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第033話:氷の微笑を崩したのは、たった一瞬の出来事

最南端のクレイ領から、凍てつく北のツヴァイクまで延伸された、鏡のように滑らかな白いコンクリート道路。


その物理的な血流の起点であり、大型のクレイ鋼装甲艦や輸送船の安全な離着岸を可能にするための大規模な浚渫工事が、ショア領の入江で着々と進行していた。


泥炭式浚渫船が、真っ黒な泥や砂利を、ゴオゴオと唸る泥炭の煙とともに吐き出す光景。


完成の域に近づきつつあったその海のインフラ。


北方の武闘派貴族たちはまだ、その海のインフラが将来もたらす本当の地政学的恐怖を知らない。


*


ツヴァイク元男爵領の主城、夜会ホール。


接収の手続きのために集まった北方貴族たちの軍馬が踏み荒らした、冷たい雪濘の臭いが立ち込めている。


接収されたばかりの主城の石造り回廊には、容赦のない北風が吹き抜け、錆びた鉄と凍てついた石の冷気が重く沈んでいた。


ツヴァイク男爵領がお家お取り潰しになり、アイゼン侯爵領へと接収される暫定的な猶予期間。


この城の夜会ホールで、アイゼン侯爵家が主催する、北方貴族たちの戦後処理と利権確認のための社交夜会が開催されていた。


出席する北方の諸侯は、最前線でヴォルケンガルド軍事帝国と睨み合い、常に命を懸けて戦い続けるバリバリの武闘派集団。


お飾りだけの軟弱な宝石や、ひらひらと無駄に揺れる装飾を胸元にあしらった貴族を、彼らは鼻で笑う。


その無骨な男たちの熱気が満ちるホールの扉が開き、オルテシアが静かに降臨した。


オルテシアが纏うのは、鏡面磨きされた不純物ゼロのクレイ鋼パーツを一部にあしらい、無駄なフリルや余計な宝石を徹底的に排した、美しきドレス。


一切の贅肉を削ぎ落とし、動きやすさを極限まで高めた、実戦向きの気高き機能美。


戦士としての誇りと審美眼を持つ北方の武闘派貴族たちは、一瞬にしてそのクレイ鋼の強靭な輝きと、戦う者のためのドレスの美学を見抜いた。


彼らの無言の眼差しが、新興の物流支配者に対して、静かな、しかし最大級の驚愕と敬意を宿して向けられる。


(ひ、ひぃぃぃ!!! 北方の武闘派軍団、眼光が眼球ごと人を殺せそうなほど鋭すぎて、マジで世紀末の傭兵キャンプに迷い込んだみたいなんだけど!?)


(ていうか何なのこのドレス、背中にクレイ鋼の軽量構造骨組みが入ってるせいで、一ミリも猫背にできない仕様になってる!?)


(背筋を完全にロックされて、私の背骨が限界突破してバキバキに砕け散りそうなんだけど! 痛い痛い!)


(こんなクソ寒い雪山地方の夜会で、肩や背中を露出させなきゃいけないなんてドレスコードが本気で狂ってやがるわ!)


(冷たい風が皮膚を撫でるたびに、お肌が乾燥してハンスの粗悪セメント並みにひび割れて粉々になりそう!)


(ブランカをポータブル湯たんぽにしてこのドレスの裏に仕込みたい!!><)


オルテシアは、脳内で大パニックを起こしながらも、完璧なポーカーフェイスを維持して一歩を踏み出した。


*


夜会が始まる直前、城の地下にある巨大な調理場。


財務監査員のミリーが、オルテシアの差し金により、この城の夜会を取り仕切る気難しそうな料理長のもとへ立っていた。


ミリーは調理場の使用と、今夜のメニューへの電撃介入を円滑に進めるため、ずっしりとクラウン金貨が詰まった革袋を調理台の上に置こうとした。


だが、料理長の目は、ミリーが金貨の代わりに持ち込んだ、もう一つの「貢ぎ物」へと完全に釘付けになっていた。


それは、木樽に厳重に詰められた、クレイ領特産の「鴨のピートスモーク(燻製干し肉)」。


そして、美しく琥珀色に輝く、クレイ領特製の高級スコッチの小さな樽。


料理長は、極上のスモーキーな芳醇さと、極寒の北東部まで腐食を完璧に防いできたその衛生的な乾燥具合、および野生の鴨の凝縮された脂の香りを、鼻を近づけて一嗅ぎした。


ただそれだけで、職人の本能により、その食材が神がかり的な品質であることを一瞬で見抜いた。


「……このような至高の食材を前に、金貨の袋など不要だ」


料理長は、ミリーが差し出した金貨の袋を、静かに、しかし力強く突き返した。


「我が職人の誇りに懸けて、この奇跡的な食材にふさわしい、最高のご馳走をホールへ届けてみせる。その袋は持ち帰りなさい」


ミリーは、その職人としての高き矜持を目元だけで評価し、冷徹な無表情の中に、不敵な微笑みを微かに浮かべた。


「期待しておりますわ、料理長。北方の猛者たちに、本物の『食』という兵站を見せて差し上げましょう」


「私は食を通じてアイゼン閣下をお支えする者。我々北方の者が武芸に秀でるだけでなく”食の技術においても一流”だという事を証明してみせるとも」


*


夜会が始まり、料理長がその魂を懸けて腕を振るった、極上の料理がテーブルに次々と運ばれていった。


皮目をサクサクのクリスピーにローストした、香ばしい鴨のロースト。


その傍ら、主役として大皿に盛られたのは、鴨肉とカブ(ナヴェ)を、赤ワイン、フォンドボー、デミグラスソース等でじっくりと煮込んだ、クレイ領の湿地帯に伝わる伝統的な煮込み料理『カナール・オ・ナヴェ』。


乾燥燻製されていたことで、旨味を極限まで蓄えた鴨肉。


その鴨の濃厚な脂と極上の黄金出汁を、これでもかと吸い尽くし、口の中でとろけるような食感と甘みになったカブ。


一口運んだ瞬間、泥臭い行軍や過酷な防衛戦で疲弊していた北方の武闘派諸侯たちの表情が一変した。


スモーキーでガツンと体に染み渡る高級スコッチとの悪魔的な相乗効果。


「……美味い」「なんだこれは、肉の旨味が信じられんほど濃縮されている」「このカブ、口の中でとろけやがるぞ!」「カブがこんなに美味くなるとは!」


ホール中の猛者たちの喉が鳴り、出席者全員の胃袋が、一切の抵抗を許されず完璧に骨抜きにされていく。


(きたあああ!!! これよ、私の仕組んだ『極上の胃袋兵站テロ』!!!)


(毎日吹雪の中で泥臭い訓練ばっかりしてる北方武闘派おじさんたちが、ピートの燻製香と鴨の脂、カブがとろけるカナール・オ・ナヴェの旨味に勝てるわけがないのよ!)


(ほら見たことか、全員スプーンを握る手が止まらなくなってて本気で草!)


(……って、ちょっと待って、美味しそう……! 私も食べたい……!)


(いいな、みんな……。私、お腹が空きすぎて、今すぐ淑女の仮面を剥ぎ取ってその大皿にダイブしたいんだけど!)


(耐えなさい、私のお腹!! 商談が終わるまで耐え抜くのよ!)


(商談さえ終われば、ミリーに持ち帰ってもらってお腹いっぱい食べるんだから!!!><)


オルテシアは、内心で涎を流しながらも、一切の動揺を見せず、冷徹な美貌を保ち続けた。


*


ミリーが事前に取り巻きたちへ行っていた完璧な根回しにより、ついにその瞬間が訪れた。


最前線である「鉄鎖の回廊」の山砦を死守する武闘派、ブルクハルト子爵との商談セッティング。


巨躯を揺らし、鉄の臭いを漂わせるブルクハルト子爵が、オルテシアの前へと歩み寄る。


オルテシアは薄い唇の両端をほんの数ミリだけ引き上げ、伏せがちだった長い睫毛を静かに持ち上げて底知れぬ確信を湛えた灰色の瞳を、子爵に注ぎ込む。


「はじめまして、ブルクハルト子爵。ラストフォートから、ここツヴァイクまで延伸された、私たちの白いコンクリート道路。

その『最速の血流』が、皆様の足元まで物資を運ぶ準備を整えていることを、ほんの少し、頭の片隅にでも置いていただければと思いご挨拶に伺いましたわ」


「……挨拶、だと?」


「ええ。これだけの猛吹雪、過酷な冬の山砦を維持するうえで、私たちの道路を頼りにされるか否かは、皆様が自由にお決めになることですわ」


最高にスマートに、新興勢力として下手に出てみせる、完璧なポーカーフェイス。


ツヴァイクまでその版図を広げた新興の物流勢力のトップとして、これ以上ない圧倒的なオーラをホールの中心で放った、まさにその完璧にカッコよく決まった瞬間――。


静まり返った夜会ホール全体に、オルテシアの華奢な腹の底から、


「グゥゥゥ〜〜〜〜……」


という、国家レベルのテロと見紛うほどの、盛大で重厚な腹の虫の音が響き渡った。


……静寂。


(いいいやっちまったああああああ!!! ちょっと待ってまって私のお腹、なんでこの最高にカッコよく決まった瞬間に、世紀末の爆音を奏でてやがりますのーーー!?)


(やばいやばいやばい! 恥ずかしすぎて本気で死んじゃう!!!)


(今すぐ床に穴を掘って、ハンスの生コンクリートを頭から流し込んで私ごと永久に固めて埋めてほしい!!!><)


オルテシアは、顔を耳まで真っ赤に染め、長い睫毛を激しく震わせながら、恥ずかしさのあまり俯きかけた。


しかし、その可愛らしいハプニングが、張り詰めた周囲の空気を一瞬で塗り替えた。


「……プッ」「まぁ、お可愛らしいこと」「新興道路を開通させるために、このお若い令嬢は寝る間も食べる間も惜しんで働いておられたのね」「冷酷な新興の支配者かと思ったら、なんと健気で魅力的なお嬢様だこと」


アイゼン侯爵夫人をはじめとする、周囲の目の肥えた貴婦人たちの唇から、次々と温かい微笑みがこぼれ落ちた。


冷徹で不気味な新興勢力のイメージが、一瞬にして「健気で親しみやすい、おいたわしいほど努力する令嬢」へと完璧にロンダリングされた瞬間であった。


ブルクハルト子爵も、一瞬だけ驚愕に目を見開いた後、ホール全体が揺れるほどの豪快な大笑いを発した。


「ふはははは! 戦士たるもの、腹が減っていてはまともな判断などできん!」


ブルクハルト子爵は、嬉しそうに手を叩き給仕を呼ぶジェスチャーをしながら言った。


「オルテシア殿、その鴨とカブの煮込みは、見ているだけでも腹が減る。共にこの料理を食いながら、商談の続きをしようではないか!」


「……え、ええ。喜んで、子爵」


オルテシアは、頬を微かに染めたまま、はにかむような仕草で小さく頷いて見せた。


(よっしゃあああ!!! 腹の虫の音が、神がかり的な親近感プロパガンダに自動翻訳されて、商談の主導権が爆速で私の手元に転がり込んできてマジで神!!!)


(でも死ぬほど恥ずかしい!耐えるのよオルテシア!耐えるのよ私の表情筋!!!><)


こうして、舞台は美味しそうなカナール・オ・ナヴェをハフハフと会食しながらの本格的な交渉へと、移っていった。




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