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第034話:微笑みの奥に、笑っていない瞳があった

夜会ホールの中心に、円形の特設テーブルが最速で設えられた。


テーブルの上には、大皿に盛られた『カナール・オ・ナヴェ』が湯気を立てている。


その横には、クリスピーに炙られた鴨のロースト。


飲食には、琥珀色のスコッチ・ウイスキーが注がれた、美しいクレイ鋼製のロックグラス。


席についたのは、オルテシア、ブルクハルト子爵。


そして、オブザーバーとして優雅に微笑むアイゼン侯爵夫人(フルネーム:エレオノーレ・フォン・アイゼン)であった。


ホールの周囲では、他の北方武闘派貴族たちが「あの小娘、どうやって子爵と交渉する気だ」と、固唾を呑んで見守っている。


(はーーー!!! やっと、やっと食べられる!!!)


(目の前のカブ、鴨の脂を吸いすぎてめちゃくちゃ黄金色に輝いてるんだけど!?)


(でも、背中のドレスのクレイ鋼骨組みがギチギチ言ってて、猫背でガツンガツン食うのを許してくれない!)


(耐えなさい私の表情筋、世界最高の淑女として、エレガントに、お上品にフォークを動かすのよ!)


オルテシアは、細く白い指先でシルバーを手に取った。


そっと鴨の濃厚な旨味が染み込んだカブを口に運ぶ。


(ふぁぁぁああん!!! 旨味の核爆弾が口の中で大爆発したわ!!!)


(カブが……カブが噛む必要もないくらいトロットロに溶けて、鴨の熟成された濃厚な脂の甘みが脳髄を直接シェイクしてくるんだけど!?)


(美味すぎる! お留守番ルイーゼとヴィオラ、マジでノーベル平和賞ものの煮込み料理をこしらえてくれたわね!?)


(あ、でも調理してくれたのはここの料理長達か!マジ感謝!!さいっこう!北の料理長達ほんっとうにありがとう!!!!)


(スコッチを一口……くぅぅうう!!! スモーキーな香りが鼻に抜けて、鴨の脂を完璧に洗い流して無限に食える!!! 最強の悪魔的な永久機関よこれ!!!><)


オルテシアは、脳内で大歓喜のサンバを踊り散らかしていた。


だが、その表面は、

伏せがちな長い睫毛をかすかに揺らし、カブを一口食しては、静かにグラスに薄い唇を寄せる、氷細工のように冷徹で美しい少女の姿であった。


そのオルテシアの気高い横顔を見つめ、アイゼン侯爵夫人が、穏やかに微笑んだ。


「ブルクハルト子爵。今宵のこの素晴らしい鴨のロースト、そしてカブの煮込み……これらはすべて、そちらのオルテシア様がその白いコンクリート道路を使い、最南端のクレイ領から最速で届けてくださった食材なのですわ」


そう言って夫人は、静かにオルテシアへと、その知性に満ちた双眸を向けた。


その瞳の奥には、すべてを見通した大領主の妻としての、冷徹にして優雅な光が宿っている。


調理場でミリーが金貨の袋を料理長に差し出そうとした、あの不敬ともとれる電撃介入。


主催者であるアイゼン侯爵家に対する重大な不作法。


料理長からその顛末をすべて耳にしていた夫人は、しかし、咎めるような素振りは微塵も見せなかった。


むしろ、目の前に運ばれたこの料理が、そしてそれを可能にした物流と品物の価値が、そのような些細な不敬を塵のように吹き飛ばすほどの劇的な利益をもたらすことを、誰よりも早く、完璧に“納得”していたのだ。


「オルテシア様、この凍てつく北の社交界に、これほど暖かく芳醇な奇跡をもたらしてくださったこと、主催者として心から感謝いたしますわ。……とても素晴らしいおもてなしですこと」


優雅にそう告げたアイゼン侯爵夫人は、羽扇をそっと閉じ、白磁のような指先でスコッチのグラスの縁を、ツ、とゆっくりなぞってみせた。


そして、その知性に満ちた美しい双眸が、ほんの一瞬、オルテシアへ向けられる。


微笑んでいる。


唇の両端は完璧な気高さで引き上げられている。


――だが、その瞳の奥だけは、一切笑っていなかった。


(……あ、あれ?)


オルテシアの背筋に、氷の槍が突き刺さったような、不気味な冷気が走る。


脳裏を凄まじい速度で駆け巡る、前世のビジネス感覚。


(……待って。私、ミリーを送り込んで、金貨の袋を積んで、この夜会のメインディッシュを強引に私のクレイ領の鴨スモークとカナール・オ・ナヴェに差し替えさせたわよね?)


(それって、よくよく考えなくても、この格式高い夜会の主催者(ホスト)であるアイゼン侯爵閣下と夫人の『顔』に、生コンクリートもとい特大の泥を豪快に塗りたくる、とんでもない無作法(不敬)だったんじゃ……!?)


(いくら持ってきた食材が神クオリティでも、他領のぽっと出の小娘が勝手に献立を乗っ取って電撃介入するなんて、ビジネスの常識を遥かに超越したマナー違反だわ!!!)


(大企業の社長主催の創立記念パーティーに、招かれた中小企業の社長(私)が、裏で料理長を買収して勝手に自社商品のレトルトカレーを出させたようなものよこれ!!!)


(あばばばば!!! 完全に終わった!!! 普通なら出入り禁止どころか、一不敬で私の首が物理的にコンクリート道路より硬く固まって吹き飛んでてもおかしくないレベルの不祥事だわ!!!><)


表情を完璧に固めたオルテシアの背中で、冷や汗が洪水のようにだらだらと流れ落ちる。


(お腹空きすぎて脳みそがすっかり空回りしてたわ! や、やっぱり、付け焼き刃の没落令嬢ペルソナじゃ、大貴族の奥方様のこういう『静かな威圧(腹芸)』の引き出しに全然追いつかないんだけど!?)


(本物の上流社交界の洗礼、一からお勉強し直しね、私……!)


(夫人、完璧に『あなたの無作法(スタンドプレー)は全て報告を受けて握っているけれど、この鴨の圧倒的な美味さと、あなたの白い道路がもたらす利益に免じて、今回だけは不問(貸し一つ)にしてあげるわ』って、絶対零度のスマイルで無言の首輪(契約)を押し付けてきてるんだけど!?)


(ひ、ひぃぃぃ! アイゼン侯爵夫人様マジで恐ろしい! これが北を統べる本物の女帝の貫禄……! お腹がグゥ〜と鳴った可愛いお嬢様扱いで許されてなかったら、今頃私は物理的に塵になって消滅してたわ! あっぶな!><)


オルテシアは、内心で激しい冷汗にまみれて絶叫し、己の不作法を猛省しながらも、

死に物狂いで表情筋を制御し、底知れぬ余裕を湛えた、新興の物流勢力のトップにふさわしい冷徹で知的な微笑(ポーカーフェイス)を辛うじて維持した。


言葉の裏に潜む、お上品にハめ殺されたと見せかけ、しかし同時にこちらをハめ返してきた大領主の妻の絶対的な余裕。


不問とされた不敬。


それこそが、自らの商品の価値が主催者のプライドすらも屈服させ、同時に大いなる「政治の貸し」を生み出したことの、無言の証明であった。


それを見たブルクハルト子爵は、女たちの間に流れたかすかな火花(腹の探り合い)を察したのか、驚きに眉を上げながらも、促されるようにカブをスプーンで豪快に掬って口に放り込み、目を丸くした。


「――っ!!!

なんだこれは、これが本当に、あの泥湿地の不毛なクレイ領で生まれた煮込みだというのか!?」


「ええ、子爵。

私たちの領地は貧しい泥湿地ですが、だからこそ、泥炭を用いた独自の燻製と、土壌が育む作物を活かした兵站食を日々研究しておりますの」


「信じられん……!

冬の山砦では、運んでくる途中に凍りつき、腐りかけた塩蔵肉を煮るのが関の山だ。

これほどの美味、そして極寒でも完璧に保存できるスモーク技術……。

戦士たちの士気に関わる。これだけで、一軍を動かす価値があるぞ」


ブルクハルト子爵は、スコッチを喉に流し込み、熱い吐息を漏らした。


その無骨な顔には、先ほどまでの「新興の不気味な小娘」への警戒は一切消え失せ、一人の偉大な物流経営者への敬意が灯っていた。


アイゼン侯爵夫人も、優雅に口元をナプキンで拭いながら、オルテシアに温かい眼差しを向ける。


「オルテシア様。

あなたがお腹を鳴らされるほど、領民のために身を粉にして働いておられた理由が、この一皿だけでよく分かりますわ。

これほど素晴らしいインフラと食、北方の女性たちも、あなたのその健気な努力を支持いたしますわ」


「……恐れ入ります、侯爵夫人」


オルテシアは、頬を微かに薔薇色に染め、恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。


(は、はぎいいいい!!! やっぱり侯爵夫人様マジで恐ろしすぎるんだけど!?)


(表面上はお上品に笑ってくれてるけど、目が! 目が完全に獲物をロックしたハヤブサのそれよ!!!)


(……でも、貴婦人たちが『まぁ、お健気だこと』って信じられないくらい温かい目で私を支持してくれてる。この味方の包囲網の感触だけは、最高に美味しくてガッツポーズだわ!)


(もし、あのタイミングでお腹グゥ〜の大惨事が起きてなかったら、私は今頃ただの『無礼な侵略者のトップ』として社交界から永久追放されて物理的に消滅してた可能性が高いわね。想像しただけで背筋がハンスのセメント並みにガチガチに凍りつくわ!!!)


(本当に、あのハプニングの奇跡にだけは心から感謝するけれど……でもやっぱり、死ぬほど恥ずかしいことには変わりないから、しきゅう! すぐ! じゃすとなうでこのお仕事(商戦)を終わらせて帰りたいんですけどーーー!!!><)


会食が温まり、胃袋が完璧に満たされたところで、オルテシアは静かに本題のチェス駒を動かした。


お財布番のミリーが、オルテシアの無言の合図を受け、

一切の感情を排した冷酷な手つきで、一通の羊皮紙をブルクハルト子爵の前に差し出した。


そこには、クレイ鋼で作られた『野戦迅速防護板』、および『対重装甲用の大剣』の、あまりにも詳細な設計図と諸元が記されていた。


ブルクハルト子爵の眼光が、一瞬にして戦士のそれに変わる。


「……これは、クレイ鋼で作られた武具か」


「ええ。

そちらの『野戦迅速防護板』は、工兵たちがセメント台座と連結し、一晩で鉄壁の防衛線を構築するためのもの。

そして『対重装甲用の大剣』は、不純物を極限まで排したクレイ鋼の靭性により、帝国の重装甲を、刃こぼれ一つせず完璧に両断する仕様になっておりますわ」


「馬鹿な。

帝国の重装甲を両断だと? 我が領の鍛冶師たちが打つ鉄剣は、奴らの鎧に叩きつければ三度でへし折れるぞ」


「それは、王都のギルドが流す劣悪な鉄を使っているからですわ。

私たちのクレイ鋼は、そちらのデモンストレーション用の小剣で、今すぐお試しいただいても構いません」


ミリーが、鏡面磨きされたクレイ鋼の小剣を、ブルクハルトの前にそっと置いた。


子爵はそれを手に取り、その吸い込まれるような鉄の密度、そして信じがたい軽さと、触れるだけで指が切れそうな刃の鋭さに、息を呑んだ。


「……信じられん、これが本物の、鋼……。

ツヴァイクの泥鉄とは、比較にすらならん。

オルテシア殿、これを我が領の山砦に、いくらで売る気だ?」


ブルクハルト子爵の呼吸が、荒くなる。


最前線を守る彼にとって、武器の消耗と防衛板の破損は、そのまま部下たちの「死」を意味していた。


これほどの超兵器、足元を見られて天文学的な額を要求されるのではないか。


子爵が身構えた瞬間、オルテシアは、薄い唇の両端をほんの数ミリだけ引き上げ、底知れぬ確信を湛えた灰色の瞳を静かに注ぎ込んだ。


「売る、だなんて、お上品ではありませんわ」


「な……?」


「私たちは、新興の吹けば飛ぶような物流勢力。

ただ、ツヴァイクから延伸された、この白いコンクリート道路を使い、

皆様が必要とされる物資を、いつでも【適正価格】で迅速に融通できる用意があるに過ぎません」


オルテシアは、静かにグラスを傾けた。


「それを受け取るか否か。

あるいは、これまでの通り、王都の不当な高値のナマクラ剣を使い続けるか。

……お決めになるのは、山砦を守る誇り高き皆様ご自身ですわ」


(キリッ!!! 完璧!!!)


(上から目線で押し売りなんて絶対にしない!)


(『私たちはいつでも融通できる準備があるだけ。選ぶのはあなたたち(微笑)』!)


(この謙虚にして絶対の余裕、相手に決定権があると思わせて、実はこれ以外の選択肢を完全に抹殺する、お上品なハめ殺し(首輪)よ!!!)


(……まぁ、さっきアイゼン侯爵夫人には、もっと頑丈で冷酷な『見えない首輪(貸し)』をはめられた気がするけれど!)


(おのれ、上流貴族の腹芸……! でも今回は、このブルクハルトの大量発注という超弩級の成果を噛み締めて、相殺したということにしなさい私!!!><)


ブルクハルト子爵は、クレイ鋼の小剣と、目の前のカナール・オ・ナヴェを見つめ、

140kmのコンクリート道路がここまで物資を最速で運んできたという事実を、頭の中で繋ぎ合わせた。


このクレイ鋼を装備し、この鴨の兵站食を食えば、山砦の防衛力は十倍に跳ね上がる。


逆に、これを断り、隣のシュトルツ子爵のような古いロジスティクスにしがみつけば、

自分たちは、時代遅れの錆びた盾とともに、北方の雪の中に埋もれて死ぬ。


選択肢など、最初から存在しなかったのだ。


「……ふ。

ふはははは! 降参だ、オルテシア殿!」


ブルクハルト子爵は、大皿の鴨肉を平らげ、豪快に笑った。


「選ぶだと?

そんなもの、我が『鉄鎖の回廊』の戦士全員分、

いや、アイゼン侯爵軍の先陣すべてをこのクレイ鋼で埋め尽くすに決まっているだろう!

今すぐ、野戦防護板を五百枚、対重装甲の大剣を二千振り、正式に発注させてくれ!」


「あら……。

そんなに大量に。……皆様の命を守るため、工兵隊と職人たちを総稼働させて、適正価格で迅速にお届けいたしますわ」


オルテシアは、完璧なポーカーフェイスで頷いた。


(よっしゃあああ!!! クレイ鋼武具、大口受注を完全に合法強奪完了!!!)


(原価ほぼタダのクレイ鋼から、また天文学的なローン返済用ゴールドが私の金庫に最速で還流してくるわ!!! クックック……)


(ミリー、複式簿記の計算、しきゅう! すぐ! じゃすとなうで進めなさい! 脳みそ弾け飛びそうだけど!!!><)


ミリーは、冷徹な無表情のまま、懐から素早く契約書を取り出し、ブルクハルト子爵の前に滑らせた。


子爵は、一切の躊躇なく、そこに自らの印章を叩きつける。


商談は、一瞬にして、クレイ側の完全勝利へと合意したのだった。


*


新興物流勢力「クレイ家」が仕掛けた、海の浚渫から始まる壮大な地ならし、胃袋の支配力、そして無欠のクレイ鋼による「選ばせる」商戦。


ブルクハルト子爵は自らその魅力的な首輪へと足を踏み入れ、


隣領のシュトルツ子爵は、自らの兵站(軍馬)帝国が、クレイのサスペンション付き超特急の前に、足元から致命的に崩れ去る不気味な音を聞いていた。


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