第032話:慈愛の眼差しの下、”ギル、おんぶ!”と叫んでいた
不毛の山肌を削り取るように建てられた、ツヴァイク男爵領の鉄山ギルド。
その大帳簿を前に、恰幅のいいツヴァイク男爵は、冷や汗で濡れた額を手の甲で幾度も拭っていた。
「バカな……! 今月の銑鉄の取引高が、先月の半分以下だと!? クレイ鋼め、あの泥湿地のゴミ屑どもが、どうやってこれほどの鉄を市場に流しているのだ!」
彼の絶叫は、冷たい風が吹き抜ける部屋のなかに虚しく消えた。
ツヴァイク鉄山ギルドが独占していた製鉄利権は、クレイ領から送り込まれる「半値以下の最高品質の鋼」という、容赦のない価格暴力の前に、一シリングの利益すら生み出せない死に体と化していた。資金流は完全に干上がり、男爵領の商業血管は急速に壊死しつつある。
*
ツヴァイク男爵領を見下ろす、白雪に覆われた山道の傍ら。
冷たいステンドグラスのような冬の木漏れ日のなか、オルテシアはクレイ・ライディングガウンの裾を優雅に揺らしながら、雪の上に立ち止まっていた。
その傍らには、ミリアム――愛称ミリーが、厳しい寒さのなかでも乱れぬ黒髪のストレートヘアをなびかせ、羊皮紙のバインダーを抱えて立っている。
「ツヴァイク鉄山ギルドの最新の財務監査が完了いたしました、オルテシア様」
ミリーは冷徹な微笑みを浮かべ、氷のような美しさで告げた。
「彼らの帳簿は、もはや無価値な羊皮紙の山です。金利の支払いが滞り、主要な取引先もすべて我がクレイ鋼へと乗り換えを済ませました。彼らの破産は、もはや数日を待たずして執行される物理的な必然ですわ」
「素晴らしい手際ね、ミリー。これこそが、帳簿の上で行われる無血の調伏。武器を持たぬ相手を、ただ数字の並びだけで静かに干し殺す……実に合理的だわ」
オルテシアは完璧な淑女の微笑みを浮かべ、優雅に頷いて見せた。
(ミリー、完全にドSの冷酷極まりない表情をしていてマジで最高なんだけど! ツヴァイク男爵のキャッシュフロー、マイナス二百度まで急速冷凍されてて本気で草生える。……って、ちょっと待って! ミリーが流暢に読み上げる複式簿記の数字と金利の計算、私の脳みそが完全に煮えて焼き切れそうなんだけど! やばい! これ以上難しい数字を聞かされたら私、知恵熱を出して雪の中にぶっ倒れそう!><)
脳内で大パニックを起こしながらも、オルテシアはふくらはぎを締め付けるライディングブーツの苦痛を鉄の意志で無視し、静かに山道を歩き始めた。
*
ツヴァイク領の最下層、錆びた鉄屑と石炭の煤にまみれた炭鉱街。
冬の厳しい嵐が吹き荒れる中央広場に、突如として真っ白なコンクリート製の台座が、まるでもともとそこにあったかのような速度で、瞬く間に組み上げられていた。
「よし、迅速にコンクリートミキサー台車を固定しろ! お嬢様の即席炊き出し所を、吹雪が強まる前に完成させるんだ!」
石工ギルドの職人たちが、機械仕掛けのギヤ式ウインチを巧みに操り、コンクリートの一夜盾を築き上げていく。
それは、オルテシア直属の『クレイ建設工兵隊』。戦闘を一切行わず、ただ土木と建築の合理性のみを追求する、お嬢様自慢の専門職集団であった。
「さあ、ツヴァイクの男たち! 温かいスープだ、遠慮せずに食べるといい!」
コンクリート要塞の陰に据え置かれた、鍛冶師バルト特製クレイ鋼フライパン。その上でジュウジュウと音を立てて香ばしい油を弾いていたのは、
かつてクレイ領で随伴の兵士たちが事前に狩り、特産の泥炭でじっくり燻製にして乾燥させ、ハーブ塩で引き締めた『鴨のピートスモーク(燻製干し肉)』であった。
木樽から取り出されたその熟成干し肉を現地のコンクリート竈でじっくりと煮戻すと、凝縮されていた鴨の旨味と芳醇なピートの香りが黄金色のスープとなって溢れ出す。
その鴨雑炊と、香ばしく炙られた鴨肉の厚切りが、飢えと寒さに震える炭鉱労働者たちへ次々と配給されていく。
(はあああん!!! この鴨雑炊、野生の脂とモチモチのレンコンが極限まで絡み合って、マジで最高オブ最高なんだけど! お世辞抜きで美味すぎる! 燻製の香りがスープに溶け出して出汁の暴力が半端ない!
……でも、何なのこの異常な寒さは!? 北東部の山風、冷たすぎて私の華奢なお肌が砂利混じりの粗悪セメント並みにひび割れて粉々になりそう!
お留守番させてるブランカ! ブランカのもふもふの温もりが恋しすぎてマジで死んじゃう! 今すぐ! もふもふスパにダイブしてブランカ吸いたい!!!><)
オルテシアは、内心で涙を流しながらも、一口の鴨雑炊を優雅に嚥下し、炭鉱労働者たちを慈愛に満ちた瞳で見つめた。
その時。
「そこまでだ、不浄な泥湿地の簒奪者ども!」
耳障りな怒号とともに、錆びついた旧式の鉄鎧を身に纏った、ツヴァイク男爵の私兵数十人が、抜剣して広場へと乱入してきた。
「労働者どもを唆し、男爵様の鉱山を乗っ取ろうとするクレイの賊め! 全員切り刻んで、山犬の餌にしてくれるわ!」
炭鉱労働者たちが悲鳴を上げて逃げ惑うなか、ミリーが慌ててオルテシアの前に立とうとする。
だが、オルテシアは少しも動じず、ただ静かに片手を掲げた。
「慌てる必要はありませんわ、ミリー。皆さん、一旦、作業を一時中断してください」
(ひ、ひぃぃぃ!!! 男爵の私兵きたあああ!!! 錆びたナマクラ鉄を振り回して暴れてるの、マジで世紀末の暴徒すぎて洒落になってないんだけど!
ギル! 工兵隊のみんな! あとはよろしく! マジで頼むから私の美しいライディングガウンに一滴も返り血を飛ばさないでね! 本当にお願い!><)
「ハッ! 工兵隊、防護展開!」
職人頭の号令一過、建設工兵たちが戦闘用のクレイ鋼プレートと、コンクリートミキサー台車の鋼製台座を爆速で連結。
ガギィィィン! と重厚な金属音が響き、私兵たちの放った矢や石礫を、一瞬で組み上げられた『鋼鉄コンクリートバリケード(一夜盾)』が完璧に弾き返した。
「な、なんだこの壁は!? 職人どもの盾が、ビクともしねえ!」
狼狽する私兵たちの影から、音もなく、一筋の死神の風が吹き抜けた。
「我が主の前に立ち塞がる不浄なゴミ屑どもが……。身の程を知れ」
バリケードの影から飛び出したのは、オルテシアの絶対の牙、ギルベルト。
彼が両手で構えたのは、鍛冶師バルトが精魂込めて叩き上げた、クレイ鋼の超大剣。
ギルベルトが暴風のごとく大剣を横一文字に薙ぎ払った瞬間、私兵たちの構えていた錆びたツヴァイク鉄の剣が、まるで氷細工のようにもろく、美しく粉々に砕け散った。
「――!」
一瞬であった。
大剣の放つ絶対の物理暴力の前に、私兵たちは悲鳴を上げることなく次々と雪原に血の華を咲かせていった。
わずかに生き残った者たちは闘志を根元から粉砕され散り散りに敗走していった。守りは、まさに鉄壁。
フォン!
ギルベルトは慣れた手つきでその超大剣についた返り血を雪原に追加し、自前の布で丁寧に拭いたのち鞘に納めた。
*
静寂が戻った広場で、炭鉱労働者たちは、一瞬で自分たちを守り抜いたクレイの工兵隊と、圧倒的なギルベルトの武勇、それから何より、手元にある温かい鴨雑炊を見つめていた。
「これより、ツヴァイクの鉄山は、クレイ同盟の管理下に置かれます。我がクレイ家は、不当な労働で喘いでいたあなたたち全員を、温かい食事と月給一クラウンの終身雇用をもって、丸ごと合法的にサルベージ(救済)いたします」
オルテシアの凛とした、しかしどこまでも美しい宣言が、凍える労働者たちの耳に届いた。
「オ、オルテシア様……! このような温かい食事と、まともな暮らしを……! それに、バルトの旦那がクレイ領から送ってくれた手紙に書いてあったことは、本当だったんだ……!
俺たちを救ってくださるというのですか!」
ツヴァイク領で不当な労働を強いられ、バルトを慕っていた若い職人や労働者たちが次々と涙を流し、雪の上に膝を折って、オルテシアに忠誠を誓い始める。
お嬢様は、遠くクレイ領に残るバルトが事前に蒔いていた口コミプロパガンダの種がこの地で完璧に芽吹いたことを確信した。
ギルベルトもまた、その背後で、お嬢様の完璧な間接調伏 ✕ 胃袋調教 ✕ 物理完封のチェス盤に、狂信のギアをまた一段と跳ね上がらせ、恍惚の表情でひれ伏していた。
オルテシアは、そんな彼らを見つめ、薄い唇の両端を小さく引き上げ、伏せがちだった長い睫毛をかすかに揺らして、慈愛を湛えた眼差しを注いだ。
(よっしゃあああ!!! ツヴァイクの熟練炭鉱労働者と鉱山の利権、実質タダみたいな鴨雑炊と月給1Cの終身雇用の首輪で、一人残らず根こそぎゲット完了!!!
これでクレイ鋼の生産ラインが爆速で立ち上がるってもんよ!
……ってか。もう限界。ふくらはぎ! ふくらはぎはぎいいいい!!! ロングブーツの締め付けで足が本気で千切れそうなんだけど! ギル、おんぶ! いますぐ! へるぷみー!
ヴィオラに言うの忘れてたああああああ!!!><)
雪の舞う北方の山道を、オルテシアは完璧な気品を保ちながら、優雅に、そして心の中で悲鳴を上げながら、一歩を踏み出すのであった。




