第026話:流し込んだだけの泥水が、伝統の石畳を叩きのめした
しとしとと降り始めた冷たい小雨と、踏み荒らされた湿った黒土の臭い。
薄暗い手元のランタンが、切り出された石材の無骨な角をぼんやりと浮かび上がらせていた。
夜の闇のなか、泥道は真っ二つに引き裂かれた戦場と化していた。
左半分では、ハンス率いる石工たちが、降りしきる雨のなか、ずぶ濡れになりながら必死に石を切り出し、砂を敷き、巨石を一枚一枚、隙間なく、水はけのことすら忘れるほど完璧な水平を保つよう、狂ったようにハンマーを振るっていた。
「急げ! 手綱を緩めるな! お嬢様に泣きっ面をかかせて、倍の金を分捕るぞ!」
「「おおおおおッ!!!」」
対する右半分。
そこには、一兵の焦りもなかった。
ヴィオラの指揮のもと、粘土と泥砂、そして石灰を調合したセメントに水を加えた『液体金属ならぬ液体コンクリート』が、大量の木製荷車から、ただ泥道へと無造作にドボドボと流し込まれていく。
職人たちがやるべき作業は、流し込まれた泥水の表面を、長い板で「サッ」と平らにならすだけ。
「……え、これだけ? 叩きもしねえ、並べもしねえのかよ……」
液体コンクリートを担当させられた職人たちは、あまりの作業の少なさと拍子抜けするほどのスピードに、半信半疑のまま、あっという間に舗装を終えて寝床へと戻っていった。
夜が深まるにつれ、雨は激しい嵐へと変貌した。
豪雨が容赦なく泥道を叩き、すべてを泥濘の底へと洗い流そうと荒れ狂っていた。
雨上がりの澄み切った寒気と、湿った風が運ぶ生々しい土の匂い。
雲の切れ間から差し込む眩しい朝光が、濡れた大地を真っ白に染め上げていた。
夜明けとともに、オルテシア、ギルベルト、そして徹夜でボロボロになったハンスら石工たちが、泥道の勝負の地へと集まっていた。
「……勝った。勝ったぞ、お嬢ちゃん」
ハンスは、泥と煤で汚れた顔に、折れたプライドを無理やり繋ぎ止めるような、歪んだ勝利の笑みを浮かべた。
彼の指し示す『石畳の道』は、確かにそこにあった。嵐の激流に耐え、巨石たちは泥の中に踏み止まっていた。
「どうだ! これが伝統の石畳の強度だ! ……まあ、ちょっと泥が隙間から噴き出してぬかるんでるが、石は一枚も流されちゃいねえ! 対して、そっちの、ただ流し込んだだけの泥水はどうだ? 今頃、雨に洗われてただの、ぐちゃぐちゃの……」
ハンスの言葉が、そこで凍りついた。
彼がゆっくりと視線を右半分へと向けた瞬間、石工たちのシャベルが、バサバサと音を立てて手元から滑り落ちた。
そこにあったのは、泥濘ではなかった。
そこにあったのは、幅三メートルにわたって、雨水を受け流すための精緻な『水勾配(傾斜)』が左右へと滑らかに施され、継ぎ目一つなく鏡のように真っ白に輝く人工の硬質岩盤(コンクリート道路)であった。
その計算され尽くしたわずかな傾斜が、すべての雨水を両脇へと完璧に受け流し、大雨の翌朝であるにもかかわらず、水たまり一つ、ぬかるみ一つ作っていない。
それどころか、クレイ領の寒気によって完璧に硬化(養生)したその白い滑らかなコンクリートロードは、冬の朝日を白銀の盾のように美しく、眩しく反射していた。
「な……な、なんだ、これは……!? 泥水が……一晩で、本物の石より硬い一枚の岩盤に、成り代わっただと……!?」
ハンスは血の気が引いた顔で、よろよろと白い道路へと足を踏み入れた。
ロングブーツで踏みしめる。
ビクともしない。
ハンスは定規の角で、全力でその白い地面を突き刺した。
――カン、と。
硬質な金属のような高い音が響き、定規の真鍮の角が鈍くへこんだ。対して、白いコンクリートの表面には、わずかな擦り傷すらついていなかった。
「伝統の石畳は、石と石の『隙間』から大雨の水が侵入し、土台の泥を液状化させ、荷重によって必ず石が沈み、地盤を崩壊させます。対してこの『コンクリート道路』は、水を通さないシームレスな一体成形。さらに、中央をわずかに高く盛り上げ、雨水を両脇の排水溝へと受け流す『水勾配』が最初から設計に組み込まれている。応力を地盤全体へと均一に分散し、どれほど水が攻め寄せようとも、絶対に水が溜まらず、沈まず、崩れない完璧な『無欠(舗装)』を宿しているのです」
ヴィオラが、眼鏡の位置を静かに直し、冷徹な解説を付け加えた。
「あなた方が数日かける作業を、私のコンクリートは、わずか数時間で、それも素人の手作業で、一寸の狂いもなく完成させてしまう。……伝統という名の非効率は、これより始まる合理の前に、お役御免ですわ」
己の一生をかけた「定規と槌」が、ただ灰色の粉を水で溶かして流し込んだだけの、圧倒的な物理の暴力の前に、完敗した。
ハンスは、泥だらけの膝を白いコンクリート道路の上に突き、呆然と、ぽろぽろと、涙を流してその硬質な冷たさに素手で触れた。
だが、その涙は絶望ではなかった。
彼ら石工たちの瞳に、いま、狂おしいほどの職人としての渇望と、歓喜に満ちた火が灯ったのだ。
「バカな……なんだこの硬さは、この美しさは……! これだ、俺たちが、王都のギルドで特権階級の豚どもに搾取されながら、何年も重い石を運ばされ、泥まみれになりながら、ずっと積み上げたかった『絶対に崩れない、永遠の道』は、これだったんだ……っ!」
ハンスは泥も気にせず、オルテシアの漆黒の乗馬ガウンの裾に触れることすら恐れ多いというように、白いコンクリートの上に額を激しく叩きつけ、深く、深く頭を垂れた。
「お嬢様……いや、オルテシア様! お願いだ、この白い魔法の泥水を、俺たち『石ギルド』に扱わせてくれ! 俺たちに、この世界中に、永遠に崩れない白い道を敷かせてくれ……っ! 俺たちの魂のすべてを、あなたに捧げる!」
「よろしくてよ、ハンス。存分に、お前のその定規と槌で、私のために白い道を敷きなさい」
オルテシアは、完璧な「領主」としての冷徹な仮面をポーカーフェイスのまま美しく微笑んだ。
だが、その冷たい灰色の双眸の裏側で――彼女の脳内は、再び『プロジェクト〇』のあの圧倒的な大音量のストリングスが脳髄を破壊する大暴走を起こしていた。
(お、お、おーほほほほ!!! 釣れましたわ、またしても極上の大物が!!!
王都のギルドに燻ぶっていた、地盤の基礎と土木の重鎮たちが、自ら喜んで私の首輪(終身雇用)を嵌めにやってきましたわ!
職人の意地なんて、ただの、私のために命がけで世界を築き上げさせるための最高品質のガソリンですのよ!
見てごらんなさい、あの涙に暮れながら『一生白い道を敷かせてくれ!』と叫ぶ職人たちの健気で熱い表情!
これで、不毛の泥湿地を無欠の『コンクリート滑走路』へと爆速で近代化する、最強の土木インフラギルドが完全に私のチェス盤へと固定されましたわ!
かつて前世の夢のビジョンに眠る、鉄とコンクリートで世界中を網の目のように繋ぎ、あらゆるロジスティクスを爆速で支配していた、あの『高速道路』……!
その偉大なる文明の骨格を、この最果ての泥湿地から完全に再現して差し上げますわ! おーほほほほ!!!)
オルテシアは脳内で高らかに高笑いを響かせながら、お上品に、ゆっくりと仮想のチェス盤へと指を伸ばした。
(ルーク(極秘反射炉)という鉄壁の拠点がそびえ立ち、ヴィオラという頼もしいビショップが冷徹に物理の数式を撃ち抜き、ブランカという美しいナイトが風を呼び、そして泥まみれのポーン(職人たち)は、ついに最強の『クレイ鋼』と『コンクリート道路』という牙を得て、新時代の兵器と道路を鍛える永久機関へと成り代わった……。
あとは、この最強の駒たちを、私の指先でただ美しく躍動させるだけ。
王都の羊ども、せいぜい喉を震わせて、私への貢ぎ物となる悲鳴の準備を整えなさい――)
「……こほん」
その時、極めて無味乾燥な咳払いの音が、静寂に包まれた白い道路の上に小さく響いた。
眼鏡の位置を直し、冷静きわまる冷淡な眼差しで、こちら(お嬢様のピクピク動く口元)を窺っているヴィオラからの、無言の警告であった。
ハッ、とオルテシアは我に返った。
(い、いけませんわ! 私、道路の美しさに一瞬だけ意識が前世の高度成長期を支えた超近代コンクリート文明のビジョンに旅立っておりましたわ!)
オルテシアは、まるで何事もなかったかのように「スン……」と表情を瞬時に凍りつかせ、いつもの絶対零度の冷静さを取り戻すと、何食わぬ顔で漆黒のライディングガウンの裾を整え、ゆっくりと踵を返して歩みを進めた。
美しく磨き抜かれた編み上げのロングブーツの先が、純白の、一滴の泥も水たまりも存在しない無欠のコンクリート道路を、お上品に、カツン、カツン、と涼しげな足音を立てて踏みしめていく。
その背後で、もはや領主の姿すら目に入らぬほど狂おしく、ハンスたちは新たな『白い魔法の泥』をこね、泥道全体へと一心不乱にコテを滑らせ始めていた。
朝日に照らされて真っ白に輝く、新時代の滑らかな道路。
ただ、その白銀の光に背を向け、オルテシアは漆黒のガウンを優雅に翻しながら、暗がりのなかで、お上品に、どこまでも冷酷に微笑んでいた。




