↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/37

第035話:一瞬の油断が、すべてを崩すところだった

サスペンションが微かな振動を吸収し、白いコンクリート道路を滑るように走る『魔獣超特急』の車内。


羊皮紙とインクの匂いが漂う客室で、お財布番のミリアム――ミリーが、黒革の複式簿記帳簿をパタンと静かに閉じた。


クレイ鋼のボタンが留められた紺色のスーツの胸元で、「天秤と盾」の銀ピンバッジが鈍い光を放っている。


「――お嬢様。ツヴァイク接収夜会におけるブルクハルト子爵との商談、ならびに各種契約の試算が完了いたしました」


「ええ、聞かせてちょうだい、ミリー」


対面に座るオルテシアは、膝の上でそっと指を組み、氷細工のように冷徹で気高いポーカーフェイスを崩さずに頷いた。


漆黒のライディングガウンの隙間から覗く灰色の瞳は、すべてを見通す大領主の深謀遠慮を湛えている。


だが、その脳内は、期待と興奮で大歓喜のダンスを踊り散らかしていた。


(さあ来たわ!!! ブルクハルト子爵への野戦防護板五百枚! 対重装甲の大剣二千振り!)


(王都の悪徳ギルドから買えば天文学的な金を取られる超兵器を、うちの適正価格で大量受注!)


(原価ほぼタダのクレイ鋼とセメントから、一体どれだけのゴールドが私の金庫に転がり込んでくるのかしら!?)


ミリーは一切の感情を排した冷徹な無表情のまま、細い指先で帳簿の数値を指し示した。


「防護板五百枚が売上一万クラウン。大剣二千振りが売上一万六千クラウン。合計売上高は二万六千クラウンとなります」


「ふむ」


「ツヴァイク鉱山の自領化に伴う鉄鉱石の無料調達、および自領でのセメント・泥炭自給による製造原価、輸送費、職人への特別手当等を差し引いた最終純利益は――二万四千七百クラウン(現代日本円換算・約十五億円)となります」


(に、にまんよんせんななひゃくクラウン……ッ!?!?!?)


オルテシアの脳内で、巨大な金貨の山が大爆発を起こした。


(ひええええええええええええ!!! 約十五億円!? たった一回の出張商談で十五億円の純利益ってマジで言ってるの!?)


(高利貸しのベッカーに仕掛けられた借金元本が一万クラウンで、年利が三千クラウンよ!?)


(利息の八年分以上、元本を含めても二倍以上の大金を、たった一晩の会食で叩き出しちゃったんだけど!?)


(クックック……勝ったわ! これでローン地獄なんて完全に過去のものよ! また新しい道路も工場も建て放題じゃない!!!)


脳内で札束と金貨の風呂に浸かり、歓喜の絶叫を上げていたオルテシアの表情筋が、あまりの膨大な利益の妄想に耐えきれず、だらしなくニヤリと崩れかけた。


口元から透明な一筋の滴(よだれ)が、つ、と垂れ落ちそうになったその瞬間――。


「――こほん」


斜め向かいに座っていたヴィオラが、小さな咳払いとともに、丸眼鏡の奥の切れ長な瞳でジロリとオルテシアの口元を射抜いた。


(……お嬢様! よだれ! よだれが出そうになっておりますわよ! お上品な淑女のペルソナが物理的に崩壊しかけておりますわ!)


無言の目が、完璧な危険予知として凄まじい光を放っている。


(あ、あばばばば!!! 危なーーーい!!!)


オルテシアは全身の毛穴を急速冷却させ、死に物狂いで表情筋を引っ張り上げた。


音もなくシルクのハンカチを口元に当て、あたかも「少し喉が渇いたので口元を整えただけ」という体で、完璧なポーカーフェイスを取り戻す。


「……ふふ、見事な手腕ですわ、ミリー。ですが、これで満足して立ち止まるわけにはいかないわ」


「……はい、お嬢様」


ヴィオラは「スン……」と無表情に戻り、静かに眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


オルテシアは、何事もなかったかのように気品あふれる笑みを浮かべ、窓の外へ視線を向けた。


(危なかった……! ヴィオラのレーザー視線がなかったら、ギルやミリーの前で十五億円の妄想によだれを垂らす変態領主として歴史に名を刻むところだったわ……!)


(……というか、冷静に考えたら私、夜会のメニュー電撃介入だけじゃなくて、ツヴァイクの鉱山と鉱山夫たちもタダ同然で丸ごと掠め取ったのよね!?)


(いくら前男爵が破産してお取り潰しになったからって、他領の傘下で子飼い同然だった貴族の権益をポンと横取りするなんて、普通なら中央や他の大貴族から特大の横槍が入るレベルの略奪よ!?)


(当のアイゼン侯爵閣下は、軍事帝国の脅威やら国境の防衛やらで頭がいっぱいで、そんな些事に頭の容量を割く余裕なんて無さそうだけど……問題はあのアイゼン侯爵夫人様よ!)


(あの絶対零度のスマイル……夜会の無作法だけじゃなく、ツヴァイク鉱山の略奪までもしっかり『不問にしてあげた貸し』のカードに数えてるに決まってるわ!)


(その気になれば、いつでも私を『不当な横取り』で追い詰めるネタとして使えちゃうじゃない……! もちろん、あのお上品な奥様がそんな下品な強請りなんてするはずもないけれど、政治的カードとして握られているだけで胃がキリキリ痛むわ!><)


(前世のビジネス知識だけじゃ追いつかない、本物の上流社交界の腹芸……今後はアドバイザーも必要になってくるかも!?)


心の汗をだらだらと流しながらブルブルと身震いしたオルテシアは、すぐさま領主としての思考を切り替えた。


「ヴィオラ。今回の大量受注に伴い、クレイ領の生産ラインを即座に拡張いたしますわ」


「御意に。すでに設計図は頭の中に構築済みです」


ヴィオラが手元の羊皮紙を開く。


「現在の反射炉二基では、大剣二千振りと防護板五百枚の納期に追いつきません。ツヴァイクから確保した高品質な鉄鉱石を叩くため、第二・第三の『大型連続反射炉』を増設。さらにセメント工場もラインを二倍に拡張いたします」


「素晴らしいわ。ハンス工兵隊長にも連絡を。ツヴァイクの接収に伴い、行き場を失っていた旧鉱山の労働者や職人たちを『クレイ建設工兵隊』として大量増員・正式雇用しなさい。白いコンクリート道路の延伸と工場の基礎工事を一気に行わせます」


「……承知いたしました。ハンスも『新しい巨大な白い建造物を普請できる』と、歓喜でハンマーを振り回すことでしょう」


ヴィオラの眼鏡の奥の瞳が、新たな大規模インフラ調律への歓喜でギラリと怪しく光った。


*


ツヴァイクからコンクリート道路が延伸された、黒鉄山脈の麓――旧ツヴァイク鉱山。


かつてのツヴァイク鉱山は、いつ落盤するか分からない脆い木組みの坑道、充満する有害な粉塵、そして強欲なツヴァイク前男爵による劣悪な低賃金搾取により、鉱山夫たちが「明日の命も分からない絶望」の中で泥鉄を掘らされていた地獄であった。


だが、クレイ男爵家がこの地を接収してわずか数日。


鉱山は、原形をとどめないほど劇的な「ホワイト技術革命」を遂げていた。


「おい、押すな! 順番にスープを受け取れ!」


「ひええ……肉だ! カブと鴨の肉がゴロゴロ入った熱々のスープだぞ!」


坑道の入口に設けられた巨大な給食テントで、粗末なボロ切れを着ていた鉱山夫たちが、ピカピカのクレイ鋼ボタンがついた丈夫な作業服に身を包み、大盛りのスープ椀を抱えて号泣していた。


ショア湊の海塩、シルト領の甘いカブ、そしてクレイ領特産の鴨ピートスモークを惜しみなく投入した「温かい兵站雑炊」。


かつては凍りついた腐りかけの塩蔵肉すら与えられなかった男たちにとって、それは文字通り「生きていてよかった」と思える奇跡の味であった。


さらに、坑道内部も劇変していた。


ハンス率いる工兵隊が持ち込んだ速乾セメントにより、危険だった落盤地帯はすべて「絶対に崩れない白いシームレス・アーチ」で完璧に補強され、安全性が100%保障されていた。


危険な火薬発破ではなく、ヴィオラが指導した「セメントの膨張破砕技術」と、バルト頭領が鍛え上げた「刃こぼれひとつしないクレイ鋼ツルハシ」が導入されたことで、作業の危険度は激減し、採掘効率は従来の十倍へと跳ね上がっていたのだ。


「月給一クラウン……病気になっても首を切られない終身雇用……粉塵を防ぐ特殊マスクに、作業後の『泥炭スパ』でのデトックスまでついてくるなんて……」


ひげ面のベテラン鉱山夫が、温かい雑炊を啜りながら、ポロポロと大粒の涙をこぼした。


「俺たちを『使い捨てのゴミ』じゃなく、一人の人間として扱ってくれたのは、あの泥湿地のオルテシア様だけだ……!」


「そうだ! 俺たちの掘る鉄が、お嬢様の白い道路になり、世界一のクレイ鋼になるんだ!」


「オルテシア様万歳! クレイ男爵家万歳!!!」


黒鉄山脈の麓に、数千人の鉱山夫たちの地鳴りのような歓声と、揺るぎない忠誠の叫びが響き渡っていた。


*


疾走する超特急の窓の外、遠ざかる黒鉄山脈の山並みを静かに見つめながら、オルテシアは優雅に唇の両端を引き上げた。


(今頃はツヴァイクの鉱山夫たちの胃袋と心を完全掌握出来てるところかしらね)


(安全な設備と高給保障、そして美味しいご飯……ホワイト労働環境こそが、最高の生産性を叩き出す最強の商いの理屈よ!)


(さあ、この無欠の鉄とゴールドを使って、次はクレイ領と周辺の同盟領地を、もっともっと凄まじい要塞都市へ作り替えていくわよーーー!!!)


オルテシアの冷徹で美しいポーカーフェイスの裏で、最果ての地に新たな技術革命の嵐が吹き荒れようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。