石炭や木炭の燃焼ガスが直接溶けた鉄に触れないため、不純物が一切混ざらず、王国の常識を遥かに超越した、極限まで強靭で折れない『鋼(クレイ鋼)』の鋳造が可能となりますわ。……ですが」
ヴィオラは、ふと眼鏡の奥の目を少しだけ曇らせ、言いにくそうに言葉を濁した。
「この反射炉を駆動させ、不純物を完全に焼き尽くすほどの超高温を得るには、信じられないほどの『風(酸素)』を二十四時間、絶え間なく炉内へ送り込み続けなければなりません。それには大型の送風機が数台必要ですが、それを押し続けるためには、屈強な大人が交代で、少なくとも数十人は常時必要となります。その人件費とロジスティクスの確保、そして何より人間にその過酷な労働を強いるとなれば、効率が……」
「あら、人間の筋肉に頼る必要など、どこにございますの?」
オルテシアは優雅に小首を傾げ、完璧なお上品さでささやいた。
「我がクレイ領には、人間よりも遥かに強靭で、どれほど走っても息一つ切らさない、世界で最も愛らしくて頼もしい『新しい家族』がいるではありませんか」
ヴィオラはハッと目を見開いた。その瞬間、オルテシアの背後に影のように佇んでいたギルベルトが、唇の端をわずかに吊り上げて低く笑った。
「なるほど、嵐魔狼たちの筋肉ですか。……確かに彼らの馬力とスタミナは、人間の百倍を超えましょう」
「ええ。彼らにふいごを引かせるための、大型の木製回し車を建設しなさい。ブランカに頼めば、喜んで部下たちを走らせてくれますわ。なにしろ、彼らにとっては、全力で走り回ることはただの『楽しい運動』に過ぎませんもの。美味しいショア湊の魚や、新鮮な魔獣の生肉を腹いっぱい与えれば、喜んで全力で尻尾を振って、原価ゼロの最強馬力を二十四時間供給し続けてくれますわ」
(ああ、ああ、ああ……! 思い描くだけで胸が苦しい、愛らしさの過剰摂取ですわ! あの見事な白銀の毛並みを美しく波打たせ、太いしっぽをブンブンとちぎれんばかりに振り回しながら、でっかい木製の回し車を「ハッハッ」と嬉しそうに駆け抜ける狼もふもふ軍団……! 走り終えたら『よくできましたわね!』と新鮮な鮭をご褒美にあげて、そのハアハアと濡れた息を吐く大きな頭を、私がこの手で気が済むまで、それこそ毛並みが擦り切れるほどワシャワシャと撫で回して抱きしめてあげるのです! お腹を上に向けて『ガルル……』と甘えてくる姿を想像するだけで、私の魂はクレイ領の最果てを超えて天国まで爆走していきそうですわ!)
オルテシアは、頭の中で「ハッハッ」と嬉しそうに回し車を疾走するもふもふ狼たちの姿を想像し、内心で身悶えするほどの狂おしい悶絶と大歓喜に打ち震えていた。
だが、その表面のポーカーフェイスは完璧であり、周囲からは、その凍てつくような冷たい灰色の双眸の奥で「魔獣の生態すら完全に掌握し、餌という甘い鎖で手なずけて原価ゼロで二十四時間使い倒す、冷徹極まりない若き支配者」の冷酷な物理計算が行われているようにしか見えていなかった。
「さあ、第一のピースは揃いましたわ。次は、この炉を動かすための『最高の人間の牙(職人)』を、檻に放り込む時間ですわね」




